第十節 乳母②
四年前の前話から現在パートに戻ります。
ウェーバー邸の一角にある、太陽の光が射し込み明るく暖かなガラス張りの談話室――、周りに緑が生い茂る温室。
暖かいその温室で、ビアンカが貴族の令嬢らしい趣味の一つ。刺繍に打ち込んでいた。
「できたっ!!」
ビアンカは嬉々とした声音で言うと、ハンカチを両手で広げる。
ビアンカの広げたハンカチの片隅には、見事な刺繍が施されていた。それは――、淡いピンクの花弁と緑の葉がモチーフの刺繍だった。
「はー……。意外と器用なんだな、ビアンカ」
ビアンカが刺繍をしている間、静かに見守っていたハルは感嘆の言葉を零した。
「“意外と”は余計なんですけど」
ハルの言葉に、ビアンカはムッとした様子で返す。
「あはは、悪い。――ところで、その花って桜の花だよな?」
桜の花――。
その花は、元々、東の大陸から更に東へ、海を渡った先――。オヴェリア群島連邦共和国と呼ばれる小さな島々が集まり、一つの国となっている。そんな地域に生息する樹木に咲くものである。
リベリア公国のある東の大陸でも数えられる程度ではあるが、その桜の樹木がオヴェリア群島連邦共和国から持ち込まれ、植樹されて存在しているらしいことは、人伝ではあるがハルも聞いたことがあった。
「そうだよ。桜の花――、春に咲く花……」
まるで詩の一節を紡ぐように言うと、ビアンカは照れくさそうに笑う。
「ハルの花、だなって思ってね。縫ってみたの」
ビアンカは言いながらハンカチを丁寧に折り畳み――、ハルの手を取ったかと思うと、彼の掌の上にそのハンカチを置く。
ハルは手渡されたハンカチの刺繍に視線を落とし、淡い桃色をした刺繍糸で縫い込まれた五枚の花びらの部分を指先でなぞる。
(――俺の花、か……)
ハルは自身の名前である“ハル”と季節の“春”をかけ、ビアンカが桜の花の刺繍を施していたとは考えてもみなかった。そのことに気付いたハルは、何とも言えない温かな想いが、胸の内に灯るのを実感する。
「私は桜の花って本の絵でしか見たことないんだけどね。ハルは旅をしていたから、本物の桜って見たことあるんじゃない?」
「ああ……、昔――、見たことがあるな」
ビアンカの問い。それにハルは静かに答える。
ハルは旅をしている間、縁があってオヴェリア群島連邦共和国――、かつては統一されず小さな島国が存在していた故、“群島諸国”と呼ばれていた地へ渡ったことがある。その際に本物の桜の花を目にしたことがあった。
だが、ハルが群島諸国を訪れた時。その小さな島国の点在する地は戦争の最中であり――、咲き誇っていた桜の花を感慨深げに眺める余裕など無かったと思い返す。
「いいなあ。私もいつか本物の桜の花を見てみたいな……」
ハルの言葉を聞いて、ビアンカが羨ましそうに呟く。
――いつか、一緒に見に行こう。
そうビアンカに言ってやりたいハルだったが、言い出しかけて口を噤む。
その言葉を言い出したところで、約束を守ってやれる確信がハルには無かった。果たせない約束を交わし、下手にビアンカに期待を抱かせてしまうことが酷だと――。ハルは思う。
「ハルにあげるね、そのハンカチ。お誕生日プレゼントのお返し」
「え?」
思い耽り黙り込んでいたハルに、ビアンカは不意に言い出した。
「ハルは後々、お父様の“盾持ち”をしに行くでしょ……。だから――」
「戦場に行く騎士や戦士へ、無事に戦場から戻れるように。――そう願いを込めて女性から普段身に着けている物や自分で作った物をお守りとして持たせる。そのような風習があるのですよ。ハル坊ちゃん」
ビアンカの言葉に被せるように、突然マリアージュが声を掛けてきた。
「わっ、マリアージュさん。いつの間にっ!」
不意打ちに声を掛けられて、ハルは驚いた声を上げる。
「そろそろ休憩でもいかがかしらと思いまして」
温室に訪れたマリアージュは茶器の乗ったトレイを手にして、悪戯めいた笑みを浮かべていた。マリアージュの表情を見る限り、恐らくワザと今のタイミングで温室に訪れたのだろうとハルは察する。
「ビアンカお嬢様も、素敵な刺繍が出来上がりましたね」
ハルに手渡したハンカチに施された刺繍を目にし、マリアージュは言う。
ビアンカは自身の作品をマリアージュに褒められたものの、自身で言おうとしたことをマリアージュに被せるように言われてしまい、頬を膨らませて不満げな表情を見せていた。
「もー、マリアージュってば。せっかく言おうとしたこと、先に言わないでよっ!」
ビアンカは文句の言葉を口にするが、マリアージュは「ふふっ」――と笑うだけで、その文句に対し、どこ吹く風と言った様子だった。
「ビアンカお嬢様がミハイル様より先に、ハル坊ちゃんへ贈り物をされるとは。私、思ってもみなかったですよ」
マリアージュは言いながらトレイをテーブルに置き、紅茶の入ったティーセットをビアンカとハル、それぞれの前に置く。紅茶の爽やかな良い香りが二人の鼻腔を擽った――。
ハルはマリアージュの言った言葉を聞き、内心驚いていた。まさかビアンカが自身の父親であるミハイルの戦場での無事を願うことよりも先に、ハル自身の無事を願う意味を込めた贈り物をしてくるとは思っていなかったのだ。
「お父様にはお母様が昔に贈った物があるじゃない。だから……、ハルには私から何かあげたいって思ったの」
ビアンカは置かれたティーカップに手を伸ばしながら言う。
そのビアンカの頬はほんのりと朱に染まっており――、どこか照れた様相を窺わせる。
そんな様子で言葉を発したビアンカに、マリアージュは「あらあら……」と笑う。
「ハル坊ちゃんも隅に置けないですねえ」
「いや……、まさか俺も、そんな意味があるとは思ってなくて……」
マリアージュのからかいの意味を含んだ言葉。そして、ビアンカの照れた様子を目にし――、ハルも釣られるように照れくさい気持ちになり、頬が火照るのを自覚していた。
「本当お二人は仲の良い兄妹のように健やかにお育ちになって。私は喜ばしい限りですわ」
ハルとビアンカの様子を見て、マリアージュは微笑ましげに笑う。
四年前――。ハルが初めてウェーバー邸に訪れた際、ハルに対して険悪感と敵対心に似た思いを抱いていたマリアージュだった。だがしかし、ビアンカとハルが日々仲睦まじく過ごしている様を目にして、ハルに対して当初抱いていた敵意のような気持ちは、今やすっかりと消えていた。
マリアージュは生来の大らかな性格から、今では――ハルをも自身の本当の息子のように可愛がり、ハルとビアンカの関係を仲の良い兄妹のように見ているのだった。
「さあさあ。そうしましたら、ビアンカお嬢様。次はミハイル様にも贈り物のお守りを作ってさしあげてください」
「うん。勿論そうするわ」
その後、マリアージュの教授の元でビアンカはミハイル用にと再び白地のハンカチに刺繍を行い始めた。
元々ビアンカは手先が器用だった。昔からマリアージュに教えられながらビアンカが楽しげに針仕事を行う姿を、ハルは幾度となく目にしてきていた。
それは、ハルの知る限りの――、ビアンカの嗜む、唯一の少女らしい趣味と言ってしまっても過言では無いだろう。
ビアンカとマリアージュの様子を、出された紅茶を飲みながら見守りつつ。ハルはビアンカから渡された、桜の花の刺繍が施されたハンカチに再び目を落とす。
(誰かから無事を祈るお守りなんて貰ったのは初めてだな。――こんなに嬉しいものなんだな……)
ハルは思いを馳せながら、顔が嬉しさに緩みそうになるのを必死で抑えていた。




