第110号哨戒艇物語
それはまだ空きの暖かさが残る冬の始まりの頃のこと。私はその日、ある田舎の村を訪れていた。日本海に面したある漁師町…田舎と言えば田舎ではあるが、車で30分もすれば大型の貨物船が停泊する港町がある。そんな感じの所だ。
そこに、一人の老人が住んでいる。若い頃は商船乗りだった。世界中の海をタンカーや貨物船に乗って巡ったのだという。そしてかつての戦争にも参加していた。私の追う、有る船のことを最もよく知る人物
かなりの高齢ではあったが、老人の背筋はまだピンとしていたし、ボケもなかった。彼は私を海の見える縁側に座らせた。
「あのことか・・・懐かしいね。昔も昔、大昔のことだ。」
「さて、話すはいいが、どの辺から話したモノか・・・」
老人は一言そう言うとパイプを加え、火を付けた。その姿は、非情に様になっていた。禁煙とかが叫ばれる昨今であるが、やはりタバコというモノは場の演出ができる小道具たり得ているのだと私は認識した。
「あれは、内地じゃボチボチ寒くなり出す頃のことだったかな。そう、丁度今頃のことだ。向こうじゃまだまだ頃のことだった」
冬を知らせる冷たい空気を含んだ風に支援を流しながら、徐に老人は口を開いた。それが、これから話される物語の始まりであった。
1939年の初夏に始まった戦争は、1945年になる頃には流石に終わりが見えはじめていた。一時期モスクワに迫ったドイツ軍は、いまや東西両面から挟撃を受けており、ポーランド国境付近にてソ連軍との消耗戦を続けていたし、大博打であったラインの守り作戦も結局失敗してしまった。
極東に目を向ければ、日本はというと、ソロモン周辺での戦いに敗退して以降は坂道を転がるような敗北が続いていた。1944年4月には絶対防衛戦のチョークポイントであったマリアナでの戦いに敗北し、米軍は日本本土を爆撃するための拠点を得た。またその年の10月にはレイテ湾に侵攻。戦艦武蔵、扶桑、山城などの数多くの主力艦艇を損失し、日本海軍はその主戦力の過半を損耗する結果となった。自棄のヤッパチで体当たり攻撃を行うも、はっきり言って焼け石に水であった。
そして、それよりもやばいことはフィリピンが陥落しそうであると言うことだった。日本は言うまでもなく資源輸入国であった。そのため、戦争が勃発して以降はもっぱら東南アジアの資源を手に入れることで何とかやりくりしていたのだが、フィリピン陥落によってその輸送ルートが途絶する危険があったのだった。
そんなわけで、今のうちにかき集められるだけの資源を日本国内に輸送する必要があったのだが、この頃既に東南アジアから日本へと向かう航路には米英軍の潜水艦部隊が展開しており、Uボートみたいな郡狼戦術を用いることで多数の商船を沈めて日本への資源輸入ルートを締め上げにかかっていた。
それに対応するため、日本海軍は海上護衛総隊を編成して船団護衛を行うこととなったのだが、元々の艦艇が少ないことや、船団護衛のノウハウが少ないこと、ソナーなどの索敵機器の性能が低いことなどの数々の問題があって、十全な対応ができてはいなかったのだった。(それでも、第二次大戦初期のイギリス海軍並の活躍はできたと考えられる)
追い詰められた日本は、今のうちに資源の輸送を行うべしと言うことで、南方にいた商船をひっかき集めて即席の船団を作って内地に還送する作戦を決行した。それは所謂「南号作戦」と呼ばれるものだった。僅かな数の護衛艦艇(それでも無理矢理やりくりして絞り出した)と訓練を行ったことがない上に性能もバラバラな商船である。これを悲劇的と言わず何というのであろうか
そんな輸送船団を守る護衛艦の一隻に110号哨戒艇という。日本海軍が南方に侵攻した際、現地を守っていた米英欄の艦隊と何度か戦うことになったわけであるが、その仮定で何隻かの艦艇を拿捕することに成功していた。110号もその一隻で、元の名を『ヴィット・デ・ヴィット』と言った。元々はオランダの『ヴァン・ガレン級駆逐艦』の一隻で、スマトラに停泊していたときに空襲を受けて沈没。その後、日本軍によって浮揚、修理されたものだった。
俺は別に江田島の兵学校出じゃなくてな、商船学校出だったんだ。なんで商船に何年も乗ってな、平和だったときは大連航路を行っていたもんよ。ところが戦争が始まってな、海軍さんの船乗りが足りなくなったってんで俺も召集食っちゃったわけ。で、アドミラリティ諸島とかニューギニアだったかなぁ・・・俺達が現役で船乗りやってた頃には主要航路から外れて絶対近寄りもしなかったあたりによく行かされたものでな・・・なんどか海水浴する羽目になったワイ。同期も大勢くたばった。そうこうしている内に戦争も悪くなった19年の半ばだったかな?丁度あのとき俺はスマトラにいたんだ。船がボカ沈しちまってよ。仕方ねえからそこで迎えの船を待つことになったんだが・・・そんとき海軍さんから呼び出し喰らったんだ
老人はパイプをすって一呼吸置くとまた口を開いた
「110号哨戒艇の艇長に任命する」ってなさっきも行ったが、俺は江田島出じゃない予備士官よ。一応船長経験もあるが30にもならない若造よ。それを艦長にするってんだ。俺ビックリしちゃった。訳を聞いたらよ、本当はもっと経験を積んだ奴か正規士官を配置する予定だったらしいんだが、そのクラスの士官はこの前に発生した海戦で帰ってきた船の士官が死んだり怪我したりしたし、その穴埋めに回されちまったし、他は護衛船団の司令部つくるっていって引っ張ってかれたらしい。俺より経験のある奴もいたことはいたが、そいつはもっと大型の船の船長に回されたからってんで適当な奴がいなかったんだ。で、俺に白羽の矢が立ったわけ。そりゃそうだろうよ。新品の少尉や経験の薄い中尉ごときに艦長が務まるかって言いたかったんだろうよ。だったら俺は良いのかと聞きたくなったね。
で、いってみたはいいがその時もまた驚いたね。船に乗っている奴はその殆どがド素人だった。海軍さんたち、クルーもいないってんで沈没した船や陸戦隊からひっかき集めてきたらしい。機関や航海には俺達と同じように沈没した商船乗りも結構いたな。さすがに鉄砲撃ちは本職の奴が乗ったな。確か砲術長の栗原ってやつはなんだったっけ・・・そう、元々潜水艦乗りだったらしい。伊号潜水艦でなインド洋で暴れていたらしいんだが盲腸にかかったらしくってよ、スマトラで降ろされた後そこで書類仕事をしていたらしいんだ。あん時は中尉だったかな?俺より歳は下だった。唯一の正式な士官だったかな?後は俺みたいな予備士官。だから先任士官を兼任してたな。潜水艦のりってんだから幽鬼みたいな陰気くさい奴かなと思ったんだが意外に明るい奴だったな。
訓練は2ヶ月くらいかな?じっくりできたな。何しろ燃料は腐るほどある。で、シンガポールからサイゴンに向かう船の護衛もついでにやってたっけ?ついでに、米とかも俺達の船に積み込んでな。何しろ船がないんだもの。ちょっとでも積み込まなきゃやってられんっていわれたよ。俺達の船は一応その時28ノットは出たんでな。ちょっとした軍艦並みのスピードだぜ?いや、あの船は軍艦だったな。でオランダさんのモノだったが良い船だった。ところでそいつにはちょっと変わったところがあってな、なんというか、飛行機を乗っけていたんだ。乗っけていたのは95式水偵っていってまぁ、水上飛行機だわな。カタパルトがなかったから飛ばすことは殆ど無かったけど
で、20年の初め頃かな?輸送船団が編成されるってんで俺達も出動することになったんだ。目的地は門司。ひっかき集めたタンカーやらある程度修理の完了した艦艇をかき集めて内地に回航するって言われたんだ。それに俺達も参加したんだ。でもよぉ、士気は結構低かったぜ?なんせ噂なんだが俺達の前に出発した船団はタンカー改造水上母艦とか駆逐艦とかの護衛が7ハイもついたのに、香港に着く前にぼこぼこにやられたって話が俺達の所に来たんだ。加えて、俺達は前の船団に加入し損ねた船を拾い集めながらいくってんだ。無茶苦茶だろう?俺も何度か遺書を書いたがあのときは本気で死ぬかもって思ったなぁ・・・
そういった老人の表情はどこか達観したようだった。
彼が言った船団の名前はスモ108船団。スバラヤを出港してミリを経由して最終的に門司に至る船団だった。船団の内容は、タンカーが3隻とミリ行きの貨物船1隻。護衛は海防艦2隻に哨戒艇106号、110号、そして駆逐艦清霜。清霜は先に発動した礼号作戦に参加していたのだが、その時に艦橋から前を破壊されてしまい、ここでは仮の艦首をくっつけての参加となっており、とりあえず残ったモノをかっさらうというモノだった。
船団は1945年3月20日にスバラヤを出港。途中、ミリにて4000トン級タンカー一隻を拾い、そのまま島伝いに航行を続けることになった。昼間は110号から発進した哨戒機が船団の上空を飛んで最も恐るべき敵である潜水艦を捜索し、夜になると泊地に入って夜を明かすというものだった。
最初の内は、何とか無事に行けたんだ。潜水艦は飛行機が出てくると爆弾が落とされると思って慌てて潜るだろ?で、潜っちまえばこっちのもんよ。潜水艦は一端潜ればスピードが遅くてなぁ、8ノットもでねえ。で、船団はその都度スピードを8から10ノットくらいにしたから簡単に振り切れた。夜は港に入れば潜水艦は近寄れねえし。ところがだ、海南島を越えてルソンと大陸の間の海峡を言っているときだ。ボチボチ夕暮れが迫っていたかな?丁度その時タンカーの一隻の汽罐が故障しちまってなぁ・・・ああ、あの頃の船じゃよくあったんだ。戦争中に作った船のエンジンは大体焼き玉だったり急いで作ったりして故障が多かったんだ。で、本当は真っ昼間の間に大陸沿岸沿いに行く予定だったんだが途中に潜水艦がいたり故障したりでルートは変更するわ予定は遅れるわ、挙げ句の果てに突然船団の後を着いてきていたタンカーが吹っ飛んだんだ。途中で合流したあの4000トンのタンカーでな潜水艦だった。生き残り?いるわけ無いだろう。あの船に積んであったのはガソリンよ。そりゃ吹っ飛んだらもうおしまいよ。俺は慌てて命令を出したんだ。「敵の潜水艦を探せ」ってな。そりゃ俺は用心棒なんだもの。客を縦にして逃げるわけにもいかねェ・・・。
でも暗くなって来ちゃったからこのままじゃ全員死ぬだけだし、だからといって敵を無視するわけにも行かないから取り敢えず俺の船が残って潜水艦狩りするって旗艦の駆逐艦に信号を送ったんだ。そしたら司令官は「高雄で待つ」って信号寄越してくれたの。俺の船にはちょっと色々あってな、イギリス製の良いソナーがついていたんだ。シンガポールで分捕った修理部品の中にあったって話だが、それが回り回って俺の船に付けられてたんだな。で、アメリカさんはそんなモン知らなかったらしくてな。しばらくピンを打っていたら直ぐ分かったぜ。で、爆雷を10個ばかりかな?ばらまいたら浮上して来やがったんだ。で、そん時はたまげたね。何しろ自分の船と300メートルくらいの距離で浮上しやがったんだ。そんでその後はもう鉄砲の撃ち合いよ。俺はそんな経験無いからそっちは栗原に全部任せてたな。流石本職だけ有って大砲の扱いかとも上手かったワイ。あの野郎「信管作動しなくても、誘爆しても良いから兎に角大砲を相手に叩き込め!」ていったんだ。それも相手が機関銃をぶっ放している状況でだぜ。参っちゃうよ本当に。ゆっくりこう大砲が回ってな、兎に角撃ちまくったよ。つってもこっちは元々下手な素人の集団だし、訓練はできても大砲の弾は貴重だってんであんまり撃てなかったこともあってなかなか当たらなかったよ。で、相手も大砲撃つの。滅茶苦茶になったよ?士官室は半分以上使いモノにならなくなったし、通信アンテナは吹っ飛ぶし。それでもバスッバスッて命中していってな。その内に相手が沈み始めたんだ。どうやら装甲をぶち破ったらしい。アメリカさんが慌てて外に転がり出してきたのが暗がりでもよく分かったよ。取り敢えずこっちもカッターを出して相手を拾ったよ。ぎりぎりまで相手の船に寄せてサーチライトで照らしてな。そりゃ危険だったんだがな、ありゃ栗原の奴が言ったんだ「アメリカさんの人命救助している最中だと流石にあいても撃たんでしょう」ってな。戦争終わって尋問されたときに分かったんだが、助けようとしている最中に他の潜水艦が俺達を撃とうとしていたらしくってよ、その時潜水艦にぎりぎりまで寄せてしかも救助していたってことが分かってやめたんだと。まぁ、同じ国の人間を巻き添えにするのは流石に具合が悪いわな。それでまぁ、ある程度拾ったから切り上げて俺達はさっさと高雄に向かったんだ。
そしたら、なんてこったい。俺達をおいて先に言った船団はもう半分以上が他の群に食われてたって話だ。タンカーは一隻だけそれも800トンの小さい奴な。それがいるだけでな、旗艦の駆逐艦も沈んじまっていたんだ。どうも俺達が潜水艦と殴り合っている最中にやられたらしいんだ。それが分かったのは高雄に着いた時だったよ。
そんで、その後穴だらけにされて機関も故障したって事で、香港に向かってな。そこにあったドックに入ったのよ。それから3~4ヶ月くらいしてからだな。戦争が終わったのは。俺が知っているのはこれくらいだな。後のことはあんたの方が詳しいだろう。
戦争終わってからは俺は九州の商船会社に入ったんだ。で、大陸の内乱や朝鮮戦争で大儲けしたよ。いや、あのときも中国やソ連の船に追いかけ回されたりと大概死にかけたけどよ、なかなか楽しかった。
その後も老人の話は続いた。何時しか空は夕方になっていた。時計を見るとまだ5時前だというのに海の向こうに日が沈みゆくのが分かった。冬の訪れが近いのだろう。より一層冷たくなった空気が私たちのみを震わせた頃にようやく老人の話は終わった。
その後の110号の話をしよう。110号こと『ヴィット・デ・ヴィット』は元の艦名に戻されたものの、旧式化しており艦隊で使用されることはもはや無かった。オランダもこの頃には財政が大変なことになっていたのだ。だが、彼女の戦いは意外に終わりをみせなかった。その後暫く放置されていたのを台湾に逃れた中国国民党海軍が目を付けたのだった。そして、同じく放置されていたヴァンケルトの部品やアメリカから供与された部品などを組み合わして無理矢理修理を完了させると『棘陽』と名を改め金門島沖海戦や馬公沖海戦と言った数々の戦いをくぐり抜け、『丹陽』と共に1970年代まで現役であった。そして1982年に老朽化のため解体されることとなる。
こうしてこの風変わりなオランダのお転婆娘の物語は終わったわけであるが、短い間ながらも彼女と共に戦ったこの老人をはじめとする人々の記憶の中に彼女のことはくっきりと残っている。そして、本書を通して彼女を知る人間がいなくならない限り、物語は消えることはないのだろう・・・
月刊『Z』「あるお転婆娘の半生」より抜粋
皆様お久しぶりです。
今回はかなりぎりぎりになって参加させて頂きました。
実は私、最近転職しまして、そのゴタゴタもあってなかなか書けてなかったりします。
久々にある程度余裕ができましたので今回参加させて頂きました。
え?駆逐艦だろ?いやいやいや、これは歴とした「哨戒艇」です。だって日本海軍自身がそう区分したのですから!だから排水量が1000トン以上有っても!航空機を積んでいても!これは哨戒「艇」だから問題はないのです(開き直り)
日本海軍は史実において拿捕した艦艇を数多く使用しています。有名どころでは102号哨戒艇ですね。アレは元々アメリカ海軍の平甲板型駆逐艦スチュアートでした。他にも101号や106号哨戒艇などの駆逐艦を改造して使ったりインド洋でタンカーを分捕ったりして使っています。
さて、オランダ駆逐艦で面白いのは、航空機を搭載しているという点です。広い東南アジアの植民地を防衛するために必要だったのでしょう。結構面白かったですのでちょっとだけ本作にも登場してもらいました。本当だったらここに20ミリを乗っけて潜水艦を真上から一方的に穴だらけにしたかったのですが、思いついたのが書き終わってからでした。それに、波の荒い外洋で運用するのもきついですし
最近は分断国家ネタやら特設空母ネタに嵌っていましてなかなか別府造船の方に集中できない状態です。なんとか揚げられるよう努力します・・・