第6話 崩壊する祖国(物理)
「……おいマリア、本当に大丈夫なんだろうな?」
僕は鼻を押さえながら、婚約者に問いかけた。
今夜は隣国の使節団を招いての重要な夜会だ。
だというのに、会場である大広間には、どぶ川のような異臭が漂っている。
「平気よぉ、カイル様。あたしの魔法で、ぜーんぶ綺麗に見せちゃいますからぁ」
マリアが自身の杖を振るう。
ピンク色の光が会場を包み込み、薄汚れた壁や床を覆い隠していく。
黒ずんだシャンデリアはダイヤモンドのように輝き、シミだらけのカーペットは深紅の新品に見えるようになった。
「すごいな。さすがは聖女だ」
僕は感心して頷いた。
見た目だけは完璧だ。
かつてここにいた地味な女、レティーシャとは大違いだ。
あの女は毎日セカセカと掃除ばかりして、優雅さのかけらもなかった。
それに比べてマリアの魔法は、一瞬で世界を変えてくれる。
「でも、この臭いはどうにかならないのか?」
「香水を撒けばいいのよぉ。ほら、たっぷり」
マリアがキツイ花の香りの香水を、霧のように散布する。
腐敗臭と花の香りが混ざり合い、なんとも言えない濃厚な空気が生まれた。
少し吐き気がするが、我慢するしかない。
ここ数日、なぜか城中の水回りが壊滅している。
トイレは流れず、風呂の水は濁り、廊下の隅には見たことのない黒い虫が湧いている。
レティーシャを追放した直後からこれだ。
あの女、出ていく際に嫌がらせで呪いをかけていったに違いない。
「それでは殿下、開場のお時間です」
疲れ切った顔の侍従が扉を開ける。
僕は背筋を伸ばし、マリアの手を取った。
「行こう。僕たちの輝かしい姿を見せつけるんだ」
◇
夜会は、当初こそ順調だった。
着飾った貴族たちが、生まれ変わったように(見える)美しい広間に感嘆の声を上げている。
「なんと素晴らしい」
「ルベリア王国の繁栄ぶりが見て取れますな」
僕はワイングラスを片手に、得意満面に頷いた。
このグラスも、実は内側に茶渋がこびりついているのだが、幻影魔法のおかげでクリスタルのように透明に見えている。
「ええ、我が国は常に美を追求しておりますので」
そう答えた時だった。
隣に立っていたマリアが、ふらりとよろめいた。
「……あれぇ? なんか、急に力が……」
彼女の額に脂汗が滲んでいる。
広範囲への【幻影魔法】の維持。
それは彼女の魔力量を超えた重労働だったらしい。
パリン、と乾いた音がした。
まずは、シャンデリアの幻影が砕け散った。
キラキラと輝いていた光が消え、現れたのは、埃と蜘蛛の巣にまみれた薄汚い鉄屑。
パラパラと降り注ぐ埃が、直下にいた貴婦人のスープ皿に落下する。
「きゃっ!?」
悲鳴が上がるが、それは序章に過ぎなかった。
バツン、バツンと音を立てて、魔法が解除されていく。
深紅のカーペットは、ワインと食べこぼしで変色した本来の姿へ。
美しい壁画は、カビと煤で黒ずんだ石壁へ。
そして極めつけは、会場の隅に積み上げられていた「とりあえず隠しておいたゴミの山」の出現だ。
「な、なんだこれは!」
「虫が! ドレスに虫が!」
「臭い! 酷い悪臭だ!」
会場は阿鼻叫喚の地獄と化した。
マリアが誤魔化していたのは視覚情報だけ。
実体としてそこにあった生ゴミ、汚物、害虫たちが、堰を切ったように主張を始めたのだ。
「ひぃぃ! カイル様ぁ、助けてぇ!」
マリアが僕にしがみついてくる。
その拍子に、彼女のドレスの幻影も解けた。
現れたのは、数日洗濯しておらず、ソースの染みがついたままの薄汚れたドレス。
僕の衣装も同様だ。
襟元が黄ばみ、袖口が黒ずんでいる。
「え……?」
招待客たちが、ハンカチで鼻を覆いながら、侮蔑の眼差しを向けてくる。
さっきまでの称賛が、嘲笑へと変わる。
国家の威信が、音を立てて崩れ落ちていく。
「ち、違う! これは僕のせいじゃない!」
僕は叫んだ。
そうだ、これは異常事態だ。
城が勝手に汚れるなんてありえない。
誰かが、悪意を持って汚しているんだ。
脳裏に浮かんだのは、あの女の顔。
地味で、いつも掃除道具を持ち歩いていた、元婚約者。
「レティーシャ……! あいつだ、あいつがやったんだ!」
掃除をサボタージュし、城の機能を停止させ、僕に恥をかかせるための呪い。
そうに決まっている。
でなければ、彼女がいなくなった途端にこんなことになるはずがない。
「殿下、お客様がお帰りになります!」
「止めろ! 誤解だと言え!」
怒号が飛び交う中、僕は怒りで震える手で、近くにあった紙とペンをひったくった。
あいつは勘違いしている。
追放されたからといって、僕との関係が切れたと思っているようだが、大間違いだ。
僕が「戻れ」と言えば、戻ってきて傅くのが彼女の義務だ。
だって僕は王子で、彼女は僕に仕えるために存在していたのだから。
『レティーシャ・ローズブレイドへ告ぐ』
僕はインクを飛び散らせながら書き殴った。
『城が大変なことになっている。貴様の呪いのせいだ。
直ちに城へ戻り、この汚物を処理しろ。
これは命令だ。もし戻らなければ、国家反逆罪で処罰する』
所有権は僕にある。
彼女の労働力も、技術も、本来は僕のために使われるべき国家資産だ。
それを勝手に持ち出し、あまつさえこんな呪いを残していくなど、言語道断。
「おい、これを至急届けろ! サファイア帝国へ向かったという情報がある!」
侍従に手紙を投げつける。
彼もまた、汚れた床に足を滑らせながら慌てて走り去っていった。
僕は荒い息を吐きながら、ゴミと悪臭にまみれた会場を見渡した。
「見ていろ……すぐに元通りにさせてやる」
僕が許せば、彼女は泣いて喜んで戻ってくるはずだ。
そうすれば、この悪夢も終わる。
だって僕は、この国で一番偉い王子様なのだから。




