君の名は…
「それ以来、母は王妃としての責務を務められなくなったわ。 でも、父はそれを病弱の性にして表には出さなかった。…いえ、出せなかったのね。」
キホクはジッと聞いていた。
出来るだけのイメージを膨らませて、どうにか全てを理解しようと努力していた。 しかしその全てを理解するには、余りにも時間と知識が足りなかった。
フリージアは、出来るだけわかり易くと気遣いながら話し続けた。
「姉さんとは…全く会えなかったわけではないの。 国民の前にさえ姿が知られなければ良いんですから。 でも、姉さんの姿を見ると母はとても辛そうな顔をするの。 だから…姉さんも次第に城を訪れなくなったわ。」
「今までも、入れ代わっていた事があるのですか?」
「いいえ。 カネの塔が初めてよ。 まさか…本当にこんな日が来るとは思わなかった…」
フリージアは悲痛な表情を浮かべた。
「お願いキホク。 姉さんを助けて。 姉さんは、昨日ここを出る時に言って行ったの。 『私は姉として、あなたを守るわ。 だから、スナ国と母と父をお願いね。』と。」
キホクは、居ても立ってもいられない衝動に駆られた。
「今、どこに?」
「姉さんは…」
カチャッ☆
部屋のドアが開いた。
話を聞かれたのかと2人は一瞬固まり、ドアを凝視した。
「!! 母さん!」
ラビリスが使いに支えられフラフラと入ってきた。
「王妃!」
キホクはラビリスの体を支え、椅子へ座らせた。
ラビリスは精神的な苦しみが募り、その体は骨と皮だけにやせ細ってしまっていた。
「キホク…」
弱弱しい声で、ラビリスはキホクに伝えた。
「キホク。 ひとつ、あなたに伝えて欲しい事があります。」
それはラビリスにとって、キホクに全てをかけた一言だった。
★★★
程なくして、キホクは城の裏の森の中に居た。
多分国民の誰もが、足を踏み入れた事は無いその森は、「迷い森」と言う名が付いていた。
道なき道を進んでいくと、やがて小さな湖が見えた。
辺りはすでに日も傾き始め、夕陽の朱が水面をまぶしく波立たせていた。静かな空気が、穏やかな風と波の音と共に包んでいた。
そのほとりに立つと、キホクは声を上げた。
「『フリージア』!! 居るんだろ!? 出て来い!!」
声は湖と木々に吸い込まれるように消え、再び静けさが戻った。
「『フリージア』!!」
2度読んでも出てこない彼女にイラつき、今度はもっと大きな声で…と思った時、後ろの木々がざわめいた。
「!」
振り向くとそこに『フリージア』が立っていた。
その姿は、昨日までの煌びやかないでたちとは全く違い、何とも質素な服に包まれていたが、その瞳には王族らしい輝きが揺れていた。
「何度も名前を呼ばないで! 誰が聞いているか知れないでしょう? それに…どうしてここが分かったの?」
いぶかしそうに見つめた。
それでも、再び出会えた事がキホクにはたまらなく嬉しかった。
「よかった、無事で。」
「質問に答えてないわ。」
「フリージア姫に教えてもらったんだ。 そして、全て話は聞いたよ。」
「…何故?」
「何故って…?」
『フリージア』は不機嫌そうに湖のほとりに腰掛け、背を向けた。
「そんな事、あなたには関係ないはずよ。 あなたは…いえ、あなた達護衛は、『姫を守る事』が使命のはずよ。 それ以外に無いわ。」
「確かに姫はフリージアだ。今、城に居るフリージアだ。 だけど…」
キホクは、湖を見たままの『フリージア』の背を見つめた。
「君も姫だ。」
『フリージア』は少しうつむいたが、すぐに顔を上げた。
「だからってここに来る必要はないはずよ。 あなたは、目の前にある使命を全うしたらいいの。 他に何も考える必要なんてないのよ。」
キホクは、愛想もなく冷たい言葉を投げつけてくる彼女に、胸が痛くなるのを感じた。ただ目の前にある使命を全うする…それは彼女自身にも当てはまることなのだ。 自分達と同じ…。 その事を、もはや彼女は固く受け止めていた。
「帰って。」
目も合わそうとしない『フリージア』に、キホクは何も言えなかった。 いまさら何を言っても、届かない…。 説得する自信が、今のキホクには無かった。
「悪かったよ…邪魔したな。」
『フリージア』は身じろぎひとつせずに湖を見ていた。
その小さな背中を見つめ、キホクは言った。
「ひとつだけ伝えておく。 君は『知らない』と言っていたから…」
2人の間に穏やかな風が撫でていった。
「王妃からの伝言だ。 …君の名前は『アリシア』というそうだよ。」
その肩がピクッと動いた。
「2人が産まれたとき、王妃は君にも名前を付けた。 でもそれが表に出る事は無いことも分かっていた。 王妃はこうも言っていた。 せめて、自分の名前だけでも受け止めて欲しいと。」
アリシアはうつむいたまま何も言わなかった。
「アリシア。俺は君をそう呼ぶから。 君は『フリージア』じゃない。アリシアだ。」
キホクはその場を離れた。 心残りはあったが、自分が居てもこれ以上力にはなれないと思った。 ただ、名前を伝える事が出来ただけでも、心の重荷が取れていた。
アリシアは、背にキホクの気配が無くなったのを感じると、なおも体を小さくした。
膝を抱え、肩をすくめ、震える身体… その瞳からは、ポロポロと涙がこぼれた。
「アリシア…私の…名前…アリシア」
脆いものを抱くように、何度も繰り返した。 周りがやみに包まれるまで、アリシアはそのまま湖のほとりに居た。