第八十三節 別れは出会いの始まり
ビアンカと幼いハルは手を繋ぎ、迷いの森にある“喰神の烙印”を伝承する隠れ里へ歩みを進める。
微かに日の光が射し込むだけの仄暗い雰囲気を纏った迷いの森の中に、その場所とは不釣り合いな――、ハルがビアンカに質問責めをして、談笑する声が聞こえてきていた。
「お姉ちゃんは、里の人じゃないよね。今まで会ったこともないし。外から来た人なの……?」
ハルはビアンカを見上げながら、問い掛ける。
伝承の隠れ里は然程大きな集落ではないため、里の者同士が殆ど顔見知りに近い状態にある。
そのため、ハルにとってビアンカが里の外から来た人間だということは、分かりきっていることではあるのだが――、ハルは何故か、そのことをビアンカに聞かずにはいられなかった。
「うん、そうよ。――新米の『調停者』様が、色々な里を見て周るお仕事を任されていてね。私は、その護衛役として一緒に周っているの」
ハルからの問い掛けに、ビアンカは言葉を選びながら――、自分自身が、今この世界のこの場所にいることに対して、不自然のない嘘の答えを返していた。
(――“新米”なんていうと、ルシトが怒りそうだけどね……)
三百年以上も『調停者』の任を担っているルシトを、『新米の』――と言ってしまったビアンカは、自分で口にした言葉に内心で嘲笑してしまう。
「じゃあ、里に来ていたのも……、偶々なんだ?」
「そう。偶々、ね。この里に来る機会があって……。今日、初めてここに来たの。また、私は他の場所へ行かなくちゃいけないのよ」
ビアンカからの返答を聞き、ハルは表情を微かに曇らせる。
そのハルの様子に――、ビアンカは気付いていなかった。
「そっか……。それじゃあ、次はいつ会えるのか、分からないのか……」
表情を曇らせたハルは寂しげに、ぽつりと言葉を零した。
ハルの言葉を聞き、ビアンカは足を止める。
「お姉ちゃん……?」
急に歩みを止めたビアンカを、ハルは不思議そうな面持ちを浮かべて見上げる。
そんなハルの目線の高さに、ビアンカは身を屈め――、愁いを帯びる翡翠色の瞳でハルを見つめた。
――次に出会えるのは……、六百年以上も、先のことになってしまうのよね……。
幼いハルを見つめながら、ビアンカは思う。
ここは“喰神の烙印”の呪いの力によって誘われた、六百年以上もの過去の時代である。
この先、ハルの身には様々な出来事が起き――、そして六百年以上の時を経て、ビアンカと再び邂逅を果たすことになるのだと。ビアンカは思い馳せる。
「きっと……、また会えるわ。ハル……」
不意に――、ビアンカは幼いハルを抱きしめ、呟く。
突然のビアンカの行動に、ハルはキョトンとした面持ちを見せ、抱擁を甘んじて受け入れていた。
(六百年以上経った後に、ハルが出会う私は……、今ここで彼と出会った私ではないけれど……。ハルを助けたことで……、こうすることで、また彼と出会える未来へと繋がるんだ……)
ビアンカは、過去の世界で自身の取ってしまった未来への流れを変えかねない介入行為が、正しいものであったと実感していた。
もしものこととして、迷いの森を彷徨い、欲深い狼たちに襲われていたハルをビアンカが助けられなかったら――。
そのような事態になっていたとしたら。この後の永い時を経た未来の世界で、ハルとビアンカの出会いは、決してあり得ないものとなっていたであろう。
それらを思い、ビアンカは険悪感を抱いていた“喰神の烙印”の呪いが起こした事象に、粋な計らいだと――、微かに感謝の念を抱く。
「お姉ちゃん……、泣いているの……?」
ハルは自身を抱きしめているビアンカの頬が、濡れていることに気が付いた。
ハルの発した言葉にビアンカは、はたと我に返り、ハルの小さな身体から身を離す。
そうして、自らの頬を指先で触り――、自身の頬が濡れていることを感じ取る。
ビアンカは気付かぬ内に、その翡翠色の瞳から涙を溢れさせていたのだった。
「お姉ちゃんも、お別れが寂しいって……。そう思ってくれているの……?」
涙を零すビアンカを目にして、ハルは問い掛ける。
そのハルの問い掛けの言葉は、ハル自身もビアンカと別れることが寂しい――と。そのような意味合いを含んだものであった。
「そうね……。お別れは……、寂しいわ……」
ビアンカは、瞳から零れ落ちる涙を拭うこともせず、ハルの問いに涙声で答えていた。
(――もう涙なんて、枯れ果ててしまったかと思っていたのに……)
これから、この幼いハルが距てていく遠い未来――、ビアンカの生きていた時代。その時にビアンカは、ハルの死を眼前にしなければならない。
そのことを知っていながら、ビアンカは――、この幼いハルと別れなければならなかった。それは、ビアンカの心に深い悲しみの感情を抱かせる。
そうして――、ビアンカはハルを看取ったことで、その時に涙など枯れ果ててしまったと思っていた。
それ故に、自身の父親――ミハイルの死や、ウェーバー邸に仕えていた者たちの死を察した際も、ハルの死に対してのショックが大きかったためか、感情が希薄になり、涙一つ零すことができなかったのだった。
だけれども、ビアンカは――、再び涙を流すことができていた。
「お姉ちゃん、泣かないで――」
大粒の涙を零し、微かに嗚咽を漏らすビアンカを、ハルは心配そうに見つめる。
「お別れは……、次の出会いの始まりなんだって。爺ちゃんが言っていた。だから――、泣かないで……」
ハルは言うと自らの服の袖口で、ビアンカの頬を伝い落ちる涙を拭ってやる。
それは――、これから訪れる永い時間の先にある未来の世界で、ハルが自身の死の間際に、彼の取った所業に嘆き悲しむビアンカに対して行った行為そのものだった。
そのことを思い出し――、ビアンカは、胸が締め付けられるような思いを感じる。
「俺、大きくなって里を出られるようになったら、お姉ちゃんに逢いに行くよ」
ハルは少年らしい笑顔を見せ、右手の小指を立ててビアンカに向けた。
「だから、お姉ちゃん。約束――」
「うん。約束ね、ハル……」
そんなハルの約束の言葉にビアンカは涙声のままで答え――、ハルの差し出してきた小指に自身の小指を絡ませる。
「俺さ。ずっと――、お姉ちゃんのこと想っているから。どこにいても、絶対に探し出して逢いに行くから。待っていて」
ビアンカに笑顔を向けるハルは、自身の発した言葉に照れくさそうな様子を見せつつも、その赤茶色の瞳に強い意志を宿していた。
ハルの言葉と、強い意志を宿した瞳。それを目にして、ビアンカはあることに考え至る。
(――もしかして……、ハルが“喰神の烙印”の呪いを継承して、六百年以上もの永い時を生きてまで……、成し遂げたかったことって……)
ビアンカと再び巡り合うこと――。
それが、ハルに頑なの思いを持たせ、自身の父親と“喰神の烙印”の継承権を巡って争い、“喰神の烙印”を継承して不老不死となり永い時を生き続け――。そして、彼の心を折れさせず、突き動かしていた理由だったのだと。
ビアンカは――、今まで疑問に思っていたことに。その答えに行きついていたのだった。
(ハルは――、ずっと私のことを想って……、“喰神の烙印”と共に生きていたんだ……)
その答えに思い至ったビアンカは――、また涙を流しそうになる。
だが、目の前にいる幼いハルに心配をかけさせまいとして、泣くことを堪えていた。
「――待っているわ、ハル……。また、あなたと出会えることを……」
「うん。絶対にまた逢おうね、お姉ちゃん」
ビアンカは微かに笑みを浮かべ、ハルの身体を再び抱きしめる。
抱きしめられたハルも嬉しそうな笑みを見せ、その小さな手でビアンカに抱きつくように、彼女の背中に腕を回し――、二人は抱擁を交わすのだった。




