第六十節 帰郷
ビアンカは、徐々に近づいてくる馬の足音に耳を澄ませる。
(――馬は一頭……? 一人だけ……?)
ビアンカの耳に聞こえる馬蹄の音は、一頭分のみだった。
そのことを不思議に思いつつも、ビアンカは短剣を強く握りしめ――、震えそうな身体を叱咤し身構える。
――もしかしたら、“リベリア解放軍”の偵察かも知れない……。
“リベリア解放軍”――反王政派の者たちは、リベリア公国の将軍――ミハイルの娘であるビアンカを、確実に仕留めようとして狙っていた。
弓を放ってきた“リベリア解放軍”の男たちは――、ビアンカの背に矢が刺さった現場を目撃している。
ビアンカの傷の状態では彼女が助からないと考え、“リベリア解放軍”の者たちは、あの時は追手を寄こさなかったが――、何らかの事情があってビアンカが死亡したという確たる証拠を探しに偵察に訪れた――。
そんな可能性が――、ビアンカの脳裏を掠めていた。
(――馬の影が見えてきた……)
静かに構えを取ったまま立ち、馬の足音が近づいてくるのを耳にしていたビアンカ。
そんなビアンカの遠目に見える距離にまで、馬の影が近づいて来ていた。
だが――、段々と近づいてくる馬の影を目にして、ビアンカは眉を顰めた。
(馬に……乗り手がいない……?)
ビアンカの視界に映る、遠く向かって来る馬には――、乗り手がいなかったのだった。
確りとした足取りで近づいてきた馬の姿を目にし、ビアンカは驚いた表情を見せていた。
「オルフェーヴル号……っ!!」
自らの元に駆け寄ってくる馬の姿を見て、ビアンカはそれが自身の愛馬――オルフェーヴル号だと気付き、声を上げた。
オルフェーヴル号は――、リベリア公国で“リベリア解放軍”の襲撃を受けた際に、ビアンカがハルからの指示に従い、その場から逃がしてやっていた。
だが――、オルフェーヴル号は自らの意思で、自身が乗り手として認めたビアンカの元へと、再度戻ってきたのであった。
近づいてきたオルフェーヴル号を見て、ビアンカは安堵の気持ちを抱いたのと同時に――、あることに気が付く。
「あなた……、私の棍を持って来てくれたのね……」
オルフェーヴル号は、その口で――肩から担ぐために紐で括られたビアンカの棍を咥えていたのだ。
ビアンカは手に握っていた短剣を地面に落とし、オルフェーヴル号に歩み寄る。
そして――、オルフェーヴル号の咥えていた棍を受け取った。
「――あなたは、本当に優しい子ね……」
棍を受け取ったビアンカは、オルフェーヴル号の馬体に抱きつき、その身体を優しく撫でてやった。
ビアンカに撫でられたことでオルフェーヴル号も嘶きの声を上げ、ビアンカの身体に鼻面を摺り寄せる。
「ねえ――、オルフェーヴル号……。ハルがね……、逝ってしまったわ……」
人肌とはまた違う、動物の温かさを身に感じながら――、ビアンカは悲しげな声音で言葉を零す。
ビアンカの発した言葉を理解したのかは定かではないが、オルフェーヴル号は、樹木に寄り掛かり――眠っているかのように穏やかな顔をしたハルの亡骸に、真っ黒な瞳を向けていた。
すると、オルフェーヴル号はビアンカから離れたかと思うと、ゆっくりと歩みを進め――、ハルの亡骸に近づいていく。
そうして――、まるで最期の挨拶をするかのように、オルフェーヴル号は鼻面をハルの亡骸に近づけ摺り寄せた。
「――あなたは、私が誘拐された時に……、ハルと一緒に来てくれたんだものね」
その様子を見つめていたビアンカは――、自身がホムラに誘拐された際にハルがオルフェーヴル号を駆り、訪れたことを思い返す。
ハルは――オルフェーヴル号のことを、『気性が荒すぎて乗りにくい馬だった』と言っていた。
次には、オルフェーヴル号がビアンカの乗馬の練習用の愛馬だと知り、『良くあんな気性の荒い馬を乗りこなしているな』――、と半ば呆れ気味に言葉を零していた。
だが、ビアンカは気付いていた――。
このオルフェーヴル号が、気性の荒いだけの暴れ馬ではなく――、こうして死者に弔う気持ちを持つ優しい性格をしていることを。
「もう……ハルが、目を覚ますことはないわ……」
オルフェーヴル号が優しくハルの亡骸に擦り寄る仕草を見守り、ビアンカは呟く。
ビアンカの哀愁を感じさせる声音の言葉に反応し、オルフェーヴル号は鼻孔を開き、鼻を鳴らした。
鼻を鳴らしたオルフェーヴル号は、今度はビアンカの元に歩み寄り――、まるでビアンカを慰めるかのように馬体を擦り寄らせる。
「……本当に、あなたは優しい子ね」
オルフェーヴル号の慰めるような仕草に、ビアンカは微かに笑みを浮かべる。
「オルフェーヴル号。あなたが来た――ということは、私を迎えに来たのよね……」
ビアンカは自らに擦り寄ってくるオルフェーヴル号を見上げ、声を掛ける。
(――この数日間、何をしたら良いのか……、ずっと悩んでいた……)
ビアンカはハルから離れがたい思いもあり、幾日もの間――、ずっとハルの近くにいた。
しかしながら――、オルフェーヴル号が訪れたことにより、一つ――思いついたことがあった。
――リベリア公国の様子を見に行こう……。
リベリア公国の城門前で“リベリア解放軍”に強襲を受け、国の城下街に足を運ぶことは不可能だった。
果たして、リベリア公国の城下街や――、自身の家であるウェーバー邸がどのようになってしまったのか。
それが――、ビアンカにとって気掛かりなことだった。
(……お父様にも会えていないわ。屋敷のみんなも……、どうなってしまったのか。確かめないと……)
ビアンカは、自らの父親――ミハイルにも会えていないことを思い出す。
ウェーバー邸に仕えていた者たちの安否も――、リベリア公国から逃走の際、ハルは諦めろと言いたげな仕草を見せていたが、ビアンカは気になっていた。
(一度――、様子を見に、お家に帰ろう……)
意を決した光を宿すビアンカの瞳は――、樹木に寄り掛かるハルに向けられる。
「ハル……、私、行ってくるよ……」
ハルに歩み寄りながら、ビアンカはハルに言葉を掛ける。
「あなたを……、ちゃんと埋葬してあげられないことを――、許して……」
ハルの元に歩み寄り、その傍らに傅くように膝を曲げ――、ビアンカは包帯代わりにするために引き裂かれ、辛うじてケープ風のマントとしての形状を保っていた自身の旅装を、そっとハルの亡骸に掛けてやった。
「――マントの代わりに、これ……、借りておくね」
いつの頃か――、それは満天の星の下でビアンカが、ハルの外套を借りる際に発した言葉だった――。
今も、ビアンカの言葉が示していたのは――、ハルが好んで着ていた黒い外套のことであった。
ビアンカは、ハルの身に着けていた外套に袖を通す――。
ただ――、男物の外套故にビアンカには大きいため、その袖口は何重にか折られることとなった。
ビアンカの左手の甲に刻まれる赤黒い痣――、“喰神の烙印”が見え隠れする長さまで――。
「――リベリア公国の様子を見てきたら、また戻って来るから……」
ビアンカは言うと――、冷たい亡骸となったハルの唇に自らの唇を寄せた――。
温かさも何も感じない口付けではあった――。
そのことに物悲しさを感じつつ――、ビアンカはハルから離れる。
「……それじゃ、いってきます」
ポツリとビアンカは言葉を零し、踵を返す。
ビアンカは後ろ髪を引かれる思いで、オルフェーヴル号に跨り――、リベリア公国へ帰郷するのだった。




