第8話 元婚約者 vs 現雇用主
「通せ! 僕はこの国の賓客だぞ!」
廊下から、聞き覚えのあるヒステリックな声が響いてきた。
王城の静寂を切り裂くその騒音に、私は磨き上げていた花瓶の手を止めた。
「……来たようだな」
アレクセイ様が書類から顔を上げる。
その表情は、害虫の侵入を感知した時のように冷ややかだ。
彼は引き出しから新しいマスクを取り出し、丁寧に装着した。
そして革手袋をはめ、完全防備の体勢を整える。
「入れ」
短く許可を出すと同時に、扉が乱暴に開かれた。
「やっと会えたな、レティーシャ!」
転がり込んできたのは、カイル王子だった。
息を切らし、肩で呼吸をしている。
だが、その姿を見て、私は思わず眉をひそめてしまった。
汚い。
かつては煌びやかだった王子の衣装は、あちこちが薄汚れ、襟元は黄ばんでいる。
髪は脂っぽく束になり、何より、古い生ゴミのような酸っぱい臭いが漂ってくる。
かつて私が毎日【超・浄化】で維持していた「王子様」の輝きは、見る影もない。
「カイル殿下……どうなさいましたか、そのお姿」
「うるさい! 全部お前のせいだぞ!」
カイルは唾を飛ばしながら叫んだ。
「お前がいなくなってから、城はゴミ溜めだ! トイレも流れない、風呂も沸かない! マリアの魔法も限界なんだ!」
「それは、管理不行き届き(マネジメントミス)では?」
「黙れ! お前は僕の婚約者だろ! 所有者の元へ戻って、あの汚い城を掃除する義務があるんだ!」
彼は汚れたブーツで、ピカピカに磨かれた執務室の床を踏みしめた。
その瞬間、室温が氷点下まで下がった気がした。
「……そこまでだ」
アレクセイ様が立ち上がった。
マスク越しの声は低く、そして鋭い。
「私の執務室に細菌を持ち込むな。それと、訂正してもらおう」
「なんだ貴様は! 僕はレティーシャと話しているんだ!」
「私は彼女の雇用主だ」
アレクセイ様は手元の書類を一枚、ひらりと掲げた。
以前、私と彼が交わした『専属清掃業務委託契約書』だ。
そこには私の署名と、宰相印が押されている。
「彼女は現在、サファイア帝国宰相府と正式な契約を結んでいる。貴国との婚約は、あの日、大広間で貴殿自身が破棄を宣言したはずだ」
「そ、それは……言葉の綾だ! 正式な書類は出していない!」
「ほう。では、これはなんだ?」
アレクセイ様は別の紙を取り出した。
それは、あの夜会で私が持ち帰った「婚約破棄および追放命令」の記録だ。
多くの貴族の前で宣言された内容は、口頭であっても魔力誓約としての効力を持つ。
「貴殿は『所有権』を放棄した。ゴミとして捨てたのだ。それを私が拾い、適正な価格で契約した。商取引として、これ以上に明快な理屈はない」
「ぐっ……だ、だが! 彼女は我が国の人間だ! 国益のために奉仕する義務がある!」
「義務? 対価も払わずに?」
アレクセイ様は鼻で笑うと、分厚いファイルを机に叩きつけた。
ドサッ、と重い音が響く。
「これは、レティーシャ嬢が過去数年間にわたり、貴国の王城で行った清掃業務の試算表だ」
「は……?」
「広大な城の衛生維持、害虫駆除、呪いの浄化。これらを専門業者の相場で換算し、さらに深夜労働、休日出勤の割増を加えた。……総額、金貨八億枚」
「は、八億!?」
カイルが裏返った声を出す。
国家予算に匹敵する金額だ。
もちろん、契約書がないので法的な請求権は怪しいが、アレクセイ様の威圧感と緻密な計算書の前では、それが「正当な借金」に見えてくるから不思議だ。
「貴殿が彼女を連れ戻したいなら、まずはこの未払い金を清算してからだ。支払えるのか?」
「そ、そんな金……あるわけないだろ! たかが掃除に!」
「たかが掃除、か」
アレクセイ様の目が据わった。
彼は机を回り込み、カイルの目の前に立つ。
ただし、しっかりと距離を取り、ハンカチで口元を押さえながら。
「その『たかが掃除』ができないせいで、貴国は今、腐海に沈みかけているのだろう? 技術への敬意を持たない者に、彼女を使う資格はない」
カイルは顔を真っ赤にし、パクパクと口を開閉させた。
論理で勝てず、金でも勝てず、衛生面でも完敗している。
彼は救いを求めるように、私を見た。
「レティーシャ……お前も何か言えよ! 僕が好きだったんだろう!? あんな冷たい男より、僕の世話をする方が幸せだろ!?」
その言葉に、私はきょとんとしてしまった。
かつての私は、確かに彼に尽くしていた。
でもそれは「婚約者としての責務」であり、彼自身への愛だったかと言われると、甚だ疑問だ。
何より、今の私は知ってしまった。
労働に対する正当な対価を。
「ありがとう」という言葉の重みを。
そして、私の淹れたお茶を「美味しい」と飲んでくれる人の温かさを。
「いいえ、殿下」
私は真っ直ぐに彼を見据えた。
「私は今、この仕事が大好きです。正当に評価され、必要とされ、そして……」
ちらりとアレクセイ様を見る。
彼は相変わらず無表情だが、その耳がわずかに赤い気がした。
「私の技術を『世界を救う魔法』だと言ってくれるボスがいますから」
「なっ……」
カイルは絶句し、後ずさった。
その拍子に、彼からポトリと何かが落ちる。
王家の紋章が入ったハンカチだ。
だが、それも黒ずみ、カビが生えている。
「ひ、卑怯だぞ! 覚えてろ!」
捨て台詞を残し、カイルは逃げ出した。
汚れたブーツの足跡と、強烈な異臭だけを残して。
「……ふん、雑菌め」
アレクセイ様は即座に窓を全開にし、換気を始めた。
そして私に向き直り、落ちたハンカチを指差す。
「レティーシャ。あれを処理しろ。……それと、床の消毒もだ」
「はい、閣下。追加料金になりますが?」
「構わない。……君を守るための経費なら、いくらでも払う」
彼はマスクを外すと、少し照れくさそうに笑った。
その笑顔は、どんな宝石よりも輝いて見えた。
私はモップを握りしめる。
さあ、残りカス(カイルの痕跡)を一掃して、美味しいお茶でも淹れようか。




