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汚部屋王子を捨て、無菌の寵愛へ  作者: 月雅


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第5話 専属掃除人と甘い誤算


私は最高級の羽毛叩きを手に、執務室の隅で息を潜めていた。


静寂に包まれた部屋には、カリカリというペン先が紙を走る音だけが響いている。

アレクセイ宰相が、凄まじい速度で書類を処理している音だ。

普段なら部下たちを凍りつかせる「氷の宰相」の執務風景だが、今の状況は少し特殊だった。


「……レティーシャ」

「はい、閣下」

「遠い。あと二歩、右へ」


彼が顔も上げずに指示を出す。

私は音もなく指定された位置――彼のデスクの真横へと移動した。


「これでよろしいでしょうか」

「ああ。石鹸の香りが届く範囲だ。これで呼吸ができる」


彼は満足げに頷き、再び書類に没頭し始めた。


先日結んだ「専属清掃契約」。

その中には、奇妙な特約条項が含まれていた。

『契約期間中、被雇用者は雇用主の視界、および嗅覚が届く範囲に常駐すること』。


理由は単純だ。

私が近くにいると、彼の周囲の空間が常に【超・浄化】の余波で無菌状態に保たれるからだそうだ。

彼にとって私は、歩く高性能空気清浄機らしい。


(まあ、構わないけれど)


私は手元の羽毛叩きを握り直した。

この不可解な待機時間にも、きちんと時給が発生している。

しかも、公務に関わらない個人的な拘束時間として、全額がアレクセイ様の個人資産ポケットマネーから支払われているのだ。

公私混同を許さない彼の潔癖さは、会計処理においても徹底されている。


コンコン、と扉がノックされた。


「入れ」

「失礼いたします。財務報告書の決裁を……」


入室してきたのは、恰幅の良い財務官だった。

彼は部屋に入った瞬間、ぎょっとした顔で固まった。

無理もない。

絶対零度の聖域と呼ばれる宰相執務室に、見知らぬ女が立っているのだから。

しかも、宰相の椅子のすぐ横に侍っている。


「か、閣下? そちらのご令嬢は……」

「気にするな。環境維持装置だ」

「は?」

「そこにいないと、私が窒息して死ぬ」


アレクセイ様は真顔で答え、署名を済ませた書類を突き出した。

財務官は「はあ……」と間の抜けた声を出し、私をチラチラと見ながら退室していった。


扉が閉まると同時に、廊下から「おい、見たか!?」「閣下が女性を囲っているぞ!」という小声が聞こえてくる。


(……誤解されている気がする)


私は小さく溜息をついた。

囲われているのではない。

私は今、デスクの脚に付着した微細な埃を、視線だけで分解処理している最中なのだ。

これは高度な技術職である。


「レティーシャ」

「はい」

「茶を頼む。……君が淹れてくれ」


アレクセイ様がペンを置いた。

本来、給仕は執事やメイドの仕事だが、彼は他人が触れた食器を使いたがらない。

私が洗浄クリーンしたカップでないと口をつけないのだ。


「かしこまりました。別途、技術料を計上させていただきます」

「構わない。言い値で払おう」


私はワゴンからティーセットを取り出した。

カップ、ソーサー、そして茶葉。

すべてに指先で触れ、【浄化】を掛ける。

残留農薬も、保管中に付着した雑菌も、すべて消去。


淹れた紅茶からは、雑味が一切消えた透き通るような香りが立ち上る。


「どうぞ」

「……ああ、美味い」


彼はカップに口をつけ、ほう、と息を吐いた。

張り詰めていた空気が緩み、氷のような瞳がとろりと甘く崩れる。


「君の淹れる茶は、喉に引っかかりがない。……君自身と同じだ」


彼はカップを置くと、無防備に私の手首を掴んだ。

そして、その掌に頬を寄せる。


「ずっとここにいてくれ。君がいない世界になど、もう戻れない」


(……重い)


物理的にではない。感情が、だ。

彼は私の「清掃スキル」に依存しているだけなのだが、表現がいちいち熱烈すぎる。

まるで恋人に愛を囁くような声色だ。


だが、私の心臓も少しだけ脈拍を上げていた。

かつての婚約者カイル王子は、私が何をしても「当たり前」という顔をしていた。

けれどこの人は、私の仕事(と、私自身)を必要とし、正当な対価以上のものを差し出してくる。


「契約期間中は、最高の環境を提供いたします」


私はプロとして、あくまで事務的に答えた。

照れてはいけない。これはビジネスだ。

彼の手の熱さが、手袋越しでも伝わってくるけれど。



一方その頃。

国境を越えた先、ルベリア王国の王城では、異変が起きていた。


「くさい……! なんだこの臭いは!」


カイル王子が叫び声を上げ、鼻をつまんだ。

彼の自室である豪華な寝室に、生ゴミのような異臭が充満していたのだ。


「ごめんなさい、カイル様ぁ。あたしの魔法でも、臭いまでは消せなくてぇ……」


隣でマリアが涙目で謝っている。

彼女の【幻影魔法】は、汚れた部屋の上に「綺麗な部屋の映像」を被せているだけだ。

視覚的にはピカピカに見えても、ベッドの下に溜まった埃、食べ残しの腐敗、排水管の詰まりは、現実としてそこに在る。


「衛兵! メイド! どうなっているんだ! 掃除はどうした!」


カイルが怒鳴り散らすが、誰も動かない。

城の人員は削減され、残った者たちも王子の横暴さに愛想を尽かしてサボタージュを決め込んでいる。


そして何より、これまで城の衛生を一手に引き受けていた「最強の清掃装置」は、もういない。


窓の外では、黒い雲のような蝿の群れが、王城を目指して集まり始めていた。

それは、崩壊の始まりを告げる羽音だった。


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