四話
「いい加減、気付いたらどう?」
そう言って私は黒田くんを睨みつけた。
「あなたは私が好きじゃない。あなたはね、周りを気にして自己を肩書きや、一緒にいる人間といった他のものを使って飾り保とうとするところがあるの。なのに、そのくせ自分ではそんな思惑に気が付いていない。――わかる? 私はあなたにとって飾りでしかないのよ」
「なにを――。それは単なる君の妄想だ、違う」
「違わない。嘘つかないで。あなたは、自分に頼ってきたり甘えてくるような女が好きなの。見てればわかるわ。でも、同時にそんな女をバカだとも思ってる。本当はそれでも構わないが、そこであなたは周りを気にするの、見栄を張りたがるのよ、スマートな交際をしているのだと。昔からそうだわ……」
黒田くんは硬い表情のまま深く息を吐くと、低い声色で言う。
「じゃあ……じゃあ何で、君はわかっていながら俺と付き合っていたんだ」
「……そんなこと、訊かないでよ……」
さっきまでの饒舌ぶりはどこへやら。自分でも驚くほど弱々しい返答だ。痛いところを突かれた。絶対に口が裂けても言いたくない。プライドが答えるのを許さない。
「……帰るわ。もう、疲れた」
言って、呼び止める声も無視して私は足早にその場を後にした。
早く家に帰ろう。家には霄がいる。
霄と暮らし始めるまで、お帰りだなんて迎えられたのは指で数えられるほどしかなかった。ただいま、と返した時は異様に恥ずかしかった。そのうち、ただいまも言わずに、聞いて聞いてと私は喋り出す事もあった。どうも彼と一緒にいると私の口は軽くなるようだった。
だけどそれが日常になって、自分が笑っているのに気が付くと、自分じゃないようで、少しむず痒かった。
――何でそんな、にやけてるの。
――だって、サトルが笑ってくれて嬉しいなって。
彼は恥ずかしげも無く言うから、馬鹿らしく思いながらも、私の方が照れた。
一人でも生きていける。他人がいると煩わしくて休まらない。そう思っていたのに、なかなかどうして、霄がいてあんなにも安心していられたのだろうか。
摂るようになった食事も。少なくとも霄といる時は必ずそうするようにしていた。目の前に座る霄。栄養剤では得られないものがそこにはあった。
小さい頃、届いた食事を一人摂っていた私の眼前には、何も応えてくれないものしかなかった。そうしてご飯は口ではなく、ゴミ箱に行くことが多くなって、食事の発注も解約した。
両親は何も言わなかった。何も言ってはこなかった。
「…………」
指紋と虹彩認証を完了し終えて、玄関のドアが開く。踏み入れてちょっとしてから、小走りで彼は現れた。
「おかえりぃ、サトル」
……駄目だ。霄の顔を見た途端、それまで頭の隅の方にあったR-age64のことが浮かんで来た。それに加えて、黒田くんと言い争ったことも帰路中からずっと頭の中をぐるぐると巡っている。
「さっきまで散歩に行ってたんだ。サトルに会えるかなァって。でも、うまくいかないね。――あっ、何か食べる? お仕事してお腹減ってるよね」
「今日は……いらない」
「最近、少ししか食べてないよ」
霄の声に心配の色がにじんでいるのが分かったが、私はうつむいてそのまま彼の脇を通り過ぎた。
「あまり、外に出ないで……」
気分が悪かった。酷く。
「外は誰も、あなたのことなんて想ってなんかいないのだから!」
我ながら冷たく言い放ってしまったと思う。優しく言葉をかけてあげられない自分が憎々しかった。
* *
どれくらいの時間が流れたのだろうか。帰ってくるなり霄を冷たくあしらって部屋に引き籠り、ベッドの上でただ体を小さくして私はうずくまっていた。
目は開いているのにどこを見るのでもなく、身体は重くてぴくりとも動きはしない。頭は思考しているのか、していないのかもわからない。けれどもこうして沈んでいる自分を嫌悪した。
どうにかしてこの暗い気持ちを打破したい。そう思うものの、ひたすら全てが億劫で、起き上がる気力も無かった。
「サァートルゥー」
ドアの向こうから透明感のある軽快な声が聞こえてきて、私の目がようやくチラリと動いた。
「開けるよ」
その言葉で私は我に返って飛び起きた。こんな弱々しい惨めな姿を見られる訳にはいかない。
霄は少しだけドアを開けて手招きをした。招かれるがまま居間に入れば、灯りを絞った電灯がオレンジ色に淡く光り、ブラインドの上がった窓からは瞬く満天の星が見えた。
窓辺の椅子に促されて私は素直に腰を下ろした。
「――はい」
「……何? いい香り」
霄からカップを手渡された。
温かい。手がじんわりと痺れた。
「紅茶だよ」
「初めて飲むかも、紅茶」
「いつも水かコーヒーだもんね。どう?」
「甘いのか苦いのか、よくわからない……けど」
「けど?」
「嫌いじゃない、かも」
「それは良かった」
静かに二人で空を眺めた。
誰かといれば、先程までのように自分に飲み込まれる事も無い。
人のこと言えないな。私も見栄っ張りだ。
「ぼく、サトルの邪魔してる?」
いきなり、だがそっと、霄は尋ねてきた。私の不調を感じ取ったのだろう。隠していたのにあっさりバレた。いつもそうだ。
でも、そこまで嫌な気はしない。たぶん本当はきっと聞いて欲しかったんだ、内に溜め込んでいるものを。
言ってもいいだろう――言いたい。霄にだけはそう思えた。
* *
「……私の仕事、知ってるわよね」
「うん、前に聞いた。生命維持局に勤めていて、主に細胞に関する医療開発に携わっている。で、当たってる?」
「その局ね、内部で細かく分かれてて、私、A級の本部にいるの」
へぇ、と霄は相づちを打つ。でもきっとA級の意味も本部の意味も知らない。
「そこでは、許されてるの。……人体実験が」
見ないでも、彼が私のほうに顔を向けたのがわかった。けれど、驚くでもなく軽蔑するでもなく、彼の口調はいつもと同じだった。
「それってさァ、秘密だったんじゃないの?」
そう。だから、霄の前だと軽口になる、なんて理由では充分すぎるほどふざけている。
「特に、何とも思わなかった。どうせ放って置いても死ぬだけだったんだからって。……対象はね、囚人や無権籍者。あなたが来てから困ったわ。ふとした瞬間、あなたの事が浮かぶんだもの」
傷つけてしまっただろうか。ショックを与えてしまっただろうか。――そのどちらも私の杞憂にすぎなかったようだった。霄は笑った。
「そっかァ、それでなんだァ。アハハ。なるほど、なるほど」
笑う彼をねめつけた。が、気にする様子もない。
「サトルが、ぼくを想ってくれるだけで、ぼくはいいよ」
「そういう、問題じゃなくて……」
「ねえ、サトル。見て見て」
言って突然立ち上がったかと思ったら、彼は両手を広げて身体を左右にひねりながら、背中や正面を見せた。
「ぼく、何に見える?」
「奇人、変人、大馬鹿者」
違うよ、と彼は口を尖らせた。
「人間に見えない? サトルや他の人と同じ。性別とか体格とか容姿はおいといて。――ね、無権籍者かどうかなんてわからないんだ。目印も無いからね。だから、知らなければ他人が何かをしてくるわけでもない」
霄は私の前で膝をつき、私の顔を覗き込む。
「サトルがそうやって気に病むことはないよ」
優しく暖かな彼の言葉だったのに、完璧に私を救うものにはなりえなかった。それも仕方の無いこと。私自身が何を欲し、期待していたのかわからなかったのだから。
誤りは、私の中で霄の比重が大きくなっていた事だった。
右手でおもむろに、外側から彼の左手首をつかんだ。
在る――。
そうしたら余計に不安が募っていった。それが悔しくて唇をかんだ。
たったいま霄が存在するのだと確認したのに、――いや、確認したからこそ同時に彼を失いたくない思いが強まった。こんなことのは初めてだった。
正直、だから、どうすればいいのかわからなかった。
ただただ、彼の手を握るばかりであった。そんな私を彼は黙って受け入れてくれた。その場で静かに私が解放するまで見守っていてくれた。
* *
――そして、その日は来た。
私が初めて紅茶を飲んだ日から一ヵ月後のことだ。私の勘も満更無視できないものであったことが証明された。あの日の恐怖ともいえる不安をまざまざと味わうはめになったのだった。
「智瑠」
ラボから出たところで呼び止められた。ファイルを片手に黒田くんが駆け寄ってきた。
「ちょうど良かった。Rが一体、まだ二時間ちょっとしか経っていないのが届いた。各班長に聞いて回っているんだが、一班はどうする」
そうね、と悩んでいると、黒田くんは持っていたファイルに目を落とした。
「まだそれほど詳しい事はわからないが、二十代前半と思われる男性。疾患等もみられない。刺殺されたと聞いているが大半の臓器は無事。B保存。戸籍は無し――と」
「カルテ、私にも見せて」
手を出すが、その手に何も乗ってこない。
「いや、まだこの手元のしかない。これは写真付きだから智瑠たちには見せられない。B保存の場合はそう決まっているだろ。すぐに編集されたものが届くさ」
「それは規則じゃなくて、配慮からの慣習でしょ。まったく馬鹿馬鹿しい。生体のA保存は顔が丸出しだっていうのに。構わないから今見せて」
頑としてもう一度強く手を出すと、黒田くんは渋々了承してカルテを渡してくれた。
自然と一番に写真に目がいった。途端、私の目は、脳は事実を拒絶した。真っ白になった。
「智瑠?」
黒田くんが怪訝な顔をして覗き込む。
写真に写るは蒼白い横顔だった。目を閉じ、口が薄っすらと開いている。寝ているのだろう、明るい茶色の髪が前は流れ、うしろは不自然に顔の傍にある。
消え入りそうな声で私は彼の名を呟いた。
「霄」
「――ショウ?」
「彼の、名前」
じわじわと認識しだす、私の頭。写真に写っているのは誰なのか。このカルテに載っているのはどういう訳なのか。――写真の顔は霄で、彼は死んだということ。
「なんで君が名前なんか知っているんだ」
「私が名付けたから。星を見るのが好きだったの。あなたも一度、会った事があるわ」
――写真の顔は霄で、彼は死んだということ。
「俺と? いつ」
「半年くらい前に、私の家で。大きな花束を抱えていたわ。ちらと見ただけで顔までは覚えていないでしょうけど」
――写真の顔は霄で、彼は死んだということ。
あっ、と黒田くんは声を上げた。
「まさか、こいつが……智瑠の相手か?」
霄は死んだ。なのに、全然胸が痛くない。痛む胸が無い。無くなった。空洞だ。ぽっかりと穴が開いている。円筒形の何かで身体を貫かれ、悪寒と違和感がそこから全身に走っている。
「嘘だろ? だってこいつ、無権籍者じゃないか!」
黒田くんの声が遠くから聞こえた。