第7話 身勝手な手紙と氷の怒り
執務室の気温が、急激に下がった。
空調の故障ではない。
原因は、デスクに向かっているアレクセイ様の背中から発せられる、物理的な冷気だ。
窓ガラスにピキピキと氷の結晶が走り、私が活けたばかりの花瓶の水が薄く凍りついている。
「……閣下?」
私は磨き上げたばかりの窓枠から振り返った。
彼の手には、一通の手紙が握られている。
執事のセバスが先ほど持ってきた、ルベリア王国からの急送便だ。
「レティーシャ」
呼ばれた声は、地獄の底から響くように低かった。
彼はゆっくりとこちらを向いた。
その瞳は、私が初めて会った時よりも鋭く、絶対零度の怒りを湛えている。
「ここへ来い」
「は、はい」
私は羽毛叩きを置いて近づいた。
いつもの「石鹸の香りが届く距離」で止まろうとしたが、彼は許さなかった。
伸びてきた腕が私の腰を引き寄せ、そのまま自身の膝の上へと座らせる。
「きゃっ!? か、閣下!?」
「動くな。……消毒が必要だ」
彼は私の背中に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
抱きしめる腕の力が強い。
心臓が早鐘を打ち、思考回路がショートしそうになる。
(こ、これは、どういう業務命令……?)
契約書には「視界の範囲に常駐」とはあったが、「膝の上に常駐」とは書いていない。
これは追加料金が発生する案件だろうか。
それとも、彼が極度のストレスで精神的な汚れ(ダメージ)を負った緊急事態なのか。
「あの、そのお手紙は……」
彼の手の中で、くしゃくしゃになった手紙が見えた。
差出人の紋章は、見覚えのあるルベリア王家のもの。
そしてインクの飛び散った汚い筆跡は、間違いなく元婚約者カイルのものだ。
「ゴミだ」
アレクセイ様が吐き捨てるように言った。
「読む価値もない、有害廃棄物だ。君に見せる必要もない」
パキィッ、と乾いた音がした。
彼の手の中で、手紙が一瞬にして凍りつき、粉々に砕け散ったのだ。
文字通り、物理的な情報抹消。
内容は確認できなかったが、あのカイルのことだ。ろくなことは書いていないだろう。
「あいつらは、君を『所有物』だと思っているらしい」
アレクセイ様の声が、怒りで震えている。
「君の意思も、現在の契約も無視して、ただ『戻れ』と喚いている。自分たちが散らかした汚物を、君に片付けさせるためだけに」
ああ、なるほど。
想像がついた。
城が汚れて困ったカイルが、私を便利な自動掃除機として呼び戻そうとしているのだろう。
「命令だ」とか「義務だ」とか、そんな言葉を並べて。
「……戻りませんよ」
私は彼の腕の中で、きっぱりと言った。
「私は今、サファイア帝国と正式な雇用契約を結んでいます。それに、ここでの仕事は正当な対価(報酬)が得られますから」
私の言葉を聞いて、アレクセイ様の腕の力が少しだけ緩んだ。
彼は顔を上げ、至近距離で私の瞳を覗き込む。
「金の問題か? もしあちらが倍の額を出したら?」
「信用がありません。過去の未払い実績が多すぎます」
「……そうか」
彼はふっと口元を緩めた。
その瞳から険しい冷気が消え、代わりに熱っぽい独占欲が浮かび上がる。
「君は賢い。そして、私のものだ」
「契約上は、専属被雇用者です」
「いずれ書き換える」
彼は意味深に囁くと、私を解放した。
そして即座にセバスを呼びつける。
「セバス。外務省へ連絡だ。ルベリア王国に対し、公式な抗議文を送付する」
「承知いたしました。名目は?」
「『我が国の重要技術者に対する不当な拘束の試み』および『名誉毀損』。それと、過去の未払い労働賃金に関する請求書も同封しろ。金額は……そうだな、国家予算の三割ほどか」
「かしこまりました。早急に手配いたします」
セバスが一礼して退室する。
アレクセイ様は冷徹な「氷の宰相」の顔に戻り、新しい羊皮紙を取り出した。
外交ルートを通じた、徹底的な反撃(制裁)の始まりだ。
「彼らは理解していないようだからな」
ペン先が走る音が、まるで剣戟のように鋭く響く。
「契約の重みと、私の怒りを」
ルベリア王国は、触れてはいけない虎の尾を踏んだのだ。
いや、虎というよりは、極度に神経質な氷の竜か。
私は砕け散った手紙の残骸(氷の粒)を、そっと箒で掃き集めた。
溶けて床を濡らす前に処理しなければ。
これは私の仕事だ。
カイルの尻拭いをするのはこれで最後、と思いながら、私は塵取りにゴミを収めた。
だが、これで終わる相手ではないことを、私は知っている。
カイル王子は、自分の要求が通らない時、決して諦めない。
癇癪を起こして、直接乗り込んでくるタイプだ。
(……面倒なことになりそう)
予感は的中する。
数日後、国境の警備隊から「ルベリアの王族を名乗る一行が強行突破しようとしている」という報告が入ることになるのだ。




