第四十二節 悪夢の予兆②
「ビアンカ……」
ハルが安堵感の混ざった声音でビアンカの名前を呼ぶ。
ビアンカは心配そうな面持ちを見せたまま、ハルの額に浮かぶ冷や汗をハンカチで優しく拭ってやっていた。
「ハル、凄くうなされていたから。大丈夫……?」
ハルの顔を覗き込むビアンカは、その翡翠色の瞳に憂虞の色を滲ませていた。
ビアンカはハルに膝枕をしてもらった状態で眠りについていたが、それから暫くして――ハルのうなされる声で目を覚ましていたのだった。
冷や汗を額に浮かべ苦悶の表情を見せ、うなされて眠るハルを目にしたビアンカは驚いた。
そのような状態のハルを目にすることも初めてであり、夢で酷くうなされている人物を目にするのも初めてであったため、ビアンカはどうするべきかと考えていたのだ。
ビアンカが困惑し、思案をしている内に、ハルは唐突に目を覚ました――。
だが、余程夢見が悪かったのか、息を荒げ――、額に大粒の汗を浮かべるハルを見兼ねて、ビアンカは自身の持っていたハンカチでハルの額に浮かぶ汗を拭ってやっていたのだった。
(――夢で……、良かった……)
ハルは、ビアンカが自分自身の目の前で生きている存在として、この場にいることに安心をしていた。
ハルの荒くなった息も漸く整った様子を見せてはいたが、まだ夢の内容を思い出すと身体が震える感覚を思い返してしまう。
ハルは無意識の内に――、革の手袋を嵌めている左手の甲を右手で強く握りしめていた。
「……ハル、手が痛むの?」
そんなハルの仕草に気が付いたのか、ビアンカがハルの左手に触れようとした――。
「――触るなっ!!!」
ビアンカがハルの左手に触れようとした瞬間――、ハルはビアンカの伸ばされた手を思い切り振り払ってしまった。
――辺りに、振り払った手同士の当たる音が鳴り響く。
「――――っ!」
ビアンカは痛みを伴うほど、力強く手を振り払われたことに驚愕した表情を見せる。
まさかハルから、そのような所業を受けるとは思ってもみなかった――と、ビアンカの表情は物語っていた。
「あ……」
ハルは、驚いた顔をして払い除けられた手を押さえたビアンカを目にして、ハッと我に返った。
そうして振り上げてしまった手を下ろし、ハルは後悔ともつかない表情をその顔に浮かべる。
「ごめんな……」
ハルは力なく、小さな言葉でビアンカに謝罪を口にした。
「ううん……、私こそ、急に触ろうとしたから。ごめんね」
ハルの謝罪の言葉に、ビアンカは眉根を下げ、困ったような複雑そうな表情で微かな笑みを見せる。
ビアンカはいつ頃からか、気が付いてはいたのである。ハルが――左手に触れられるのを嫌っていることを。
そのハルの左手に不意に触れようとしたために、伸ばした手を振り払われた――と、ビアンカは察していた。
「――ちょっと、悪い夢を見たんだ……」
ハルは木の幹に寄り掛かり、深く息を吐き出しながら呟いた。
「……怖い夢、だったの?」
「ああ……。怖くて……、悲しい夢だった……」
ビアンカの問いかけに、ハルは意気消沈した弱々しい声音で答える。
そんなハルの返答を聞いたビアンカは眉を寄せ、困惑した様子を窺わせた。
「どうした……?」
急に困惑の表情を浮かべたビアンカを目にして、ハルは不思議に思い、ビアンカに声を掛ける。
「泣くほど、怖い夢だったの……?」
「え……?」
ビアンカが再び問いかけてきた言葉が、ハルには一瞬意味がわからなかった。
だがハルは――、ビアンカの言葉で気が付いた。
ハルは自分自身が気付かない内に、その赤茶色の瞳から涙を流していたのだった。
いつか訪れるであろう、恐ろしく悲しい未来を予兆する夢――。
近しい者たちを死に至らしめる呪いの宿命に抗っても、その時が必ず訪れる――、そうハルに突きつける夢。
ハルは夢の内容に、強い絶望感を抱いていた。
それ故――、ハルは気が付かぬ内に涙を零していたのだ。
「……悪い」
ハルは小さく言葉を零すと、目元を右手で覆った。
しかし、手で隠しても――、ハルの瞳からは涙が止めどなく溢れ出ていく。
何とか抑えていた身体の震えも、遂には抑えることができなくなっていた。
「ハル……」
初めて目にするハルの弱々しい姿に、ビアンカは戸惑い見守ることしかできなかった。
(――そんなに怖い夢だったの……?)
泣いている様をビアンカから隠すように目元を手で覆い、静かに涙を流すハルを見て、ビアンカは思う。
するとビアンカは、不意に何かを思い出したような状相を見せる。
そして、意を決したかのように動き――、ハルの身体を優しく抱きしめていた。
「ビ、ビアンカ――ッ?!」
ハルは、突然ビアンカに抱擁を受け、驚きから思わずうわずった声を上げてしまう。
だけれど、ビアンカはハルの驚きの声を無視して、ハルの肩に頭を寄せて両腕をハルの背に回していた。
「ハルが泣いているから……。こうすれば、少しは落ち着くかなって思って……」
ビアンカは優しげな声音で言いながら、ハルの背中をさする。
「――昔ね。お母様が、私が怖い夢を見て泣いている時にね……。よくこうやって、ぎゅって抱きしめてくれたのよ」
ビアンカは涙を流すハルを見ていて、自身の母親――カタリナとの、幼い頃の出来事を思い出していたのだった。
ビアンカが言葉にした通り、彼女も幼い頃――、夜中に恐ろしい夢を見て泣いて起き出した際に、母親であるカタリナに抱きしめてもらい慰められた。
その時の安堵感はビアンカの中で、今も色褪せることなく残っていた。
――『優しく温かな人肌に触れることが、人の心を癒す』――
ハルは、昔に読んだ何かの本の一文に、そのように書かれていたなと思う。
実際にビアンカに抱きしめられ、彼女の温かさを身に感じ、ハルはそのぬくもりに安心感を心の中で覚えるのだった。
「ありがとうな、ビアンカ……」
ハルは涙声になりながら、自身を慰めようとしてくれるビアンカに礼の言葉を述べる。
「泣きたい時はね、沢山泣けば良いと思うの」
ビアンカは小さく呟いた――。
「――そうすれば、涙と一緒に、嫌なことも怖かったっていう思いも。全部流れていっちゃうのよ……」
「そう……だな……」
ビアンカの優しい諭しの言葉に、ハルは再び自身の瞳から涙が溢れ出してくることを自覚していた。
「ごめんな、ビアンカ……。暫く――、このままでいさせてくれ……」
「うん……、大丈夫だよ……」
ハルはビアンカの身体に両手を回し抱きしめ、ビアンカの肩に自身の顔を押し付ける。
そうして――、嗚咽混じりに、再び溢れ出した涙を堪えることなく流し始めていたのだった。
再び静かに泣き出したハルの背中を、ビアンカは優しくさすってやっていた。




