五話
パンッと乾いた音がして、はっとした。私の手からカルテがすべり落ちたのだった。建物内の造りを知っていたはずなのに、急いたせいで私は左右を見回してから駆け出そうとした。が、腕をつかまれて叶わなかった。
「待てよ。どこへ行く気だ」
「霄のところ」
「もう彼だとわかる状態じゃない。見ないほうが、今の君にとっては賢明だと思うが」
私は黒田くんを睨みつけた。
「……あなたがやったんじゃないの?」
「馬鹿なことを言うな」
「じゃあ他に誰がやったっていうの! 誰に、何で。何で、霄が……」
「気持ちはわからなくも無いが、落ちつけ智瑠。君らしくない」
取り乱している私なんて見たことがないあなたにはさぞかし滑稽で無様でしょうね。あなたの言う、私らしさって何? あなたにだけ都合の好い私のイメージを勝手に押し付けないで。もう、私は踊らないわ。――踊れない。だって、私の身体がえぐられたんだもの。
「……回して、全部。一班に、私のところに」
たまには私がおかえりと言うわ、霄。
黒田くんは眉根を寄せた。
「それは、あまり感心できないな。君の私情が入っている。悪いが今回は一班には無しだ。いいな」
黙りこむ私の肩を黒田くんが軽く叩いた。
「気持ちの整理がつくまで仕事は休んどけ。アドバイスは素直に受け取っておくものだ」
私はひねくれてるから、受け取らなかった。
気持ちなんて整理しない。
覆い隠した。
* *
ひたすら仕事に打ち込むことにした。集中してしまえば、彼のことなど全く念頭に浮かんでは来なかった。それがまた、薄情な自分を浮き彫りにして仕事の手を休めると自己嫌悪が止まらなかった。
家にも帰らず、研究所の仮眠室で過ごす事がほとんどだった。酷使に酷使を重ね体調を崩しても進歩した医療のおかげでどうにかなった。
そうやって、突っ走って突っ走って――待っていたのは、ゴールではなく絶望を伴った失速だった。
霄がいなくなって、二十年が経つ頃だった。
――君の働きは素晴らしいがね、これ以上良い結果が得られる見越しが無いようなら……わかるよね。
上の連中が煩かった。
――今の医療技術をもってしても、私には時間が無いのだよ。智瑠くんには期待しているんだ。失望させないでくれよ。
後ろの連中が煩かった。
でも、外されるのは嫌だった。霄はここにいるから。接点を無くしたくなかった。
なのに、研究は遅々として進まない。そのくせ隠したはずの霄が顔を覗かせて、公私が混同してきて、集中が保てなかった。
私はどうしてここで働いているのだろうか、私は何をしたかったのだろうか。もう、当初の目的もわからなくなっていた。
食い扶持を稼ぐためでもなく、私はただ、好奇心から不老長寿なるものを実現させたかっただけのはずだったのに……。
全ての事がどうしようもなく馬鹿らしく思えた。
それでかな。発作的に薬品の入った瓶を飲み干した。
この時のことはあまり記憶に無い。
目が覚めてのち、病室には連日組織の連中が取り調べに来た。それらしい理由と謝罪を述べれば楽に済んだ。どうせ処罰は大方決まっているのだ。このA級指令本部でただ解雇されておしまいなわけがない。幽閉か、材料か、抹殺か、良くて監視つき生活だろう。
と、覚悟していたが、下されたのはそのどれでもなかった。被験者として身体のデータを提供してくれるならば研究所内に留まっても良い、とのことだった。確かに、延命の薬を人体に投与して唯一生き延びたのだ、捨てるには惜しい。
ただ、研究員としても置いてくれるこの寛大な処置には、出世した黒田くんの説得によるものだと聞いたが、この頃にはすでに、彼とも話しはおろか会うことさえなくなっていたので本当のところはわからない。
十年も経てば、身体の変化が数字にも見た目にも明瞭になった。各器官の回復を見て思わず鳥肌が立った。私の身体は、時間を巻戻しているかのように進んでいた。これは今までの実験では見られない兆候であった。私の服用した薬の量で他の者にも試してみるが、同じような症状がでたものは一つも無かった。周りの研究員たちも困惑の色を浮かべていた。
穏やかな変化のおかげで、私は退化していくこの身体の状態自体を日常生活でそこまで気にかけることもなかったが、それは始めのうちだ。いよいよ十代に突入すると、私に残された時間はあと少ししかないと実感してきた。そうして頻繁に焦燥の感に駆られるようになった。
多くの時間を費やしてもまだ見つからない、不老長寿。
焦れば焦るほど、不安になればなるほど、何故かまたしても霄のことが頭をもたげてきた。
真っ白なドアを開けた時、目の前に霄が立っていたから、私の頭もついに可笑しくなったのだと思った。
* *
明るい茶色の髪、愛想の良さそうな顔、透明感のある声――霄その人だと思った人は、名を佐伯侑祁と言った。
私はわかっていた。霄はもういないのだと。
だから、目の前に現れた彼は単なる他人の空似に過ぎない。あの人が生きていたなんて浅はかな期待や妄想に心を奪われたくなかった。
大丈夫だ。あれからもう何十年と経っている。彼に係わらなければ、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせても、彼の方から近づいて来る。
――僕の想いに応えてくれますか?
一瞬にして吐きそうになるほど心臓が跳ねた。
想い? 霄の想いなんて、私知らない。
――サトルが、ぼくを想ってくれるだけで、ぼくはいいよ。
私が誰を想っているのかなんて、知らない……。
発光する電子画面に映し出される文字。
――来年度をもって国家特殊機関生命維持局A級指令本部第一ラボラトリー一班班長及び本局員としての任を解す。
上層部からの達示。バックからの連絡も無く、こちらから取ろうとしても本人に繋いでもらえなかった。
ここまできて見捨てられた。
――猶、今後は被験者として人類の輝かしい未来の為貢献するよう期待している。
苛立ちと絶望と焦りを理由に、デスクの上の物を薙ぎ払った。物にあたらなければ治まる気がしなかった。
――惺さん、大丈夫ですか?
霄と同じ声で「サトル」と彼は呼んだ。
どうして私はまた「サトル」と名乗っているのだろう。名など何千何百と考え付くものを。
また心が惑わされる。
惑う? ――違う、私はむしろ嬉しく思っていた。それを押さえ込もうとしているから惑うのだ。けれどそうしなければ。
彼は霄ではないのだから。
――記憶ってどうなるんです? 消えちゃうんですか?
そうだったら、どんなに楽だったろうか。寂しかった過去も、両親も、霄も、退化する身体のことも全て順番に消えていってくれたのならば、私は無苦なる余生を送っていたことだろう。
隣に座って空を眺める彼の視線の先を追うと、白い鳥が飛んでいた。
それからまた、私は地面に目を落とした。焦ってもどうしようもないとわかっているのに、無性に気が急く。そのたびに決まって霄のことが頭をよぎる。彼は何のつもりなのか。
そもそも何故、いつから、私の仕事と霄が結びつくようになったのだろう。私自身の勝手であったなら、こんなにも拘泥することもなかったろうに。
――進まないようにしているんですよ、神様が。
神? そんなの物語の中だけでやって。
ああ、でも、神話とか伝説とか、そういう類のものを霄は面白いと言ってよく読んでいたっけ。私もなぜか負けじと競って暇さえあれば調べていた気がする。
もう、昔のことだ。
* *
夜、満天の星、オレンジの淡い光――いつかいた場所、隣にいる彼――。
既視感。
まざまざと浮かび上がってくるあの時の幸福と不安、切ない気持ち。意思に反して零れた涙。
――研究の足しに実験台になってあげようか?
あなたは私を責めに来たのかしら。あなたの身体を無駄にしたって、怒ってる?
でも分かって、許してね。
もう二度と会えないと思うから。
もし死後の世界があったとしても、私はそこに行けないだろうから。
誕生のその先の混沌へと、私は向かっていく。
長かったようで短かった私の命。その歩みを何人たりとも止めることは出来ない。
でも、止まってくれるのならば、どうかあの頃で。
霄といた月日が私の一生であったら良かったのに。