二話
洗って乾かしたらサラサラになった明るい茶色の髪、まだ風呂上りの気持ち良さをたたえた目元、新品の白いシャツと黒いズボンを身に着けた彼は、だいぶ小奇麗になったものだ。思ったより歳も若そうで、私と同じかそれ以下だろう。
彼は椅子に座る私の横に近づいて、顔を覗き込んできた。
「そんなにふくれないでよ。ごめん、サトル。ぬらしちゃった床もちゃんとふいといたからさ」
謝るのはそれだけじゃないでしょ。とはいっても、ふくれっつらなのは怒っているからではなく、彼をどうすればいいのか考え悩んでいたからだ。
「――ところで、あなた名前は?」
「なまえは捨てた。今はないよ」
また訳のわからない事を。
「ちっちゃいころはねぇ、ケイって呼ばれてたんだけど、だれも呼ばなくなったし、オイとかオマエとかが多いからそれでいいかなって」
軽い口調で彼は言う。
「それでいいの?」
「ん~ダメかも、アハハ。ほかの人が呼ばれてるのに、ついふり向いちゃうんだ」
そういう意味で訊いたのではないのだが。
「……これから、あなたどうするの。家追い出されたって言ってたけど、戻れないの?」
「どうかなァ。見つかっただけでころされちゃうかも。店長すごくおこってたもん」
「何したのよ。どうせヘマでもしたんでしょ。鈍くさそうだもの、あなた」
「ぼくはいつも通り掃除してたんだけどね、しちゃいけないことしちゃったみたいなんだ。店長の女って人がねくっついてきたから掃除がしづらくて、どいてって言って手で押したら、ちょうど店長が戻ってきていきなり、テメー何してんだ! オレの女にさわんじゃねぇ! って、いっぱいなぐられちゃった」
口真似を交えながら彼は何でもないかのように話す。診察の時に捲り上げられた服の下にはその時のものか、それともそれ以前のものか、痣や傷痕、火傷の痕があった。
「ヤバイって思ったときにはもう体が先に逃げ出してた。それでね、それからはウロウロして外で寝たり、しらない人にからまれたり、またウロウロしたりして……」
「元々はどこにいたの」
ぐだぐだ続きそうな彼の話に割って入る。
「店長の店、というか家というか、一緒になってて。『エデン』っていう名前の店だよ」
「そうじゃなくて、エリア。エリアはどこ?」
「エイトだよ」
やっぱり。空中都市は十二のエリアに区分されているが、エリア8は生活水準も低いし治安も悪い。いうなれば、いかがわしい店が多く立ち並んだ繁華街とスラム街が合わさったような所だ。常にどこかしらで暴力や犯罪沙汰が起こり、細い路地や裏路地には廃人が転がっていると聞くが、本当かどうかは行ったことがないから私にはわからないし、知ったことではない。
「そこ以外にアテは……無いわよね」
自身を売り込んで雇ってもらうしかなさそうだが、それが決まるまで彼を家においといてあげるか否か……。妙に沸いて出た親切心、はたまた同情のせいでどうしたものかと悩む。今までこういう形で無権籍者に関わった事が無いから扱いに困る。
「アテならあるよ」
彼は自信ありげにそう言った。
アテがあるなら良かった。それを早く言ってよね。
「サトルが買ってよ」
思考停止。
「サトルの家ってひろいし、キレイだし、見たことないのたくさんあって楽しそうだし」
そりゃエリア8と比べれば。私もなかなか給料もらえてますから。
「掃除に洗濯、料理もぼくちゃんとできるよ。あとはねぇ、ええっとぉ……」
「ちょっと待って、そんなの無理。誰かと一緒に住むなんて考えられない。しかも会ったばかりの人となんてありえないわ」
「買ってくれるだけでいいよ、仕事がおわったらでていく。それならいい?」
「出て行くって、どこへよ」
「そとだよ。あのね、夜になるとキレイなんだよ、キラキラと空がね。サトルも見たことある?」
野宿するつもりだ。仕事させるだけさせといて、着の身着のまま外で寝てろって? ……そんなこと言えるわけないでしょ。
そもそも、そうだ、無権籍者なんて家に置いておいたら私が罰せられてしまうではないか。
「悪いけど、他をあたってくれる?」
「……ほかに行っても、サトルに会いにきてもいい?」
さっきまでニコニコしていたのに、急に彼はしゅんと寂しげな顔をする。
「どうして?」
「サトルに会いたいから。サトルとは一緒にいたい。離れたくない」
何で、出会ったばかりだというのにそこまで言えるのだ。いったい何が目的。女の一人住まいだと知ってよからぬ事でも考えているのだろうか。……いや、それはないな。彼からは悪意が感じられない。なんとなく、そう思う。
だが、かといって、どうする。買うのか?
他と言っても、うまく次の買い手が決まるかどうかもわからないんだ。野垂れ死ぬ可能性だって、今のご時勢でも私が知らなかっただけで、あるかもしれない。国に引き取ってもらう手もあるが、行き先は戦場か他星で強制労働か、それともあそこか……。
どうしたって辛い目にあう。この、何故か私に懐いた彼が。私の都合や言動が要因のひとつになって……。
「――ああもう! わかった、わかったわよ。私が雇えばいいんでしょ」
私はそう返事をしてしまった。本当に今日はどうかしている。
彼の顔にはまた、笑顔が戻った。
* *
あ、そうだ、人がいたんだっけ。
寝室のドアを開けてすぐ彼が目に入り一瞬間身体をビクつかせた。
「おはようございます、サトルさん」
「……何してるの」
見れば壁から壁に高い位置で紐が張りめぐらされ、服が干してある。
「せんたくです」
洗って濡れた服をバシッとはたいて伸ばし、それを腕にかけながら彼は答えた。
「洗濯なんてしなくていいのよ、溜まったらまとめてクリーニングに送るんだから。勝手なことしないで。……って、あなたどうやって洗濯したの? うちに洗濯機なんてないのに」
「おふろ場でこう、ゴシゴシと」
彼はしゃがみこんで腕を交互に上下に動かして真似してみせる。
そうやって洗うものなの? まさか。洗濯の仕方なんて知らないけど、それだけは違うと思う。
急に、あっと彼が声をあげた。
「サトルさん、あのね、冷蔵庫に何もなくてごはんが用意できませんでした」
頭を少し垂らして彼はしゅんとする。
家で料理なんてした憶えも、してもらった憶えも無い。冷蔵庫はもはや家らしさを出す為の飾りにすぎないものとなっている。
「ご飯とか、そんなの要らないわ。――コレで充分」
言って、棚に置いてある小瓶から錠剤を取り出して、一粒は自分で飲み、もう一粒は彼に渡した。
「栄養も満腹感も摂れるの。手軽でいいでしょ」
へぇ、と彼はまじまじと錠剤を眺める。
「それから、言っておくわ、確かに私はあなたを雇ったけど、私の為に料理も洗濯も何もしなくていいから」
「それじゃあ、ぼくは他に何をすればいいんですか?」
「私の邪魔さえしなければ、自由に、自分の好きな事でも勝手にどうぞ。ああ、でもお金はちゃんと払ってあげるわ。安心して」
「おかね……」
「そうねぇ、面倒だから月払いでいいかしら。今月分は先にあげるわ。無一文で一ヶ月生活するのは無理でしょうから」
たとえそのお金をもらったとたん彼が消えたとしても安いものだ。
「おかねって、ぼくに? ぼくにくれるの?」
「他に誰がいるのよ。ちゃんと私の話きいてる? 私はあなたを買ったつもりはないの。そんな趣味持ってないのよ。だから私の所有物でもないし、雇ったとはいえあなたに何かしてもらおうなんて思ってる訳じゃないから、いつでも出て行ってもらって構わないわ」
彼は半ば呆然としたような表情でぽつりと呟く。
「……ジユウ、なのかな……これが」
「なにかご不満?」
そう訊くと、彼は首を横に振る。それからじんわりと彼の顔に笑みが浮かんできて、何かを噛み締めているようだった。
その後は家の中の勝手を色々と教えたが、識字の出来ない彼にスイッチやタッチ画面方式の操作物に書いてある事をいちいち説明しなくてはならなかったし、彼の知らない家の設備や家電の操作方法も殊更に教えなければならなかった。
助かったのは、彼にそこそこ使える記憶力が備わっていた事くらいだ。覚悟していたほど手間も時間もそれ程かからなかった。
「字をおしえてください。ぼく、もっとちゃんと書いてあるのわかるようになりたいです」
家の中を一通り回り終わった時、彼がそう頼んできた。文字を知っていてくれた方が私としても幾分都合が良いと思って承諾し、居間でさっそく教えることにした。
そうして、あろうことか正午ちょうど、ふと時計を見た私はその時やっと重大な事を思い出し、短い悲鳴を上げた。
「……仕事、忘れてた」
あえぎあえぎに言ったその言葉と共に、文字通り脱力した身体は座った椅子の上ででだらりと垂れた。
* *
「……何してるの」
確か、朝も同じ台詞を吐いた。
書斎での仕事も一段落ついて、その部屋のドアを開けると、なにやら良い匂いと油の弾ける音が聞こえた。
「――あ、サトルさん」
彼はコンロから顔を離してパッとこちらに笑顔を向けた。
「よかった、ちょうど焼きあがったところなんです。今もっていくので座っててください」
なぜ晩ご飯をつくっているのかと思いながらも、私はとりあえず席についてみた。
「はーい、どうぞです」
言って、彼がテーブルに二枚の皿を置いた。小さい皿に湯気の立った白いご飯、大きい皿にソースのかかった茶色でよく焼けた丸い形の肉の塊と、その周りにジャガイモとニンジンがあった。
「……ハンバーグ?」
「そ、ハンバーグ」
「作らなくていいって言ったよね?」
「サトルさん、自由にしていいとも言ってましたよ」
確かに言ったけど。――可愛くないヤツ。
何であなたの自由に私が付き合わなくちゃいけないのよ。
「で、あなたの分は?」
彼はキッチンに戻って早くも片付けに入っていた。
「ぼくは、のこったのですよ」
「バっ――!」
「ば?」
バカじゃないの、という言葉を私は飲み込んだ。今までそういう物しか食べさせてもらえなかったのだろうと予想はつくが、溜め息を禁じ得ない。
私は椅子から腰を浮かせた。
「じゃあコレ、あなたが食べなさいよ」
「ダメですよ。サトルさんに作ったんですから」
そう言って彼は押し止める。
まったくもう。なんなの?
「だったら、お皿とフォークとナイフ持って来て。――ちょっとそこに座んなさい」
彼に指示を出して、向かいの席に座らせた。
持ってきた皿にハンバーグを半分に切って乗せ、ご飯も分けた。
「あのね、雇ったとはいえ、私とあなたは主従関係じゃないの、矛盾しているようだけど。少なくとも私にそんなつもりは無い。わかった? 何度も言わせないで。対等でいいのよ」
「対等、わかります。さっき辞書で見かけました。こういう字、ですよね」
彼は指で宙に「対等」と書いた。
無権籍者はみんなこうマイペースなのだろうか。私の言い分をちゃんと理解しているのか不安になる。
「あと、敬語も使わなくていいわ。あなたが使うとなんか鬱陶しい」
彼が笑みを見せて了承の意を表した時、家のチャイムが鳴った。インターホンには見知った男が映し出された。――黒田くんだった。