第七十五節 魂の解放の儀
太陽も完全に落ち、辺りが静寂の夜闇に包まれた頃だった――。
十七の月齢――、満月と呼ぶよりも僅かに欠けた月の様子を窓際に立ち確認し、ルシトは真剣さを帯びた眼差しをビアンカに向ける。
「――そうしたら、そろそろ“魂の解放の儀”を始めるとしようか……」
静かな声音で紡がれるルシトの言葉――。
ルシトの発言を聞き、ビアンカは緊張の面持ちを見せて頷く。
ビアンカは寝室に置かれたベッドの端に腰を掛け、自身の膝の上に置いた両の手をギュッと握りしめる。
その握りしめられた手からは革の手袋が外されており――、ビアンカの左手の甲に刻まれた“喰神の烙印”の赤黒い痣が、室内のランプが放つ灯りの下に照らされていた。
夜になり、“魂の解放の儀”を執り行うことになってから、ビアンカは左手の甲――、“喰神の烙印”が疼く感覚を覚えていた。
まるで、“喰神の烙印”が、これからビアンカの行うことを嘲笑っているような意思を伝えてきており、ビアンカは険悪感から唇を噛む。
「……私は、何をすれば良いの?」
強い決意を心に宿しても、不安を完全に払拭できないのだろう。
ビアンカはルシトのことを、不安の色を纏った瞳で見上げる。
「あんたは“喰神の烙印”に意識を集中させて、ただ眠っていてくれれば良い。その間に僕が――、あんたの意識を“喰神の烙印”の意識の中に送り込む」
ルシトは言いながら、自身が身に纏う緑色の法衣と同じ色の――、緑色の宝石が先端に埋め込まれた杖を持ち出していた。
「この家の周囲には結界を張らせてもらった。これで、邪魔者は来ない――」
ルシトはそこで言葉を切り、一巡――、何かを言うか言うまいか悩むように口籠った。そして――、やや間を置いてから意を決し、また口を開く。
「万が一――、あんたが“喰神の烙印”の呪いに意識を囚われて、呪いが暴走することになっても、里には被害が然程出ないように措置はしてある」
ルシトが言い放った言葉に、ビアンカは眉を寄せる。
「失敗する可能性も……、あるのね……」
ビアンカが不安げに零した言葉。それにルシトは小さく頷いた。
不安を抱き心が不安定になることで、“魂の解放の儀”は失敗に終わる可能性を孕んでいた。
それ故に――、ルシトは先ほど、ビアンカに本当のことを伝えるべきか。それを悩んでいたのだった。
「あんたには“喰神の烙印”からの嫌がらせ――、“試練”が立ち塞がるだろう。何しろ、あんたがやろうとしていることは……、その呪いが蓄えている“餌”を奪いに行くようなものだからな」
「試練……」
ビアンカはルシトの発した言葉を繰り返すように口にする。
禁忌とされる“魂の解放の儀”。それが一筋縄ではいかない――と、ビアンカは覚悟をしてはいた。
だが、さようにして口に出されると、ビアンカの不安感は増すばかりであった。
「それに打ち勝つことが出来なければ、あんたは“喰神の烙印”に意識を乗っ取られ……、呪いは暴走する。そうなったら――、僕は……、あんたを始末しなければいけなくなる」
そこまで言うとルシトは、不意にビアンカに向けていた赤い瞳を彼女から逸らす。
「――呪いの力を恐れず、心を強く持て。そして……、僕にあんたを手に掛けるような真似はさせないでくれ」
ルシトはビアンカから目を逸らしたまま、苦渋に近い表情をあらわにしていた。
そんなルシトの様子を見て、ビアンカは呆気に取られたような面持ちを一瞬浮かべ――、次には眉根を下げ、困ったような様相を窺わせる微笑みを見せる。
「ルシト。心配してくれて、ありがとう。私は――、頑張るわ」
ルシトからの不器用な優しさを察して、ビアンカは内心でくすぐったさを感じ――、不安感は拭いきれないものの、決心の色を示唆させた。
ビアンカの言葉を聞き、ルシトは再び彼女に目を向け、静かに口の端を釣り上げる。
「良い覚悟だ。僕もできる限りのサポートはさせてもらうから――、頑張ってこい」
「うん。必ず……成功させてやるんだから――」
ビアンカはルシトからの激励に大きく頷き、力強い声音で応じるのだった。
◇◇◇
「<――我、“風の申し子”として命ずる……>」
凛とした良く通る声で、ルシトは“魂の解放の儀”を執り行うため、魔法の言の葉を紡ぐ。
ビアンカはルシトの口から紡がれる魔法の詠唱を、ベッドに横になり瞳を伏した状態で耳にしていた。
紡がれる言葉を聞きながら、ビアンカは自らの左手の甲に刻まれる“喰神の烙印”が――、蠢くような反応を示す気配を感じ取る。
(――私は、あなたにだけは、負けたくない……)
“喰神の烙印”の蠢きを身に感じながら、ビアンカは心中で強く――、呪いに語り掛けるように思いを募らせた。
“魂の解放の儀”に挑むための不安。それがビアンカの中から、完全に払拭されたわけではなかった。
しかし、何をしてでもハルの魂を呪いの束縛から解放させたい――。
そうした強い思いが、今――、ビアンカの心の中を占めていた。
「<彼の者に宿る呪いの軛に縛られし魂を解放する力を。ルシト・ギルシアの名の下に――風よ、存分にその魔力を振るい示すが良い――>」
ルシトが持つ杖の先端――、緑色の宝石が淡く光を発し、彼は魔法の詠唱を締める。
それと同時に――、窓の閉められている寝室内に、ルシトを中心として一陣の風が吹き乱れ、ビアンカの頬を風が撫でていった。
瞳を伏せたままのビアンカは、頬を撫でつけた風の中に甘い香りを感じる――。
何の香りだろうか――と、ビアンカは思う。だが、その先の答えにビアンカの思考が至ることはなかった。
何故ならば、吹き乱れた風の中にビアンカが甘い香りを感じた瞬間に――、ビアンカの意識が眠りの中に落ちていたからであった。
規則正しい寝息を立て始めたビアンカを目にし、ルシトは「ふう……」――と、静かに溜息を漏らす。
「――あとは……、あんたの心の強さ次第だ。ビアンカ……」
どこか疲れた様子を見せ、ルシトは呟く。
そうしてルシトは、ビアンカの眠るベッドの傍らに腰を掛け、ベッドを背凭れ代わりにして寄り掛かる。
床に座り込んだルシトの腕の中には、魔法を使う際に用いていた杖が抱きかかえられたままになっており――、それを手放さないことで、彼が未だに魔力を行使している状態であることを窺わせていた。
「これだから……、強い魔力を行使しなくちゃならないことは嫌いなんだ。身体が疲れて仕方ない……」
舌打ち混じりにルシトは一人、悪態の言葉を零す。
魔力を自身の命の源としている存在であるルシトにとって――、その魔力を行使し続ける行為は、自らの命を削る所業であると言っても過言ではないものだった。
(――だけれど、何故だろうか。こいつにだけは手を貸しても良いと……。そう思ってしまったんだよな……)
ルシトは自身の中に抱いた感情に疑念を覚える。
(あくまでも僕は――人形と同じだ。あいつの魔力で作られた仮初めの魂のイレモノ。感情というものを持つこと自体、おかしな話なのに……)
何故かビアンカを放っておけない――。そのような義務感とは違う感覚を、ルシトはビアンカに対して感じていたのである。
そのため、様々な自身の知りうる知識を与え、ビアンカが動きやすい状況を作り上げていた。
――これも、あいつの見越した運命の流れの一環だとしたら……。反吐が出るな。
自身の考えた事物にルシトは眉間に深い皺を寄せ、忌々しげな思いを抱く。
不愉快な感情を振り払うように、ルシトは再び深い溜息を吐き出す。
そして、静かにその赤い瞳を伏せたのだった――。




