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使われたことがないのではないかと疑うほどに真っ白なバスタブに、プリシラが浸かっている。僅かに眉をひそめているが、自らの華奢な身体に困り果てているという訳ではない。
「今夜のうちに片付けるって……これから日が暮れるのに大丈夫かなぁ」
不死の怪物アンデッドは、陽が落ちると活発に行動を始めるものが大半であり、特別な理由がない限り、そんな時間帯に出撃する必要はない。報告書に記そうものならその特別な理由を問い質されかねないが――”目を吊り上げた従者に押し切られました”と答えることは出来ない。
「よし、時間帯はあやふやにしよう」
要は誤魔化すと言うことであるが、虚偽の報告よりは良いだろう――プリシラは自分を納得させるように頷くと立ち上がり、バスタブから出た。そして水栓を開き、熱めのシャワーを頭から浴びる。
(まぁ……ビリーさんの意表を突いて夜間に出撃したっていうのもありかな?)
これも虚偽ではないが本当の理由でもない。結局のところ誤魔化しである。年上のメイドに唇を奪われかけ、それを目撃した年上の従者が目を吊り上げたというのが本当の理由である。
(それにしても、最近のメイドさんは訓練を積んでるんだなぁ)
術が主体とはいえ、プリシラは戦闘訓練を積んだ神官せんしである。目を瞑っていようと不意を衝かれることなどそうはない。仮に相手が暗殺者であっても余程の手練れでなければ――
がらっ!
「!?」
「異常ない?」
バスルームの戸を開けたのはこの村の二人目の余程の手練れ、従者のパメラだった。気を使ったつもりなのか全裸ではなく下着姿である――ドアの向こうから声をかけるという気遣いは意図的に思いつかなかったのだろう。
「……たった今、二足歩行の異常が出現しました」
「え? ああ、お風呂場に下着で入るなってこと? 裸はまずいかなぁって思ったんだけど、余計な気遣いだったみたいね」
「嬉々として脱ぎ始めないでください!」
浴室に反響する叫びも虚しく、パメラは嬉々として下着ショーツをずり下ろした。プリシラは全速力で彼女の下着ショーツを引き上げると、手近にあったタオルを引っ掴み――先ほどの上を行く速度で――自らの体前面を隠した。
「……ていうか、何で下から脱いだんですか?」
「後戻りできないようにしようかと思ったからよ」
「それはどういう意味なんでしょうか」
貞操の危機に直面したプリシラは、防御神術など構築しながらも何とか頭を働かせた。
ここはバスルームである。そして、シャワーを浴びた直後であるため、タイルは思い切り濡れている――この滑りやすい足場で下着ショーツを穿かせるのは困難だろう。
さらに言えば相手はその気がない上に、自分は女性に下着を穿かせた経験がないのだから、穿かせるには相応の時間が必要となるだろう。そうなれば興味が意志を圧倒し、見てはいけない部分を捉えてしまうかも知れない。そして性欲が理性を圧倒することになるかも知れない――
「後戻りできないってそういう意味なんですね」
「ふふふ」
ちなみにプリシラが黙考していた間、パメラはただ立っているだけだった。心の底から楽しくて仕方がないといった笑みを浮かべている彼女を見て――プリシラは気付いた。
「からかったんですね?」
「ええ。あのメイドとイチャついた分を埋めないといけないでしょ?」
「……」
半眼――冷静になったプリシラは、従者の楽し気な視線がタオルに向けられているのにも気がついた。
「……二つ目の異常が出現しそうなので出ていってください」
「もしかして気付かれた?」
「ショック受けたフリとかしないでいいですから、僕の性生活に異常が発生する前に出てってください」
言うや否や、プリシラは自身の体を隠していたタオルをパメラの顔にタオルを被せると、彼女の背中を押してバスルームから退出させた。
そして、
「疲れた……」
「怒っちゃった? でも乱入した理由の三割はあのメイドの侵入を心配したからなのよ」
「五割に満たない『理由』はついで・・・って言うんですよ」
脱衣所から飛んで来た声に嘆息した。
「……祈る相手を間違えたかな」
二度目の嘆息は――パメラが下着を脱ぎ始めた時の映像がちらついたので、少し熱を帯びていた。
・
・
「ご飯も食べたし全力でいくわよ!」
「はい」
入浴と食事を終えた二人は遺跡につながる洞窟の前に立っている。苦悶の表情の見本市は終了したらしく、周囲に死霊の姿は見当たらない。阻むべき対象が存在しない中、プリシラの張った封印神術は、夜の闇に染まった洞窟周辺を寂し気に照らしている。
「あのメイドがイヤらしいことをする前に帰るわよ!」
「パメラさんのイヤらしいことがエスカレートする前に帰るという意見には賛成です」
「いつそんな意見が述べられたのかしら?」
「そ、それはそうと……この時間に不死の怪物アンデッドの遺跡に乗り込むのは不安です」
半眼になったパメラから逃れるようにそっぽを向いたプリシラは、ふよふよと漂う蚊――季節的に別の種だろうが――を目で追いながら不安を口にした。
「あなたは”祈りの国このくに”に十七人しかいない大神官の一人なんだから、自信を持ちなさい」
「はい」
「それに夜って気持ち良いでしょ?」
「そうですね。アンデッドと戦う用事がなければ満喫できるんですけど」
「もう」
どうしても緊張が解けないらしいプリシラに、パメラは肩を竦めた。そして守るように大神官を抱き寄せる。
「何があったって私が守るから安心なさい!」
「ひゃあっ!」
尻を撫でられたプリシラは、くすくすと笑う従者に続き――大神官とその従者は、洞窟を下りていった。
・
・
「……誰もいませんね」
梯子を下りた先の通路には誰も――何・も、と言う方が正確なのだろうが――いなかった。最初に潜入した時に迫って来た腐乱した猟犬アンデッド・ハウンドや腐乱した子犬アンデッド・ワフワフどころか、白骨死体の壁スケルトン・ウォールさえ出迎えては来ない。
「休肝日につき閉店だとしたら……良心的ね」
パメラは冗談など飛ばしながらも、鋭い視線で周囲を警戒している。そんな彼女に心強さと温かさを感じつつ、いつでも防御神術を展開できるようにプリシラも呼吸を整えた。
「進みましょう」
「ええ」
並んで歩む二人が死霊の酒場の扉を開くまで、彼らは不死の怪物アンデッドと遭遇することはなかった。
・
・
「ひゅー!」
『……』
天井に設置された巨大な水晶球は以前と変わらずに青白い輝きを放っており、その周囲では夥しい数の下位の死霊フライング・ヘッドたちが、ぐるぐると飛びまわっている。休肝日につき閉店という訳ではないようだが、酒場は静まり返っていた。片隅のテーブルでリアーナと冒険者たちが、いびきなどかいているが、他には誰・もいない――いるのは不死の怪物アンデッドが一体だけである。
「あんだけの騒ぎを起こしておいてまた来るたぁ……見上げた図太さだぜ! ひゅー!」
酒場の扉を開けたプリシラたちを待ち受けていたのは――何というか、黒のジャケットに身を包んだ動く白骨スケルトンだった。黒皮の帽子に黒のジャケット。そして黒のズボンに黒の革靴――闇に生きる不死の怪物アンデッドを体現したような黒一色の服装である。
「……何か意味がありそうですね」
「お嬢さん! 俺ぁ店の面倒ごとをお片付け・・・・するのが仕事……いわゆる黒服ってやつなのさ! ひゅー!」
「なるほど。意味は分かりました」
「私は『ひゅー』っていう掛け声の意味を先に聞きたいわ」
「ひゅー!」
「少しうざいですね」
「少し? 主張すべき時は、はっきりと言って良いのよ」
「超うざいです」
向けられた二人分の半眼など、まったく意に介していないのか――黒ずくめの動く白骨スケルトンは、気障ったらしい仕草で帽子を押さえながら顎関節を、かたかたと鳴らした。
「つまりお前らには消えてもらうってことさ……悪く思うなよ、白ずくめのお嬢さん!」
「指摘を兼ねて木っ端微塵に吹き飛ばします」
「ひゅー! 威勢の良いお嬢さんだぜ!? この高位の死霊スペクター・ガネル様を誰だと思ってるのやら!」
「ガネル」
「ガネルさん」
「ふっ……ちょっとした間違いミスでこのザマさ。ヒトの世は俺が肉付きだったころと何も変わっちゃいねぇようだぜ?」
言い当てられた――と言うか何というか――ガネルは帽子を目深に被り直すと、何やら寂しに呟いた。頬骨が赤く染まっていたので、恥ずかしかったのだろう。
「揚げ足を取るつもりはなかったんですけど……すいません」
なんとなく気まずくなったらしいプリシラは軽く頭を下げ――そして別の間違いミスを指摘することにした。にこりと笑みを浮かべると、圧倒的なまでの火力を編み上げる。
「僕は男です」
指摘し終えたプリシラが右手で宙を薙ぎ払った瞬間、酒場にいくつもの炎が灯った。純白で、直径は数十センチほどである。そのどれもが”闇”を祓う聖なる奔流。この広い酒場を一瞬で浄化可能な高等神術――
「閃光の風ホワイト・ウェイブ!」
「ひゅー! 消えちまいな!」
「え!?」
だがしかし、ガネルが指を、ぱちりと鳴らした瞬間、酒場に灯っていた全ての炎は蝋燭が吹き消されるように消滅してしまった。
「神術が相殺された!?」
「ひゅー! お嬢さんとはいえ遠慮しねぇぜ! 死にやがれ!」
神術を放った直後でプリシラは動けない。飛び掛かってきたガネルに対し、
「死を拒絶したくせに『死ね』なんて言うものじゃないわ!」
床を蹴ったパメラが、プリシラを庇うように前に出た。