第9話 カビに沈む王国と光り輝く未来
『ルベリア王城、機能不全により完全封鎖』
執事のセバスが読み上げる報告書の内容は、予想以上に悲惨なものだった。
私は手を休め、磨き上げたばかりの窓枠に寄りかかって聞き入る。
「下水道の逆流による疫病――通称『不衛生病』が蔓延。カイル殿下は病床に伏し、原因とされたマリア嬢は、国の金庫から持ち出した宝石類と共に行方不明とのことです」
「……自業自得だな」
デスクのアレクセイ様は、眉ひとつ動かさずに言った。
手元の書類にサインをし、次の決裁書を手に取る。
彼にとって、隣国の崩壊は「予測通りのデータ」でしかないようだ。
「衛生管理を怠った組織の末路だ。同情の余地はない」
冷たい言葉だが、事実はその通りだ。
かつて私が毎日、見えないところで処理していた「汚れ」や「呪い」。
それらが蓄積し、臨界点を超えた結果が今のルベリアだ。
魔法で見た目だけを取り繕っても、本質的な腐敗は隠せない。
「……少しだけ、懐かしいですね」
私がぽつりと呟くと、アレクセイ様の手がピタリと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、不安げに瞳を揺らす。
「戻りたいか?」
「まさか。あんな不潔な職場、二度と御免です」
私が即答すると、彼はほっとしたように息を吐き、マスクを外した。
そして、立ち上がる。
いつものように手袋を外し、素手で私に近づいてくる。
「レティーシャ。……話がある」
空気が変わった。
執務室の張り詰めた空気ではなく、もっと柔らかく、それでいて重厚な気配。
セバスが「では、私は席を外します」と一礼し、音もなく退室する。
二人きりになった部屋で、アレクセイ様が私の前に立った。
「契約の更新についてだ」
「はい。現在の専属契約ですが、何か不備が?」
私は手帳を取り出そうとしたが、彼の手がそれを制した。
温かい掌が、私の両手を包み込む。
「不備はない。だが、足りない」
「報酬ですか? 十分いただいておりますが」
「違う。……期間だ」
彼は真剣な眼差しで、私の瞳を覗き込んだ。
その青い瞳には、私自身の顔が映っている。
「一年や二年では足りない。十年でも、五十年でも足りない。私が死に、灰になって土に還るまで……いや、魂が消滅するまで、君に傍にいてほしい」
「えっと……それはつまり、終身雇用契約ということで?」
「もっと拘束力の強い契約だ」
彼はポケットから、小さな箱を取り出した。
ベルベットの箱を開くと、中には見たこともないほど巨大なダイヤモンドが輝いている。
汚れ一つなく、完璧なカットが施された最高級品だ。
「これは私の個人資産で購入したものだ。国庫には手をつけていない」
彼は前置きをしてから、震える声で告げた。
「レティーシャ。私と結婚してくれ」
時が止まった気がした。
窓から差し込む光が、ダイヤモンドに反射して部屋中に虹を散らす。
「君がいないと、私の世界は色を失うんだ」
彼は切実に続けた。
「物理的な意味でも、精神的な意味でもだ。君が離れると、視界が曇り、空気が澱み、生きている心地がしない。……君だけが、私の世界を鮮やかにしてくれる」
それは、潔癖症の彼らしい、けれど最大限の愛の告白だった。
私を「便利な掃除屋」としてではなく、「世界を彩る光」として見てくれている。
胸の奥が温かくなる。
カイル王子との婚約時代には感じたことのない、満たされた感覚。
それは、頑固な汚れが落ちた時の爽快感にも似て、もっと甘くて優しいもの。
「……条件があります」
私は震える声で答えた。
感動して泣きそうだが、プロとして確認すべきことはある。
「な、なんだ? なんでも言え。城の一つや二つ、君の名義にしてもいい」
「いえ、資産はいりません。ただ……」
私は彼の手を握り返し、ニッコリと微笑んだ。
「結婚しても、掃除は続けさせてください。この城をピカピカに磨き上げるのが、私の生きがいなので」
宰相夫人になれば、普通は掃除などしないだろう。
でも、私は掃除用具を手放すつもりはない。
だって、彼が一番安らげる「無菌空間」を作れるのは、私だけなのだから。
アレクセイ様は、きょとんとして、それから吹き出した。
氷が砕けるような、清涼な笑い声。
「くくっ……。ああ、もちろんだ。君から掃除を取り上げたら、私が君に掃除(消去)されそうだ」
彼は指輪を私の左手薬指に嵌めた。
サイズはぴったり。
ひんやりとした金属の感触が、不思議と心地よい。
「契約成立だ。……愛しているよ、レティーシャ」
「はい。私も、アレクセイ様(と、この綺麗な職場)が大好きです」
彼が顔を近づけてくる。
私は目を閉じた。
唇が触れる瞬間、頭の中で「キュピーン!」という浄化の音が鳴り響いた気がした。
それはきっと、私の人生における「孤独」という最後の汚れが、消滅した音だったに違いない。




