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一話

 この空間が薄暗く映るのは、暗闇に目が慣れてしまったからだろうか。

 ――僕が一緒にいてあげる。

 彼はそう言った。目の前の冷たいベッドに横たわる彼。明るい茶色の髪、愛想の良さそうな顔、透明感のある声……。

 あの人を思い起こさずにはいられなかった。

 「一緒に」だなんて何の意味も無い馬鹿な言葉。そんな馬鹿な言葉にすがりつく馬鹿な自分。

 退化していく状況を嫌悪しながらも、どうする事も出来なかった臆病な私には価値のある言葉であった。

 眠っているだけだけれど、死んだような彼を見て私も死んだ気になれた。彼が私の「死」を引き受けた。私はこれからも生きていけるという根拠の無い自信が、私の中に半分残った。――私は死なない。生を望んでいる訳でもないのに、彼を殺しておいて、その生の持続を期待していた。なんて自分勝手で強欲なのだろう。

 彼が私の代わりに死んだ。いや、彼はあの言葉を言う前にもう死んでいた。生きているのに死んでいる――違う、彼じゃない。それはあの人。

 ――サトル。

 あの人と同じ顔で、声で彼は呼んだ。過ぎ去ったはずのものが、目の前から波のように私を呑み込んでいった。

 そして希求していた。もう一度繰り返したいと、また会いたいと。

 だから私は強欲だというのだろう。


   *   *


 ただ本当に気まぐれを起こしただけだった。家までの路を私は徒歩で帰っていた。

 同じ外観の白いマンションがいくつも立ち並んだ住宅街。一定の間隔で淡く光る街頭のおかげで、完全に夜の闇に呑まれる事はない。歩道と建物の間には緑の青々とした芝生が生い茂っている。

 私は眉を顰めた。前方の街灯の下に何か大きな塊がある。

 それでも歩みを止めずにいると、それの有様がはっきりとした。

 艶も無く痛んだ髪、黒く汚れた服、土色で皮の剥がれた素足――人間の男。

 彼は背中を丸めて地面に座り込み、痰を絡ませたような酷い咳を何度も繰り返している。私が横目で見下ろしながら傍を通り過ぎると、呼吸をした彼からの喘鳴が耳に入った。

 気まぐれなんて起こすものじゃない。

 私は下唇を噛み、顔を伏せた。それから足を止めて、鞄から携帯箱けいたいボックスを取り出し回線を繋いだ。

「もしもし黒田くん? あなたまだ研究所? ――そう、じゃあ悪いんだけどCq‐02転送してくれない? うん、そう……ありがとう」

 電話を切って踵を返す。正方形の箱の下面を開いて、たった今送ってもらった薬を取り出す。

「これで咳が少しはマシになるわ。ここに置いておくから飲みなさい」

 言って、ハンカチを敷いて薬を彼の許に置き、足早に私は再び帰路につく。

 家はもう目の前。

 背後でする気配、足音。そして、咳。

「――ついて来ないでよ」

 耐え切れずに言う。

「何か用? あなたにあげる物はもう無いの。だからついて来ないでちょうだい」

「……おれい。ぼく、なにももってないから、みおくろうと。くらいとね、ゲホッ、あのね……」

 彼は浅く息をしながら返事をした。呼吸が苦しくて深く息が出来ないのだろう。

「気持ちはわかったわ。でも、結構よ。さっさと家に帰って安静にしておきなさい」

 私がそう言うと、彼は億劫そうにその場にまた座り込む。

 何のつもりなのか、わからない。もしかして見張るつもりなんだろうか。それはやめて欲しい。

「私の話、聞いてた?」

 苛立ちで語気も強くなる。

「いえ、ない。おいだされ、ちゃった」

「だったら病院にでも行ったらどう? ちょうど良いじゃない」

「びょう、いん……ビョウイン?」

 彼は語尾を上げて私に訊く。

 何故、訊く。体調が悪いのだから病院に行くのは普通の選択肢でしょ。それとも、病院の場所を知らないのかしら。

 私は長い溜め息をひとつつき、早々に観念した。乗りかかった船だと。

「いいわ、もう。病院まで連れて行ってあげる。それでいいでしょ」


   *   *


「どう、調子は」

 寝室から寝ぼけ眼で出て来た彼に私はそう尋ねた。

「うん、もうくるしくない。すごいね、あっというま」

「ただの喘息だったからね、今時ちゃんと治療受けて一時間も寝れば良くなるものなのよ」

 ふいに彼が私の手を取って無邪気な笑顔を向けた。

「ホントにありがとう……ええっと、なまえは何て言うの?」

「……智瑠さとる

 手を振り払って無愛想に答えると、「サトル」といきなり馴れ馴れしく呼び捨てにされた。

「ありがと、サトル」

でも、不思議とあまり嫌な気分はしなかった。自然とすんなり彼が呼ぶ「サトル」が私の中にはまった。彼の語調のせいだろうか。彼のは丸くて軽い、そんな感じだ。

 しかしみすぼらしいなりは受け入れられない。服は色褪せて汚れ、髪はぼさぼさ、痩せこけた手足、その指先にはあかぎれがいくつもある。

「臭い……何か臭う。――ちょっと、あなたからじゃないのこれ。お風呂とか入ってるの? 入ったのいつよ」

「オフロ?」

 また疑問形。

 冗談、お風呂くらい知ってるでしょ。

「いつだったかなァ、ええっとぉ……」

 さすがに知っているようだ。

「たぶん十日とすこしまえかな。お湯がもらえたから体ふいたんだ」

 十日もお風呂に入っていない? それも身体を拭いただけ?

 嘘でしょ、そんなの考えられない。

「いいわ、もう……お風呂も貸してあげる。服も新しいの用意するから脱いだら捨てといて。あとはそうね、その邪魔くさい髪を切って……」

「いいの? おかねないよ」

 上目遣いで彼はおずおずと尋ねた。

「いいも悪いも、その格好でいられる方が迷惑なの。だいたい一文無しなのはハナっからわかってるわよ。あなたに期待なんかしてない」

 自分でいうのもなんだが、私の言い方はキツイ。にも関わらず、そっか、と合点して彼はにこにこ笑う。こういう人に会うと、機嫌悪く注意してくる人よりも、自分の言葉遣いを反省してしまう。

 そうして反省を一瞬で済まして浴室に彼を案内し、居間に戻ってくるなり私は椅子に身を投げた。

 ベッドのシーツも替えなくては……。彼の汚さにうっかりしていた。

 自然と深い溜め息が漏れる。

 成り行きとはいえ、捨て置けずにこうして彼を家まで上げてしまった。まったく、自分で自分に呆れる。

 数時間前、彼を病院に連れて行ったものの、診察どころか足早にそこを後にするしかなかった。その代わり、受付での戸籍証明の際、指紋、虹彩、音声のどの証明を何度試してみても認証されず、彼が登録されていない事を教えてくれた。

 彼は、無権籍者だった。

 無権籍者――戸籍も人権も認められていない者。その多くが捨て子や隠し子だ。法律で定められた以上に子を持てば親は罰せられ、その子供は没収される。

 人口調整は主要政策の一つだ。地球の領地よりも遥かに狭い空中都市である、人口が爆発してしまったら食料を始め物資や住居もたちまち貧し、人々は苦しみ、政府はその対応に追われるだけとなる。戦争のため宇宙の領有している星にも移住が禁止された今、いっそう人口に対する目は厳しい。

 没収された子供については、どうなるのか政府は公にしていないが、いくつか巷説は流れている。最低限の生活で育てられ、後には戦場へ駆り出されたり、未開拓の星へと送られて重労働を強いられたりしている、と。

 市中に無権籍者が出回っているのは、政府に見つかる前に闇商人へと売る親がいるからだ。売られた子供はまた人に売られたりし、奴隷のような仕打ちを受ける。どんなに非人道的な扱いをされようとも無権籍者は訴える事が出来ない。誰も助けてはくれないのだから。

 国営や公共施設などの戸籍証明を必要とする所も一切無権籍者は利用できない。

 裕福で権力のある人が無権籍者を引き取って戸籍を申請した話も耳にした事はあるが、そう滅多に無い。

 国は、政府は、彼ら無権籍者を時に無視し、時に利用し、過酷な運命以外は何ものをも与えてはくれない。

 ともかくも、道ばたで拾った無権籍者――彼を知人の医者に診てもらったけれど、また面倒なものと関わってしまったものだ……。

「――うわっわっわっ!」

 やかましく物音と声をたてながら彼が勢い良くドアから飛び出してきた。

「アワが止まんなくなっちゃった。ボタンおしたら、お湯のすっごい熱いのがブワー出てきて、どうしよう」

「た……たっ、タタタオルを巻けえ!」

 頭が痛い。血管が切れそうだ。

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