第七十節 束の間の休息
ルシトが立ち去った後――。
たった一人――、静かな室内に残される形になったビアンカは、深く溜息を吐き出した。
ビアンカは愁いを宿した眼差しで、灯りに照らされる室内を一巡見渡す。
目に付くのは――、必要最低限に置かれた家具のみ。
玄関を入ってすぐに、大きめのテーブルと二脚置かれた椅子。
そして、室内の隅に置かれた大きな本棚いっぱいに並べられた大量の書籍の数々――。
奥には小さいながらも、調理場と思しき場所が目に入った。
室内には扉が二部屋分あり、ビアンカは足を運び各々の部屋を覗き見してみる。
一つは寝室で、もう一つは湯浴みなどのできる浴室兼用の、多目的に使用する部屋になっていた。
どの部屋を見て周ってもビアンカは、この家屋でハルが暮らしていたという気配を察する。
その理由は、ウェーバー邸にあったハルの部屋の雰囲気と、この家屋の中の雰囲気が一致すること。そうして――、ビアンカが室内にハルの匂いを見出していたからであった。
「ハルの暮らしていた家に来ることになるなんて……、不思議な巡り合わせね……」
ビアンカは、自身の左手の甲に刻まれる“喰神の烙印”の痣に目を向け、独り言ちる。
「“喰神の烙印”の継承者が――、この里の里長にならなければいけないだなんて……、私、思ってもいなかったわ……」
ルシトから言われた言葉を思い返し――、ビアンカは“喰神の烙印”の内に存在するハルに語り掛けるように言葉を零す。
“喰神の烙印”に自らの魂を差し出したハルには、多くを語る時間がなかった――。
だが恐らく、ハルがもっと“喰神の烙印”の呪いに関する事由を、ビアンカに教えてやりたかったであろうことは――、ビアンカにも分かってはいた。
――きっとハルは、何もこの子について教えられなかったことを、悔いている……。
“喰神の烙印”の痣を見つめながら、ビアンカは思う。
それは、ハルが死の間際に『もっと色々と“喰神の烙印”の呪いのこと、教えてやりたいんだが』――、と口にしていたことからも、推し量ることができた。
ビアンカは口を閉ざし、これから自身が行おうとしていることに思いを馳せる。
「私は、これから……、ここに暮らす人々の期待を裏切ることを行うわ。ハルと――、あなたと再び出会うために……」
小さく呟きながらビアンカは、“喰神の烙印”の刻まれた左手の甲を、慈しむように撫でる。
「……初めて、大人たちの言うことに逆らって。自分の決めた道を歩もうと思う――」
幼い頃から父親――ミハイルや、ウェーバー邸に仕えていた大人たちの言うことに従い、“決められた道”という人生を歩んできたビアンカ。
だが――、ビアンカは、“自分自身で決めた道”を歩んでいこうという決意を、その翡翠色の瞳に宿していた。
(――でも、それには……きっと、多くの困難が立ち塞がると思う。私の心は弱いから……、上手く乗り越えていけるかは分からない……)
ビアンカは自分自身の心の弱さを自覚していた――。
それ故に――、“喰神の烙印”の導きや囁きに惑わされ、リベリア公国を滅亡に追いやってしまったと考えていた。
勿論、リベリア公国を滅亡に追いやったことに――、“喰神の烙印”からの惑わしを受けただけで、ビアンカ自身の私怨が全く無かったのかと言われれば嘘になるだろう。
(あの時、確かに私は……、自分の想い出の地ではなくなってしまった国なんて――、滅びてしまえば良いと思った……)
――『全ての咎は――、私が引き受けるから』
リベリア公国を滅ぼす直前に、ビアンカが“リベリア解放軍”の真の統率者であったヨシュアに対して紡いだ言葉。
(ヨシュアに……、言った言葉は――、他の誰かにリベリア公国を滅ぼさせて罪を背負わせるくらいならば……、私が咎人になって、永遠に生きれば良いという思いからだった……)
その時のビアンカの思いは――、“喰神の烙印”から聞こえた囁きの声など関係なく、間違いなく彼女の本心だった。
(私は――、咎人だ。多くの人々を死に追いやった。その自覚だけは、持っていないと……)
それらを考えてビアンカは、何度目になるか分からない溜息を吐き出す。
「――とりあえず、ルシトに言われた通りに休まないと。そうじゃないと……、明日の朝にルシトが凄く怒りそうな予感がするのよね」
“喰神の烙印”を見つめ、ビアンカは微かな笑みを浮かべていた。
◇◇◇
ビアンカは、里の者によって用意されていた食事を久方ぶりに摂り――、たった一人で食べ物を食べるということに、味気のなさと寂しさを感じていた。
ウェーバー邸での食事の際は、ミハイルが不在であってもハルが常に食事に同席し、給仕係としてメイドたちの姿もあった。
一人で食事を摂るということは――、ビアンカに望郷の念を強く覚えさせる。
そうして――、ビアンカは食事を摂りながら、自身の身に起こったある変化に気付いていた。
(――お肉……、食べられなくなっちゃったな……)
話し相手のいない中、黙々と食事をしていたビアンカであったが――。
ビアンカは、用意されていた食事の中にあった肉料理だけは、どうしても身体が――、心が受け付けなくなっていた。
せっかく用意をしてくれた食事なのだから――と、そう思い、意を決して肉を口に運んだものの、それを受け付けることができず吐き出してしまっていたのだった。
(リベリア公国で色々なものを見てしまったせい……、かな……)
切り分けるだけ切り分けた肉料理を、フォークで突きながらビアンカは思う。
噴水の支柱に吊るされていた、首から上の存在しない少女の亡骸――。
リベリア王城前の晒し台に置かれたリベリア国王や、新王妃の晒し首――。
父親であったミハイルの、頭だけになってしまった姿――。
ビアンカが目にしたリベリア公国での生々しく凄惨な事柄の数々は、ビアンカの精神を確実に蝕んでいた。
そのため――、ビアンカは“肉”というものを見て、酷く気分の悪い気持ちを被る。
不意に思い出してしまった荒廃したリベリア公国の情景を振り払うように、ビアンカは小さくかぶりを振った。
「――仕方ないか。勿体ないけど……、お肉は残そう……」
ビアンカは呟くと――、野菜にのみ手をつけ、食事を終えるのだった。
その後――、ビアンカは湯浴みを済ませ、ビアンカが里に訪れることを見越し、準備をされていた寝室のベッドに漸く横になった。
寝室内にも漂うハルの気配と匂い――。
それらに懐かしさと安堵感を、ビアンカは胸の内に抱いていた。
――やっぱり、ハルのことを近くに感じると安心するな……。
灯りを消し、月明りが窓から差し込むだけの薄暗い部屋で、ビアンカは左手を掲げ上げる。
仄かな月明りの下でも、ビアンカの掲げ上げた左手の甲に刻まれる“喰神の烙印”の赤黒い痣は――、はっきりと見て取ることができた。
「ルシトの言っていた『心の安定を図ること』――。ここでなら……、できそうな気がするわ……」
ビアンカが一番に信頼をし――、想いを寄せ、愛した存在であるハル。
そんなハルのことを身近に感じられる家屋に案内されたのは――、ビアンカにとって幸運だったのか不運だったのか。ビアンカには分からない。
ただ、ビアンカはハルの気配と匂いを感じることで、束の間の“安息”と言う名の休息を、取ることができたのだった――。




