第4話 魔窟の浄化と宰相の陥落
「では、作業を開始します」
私は手袋を締め直し、部屋の中央に立った。
足元には書類の山。
頭上には蜘蛛の巣のカーテン。
そして部屋全体を覆う、重苦しい空気。
まずは契約内容の最終確認(定義付け)が必要だ。
私の魔法は「所有者が不要と認めたもの」だけを消す。
認識の齟齬は事故の元だ。
「閣下。この部屋にある『重要書類』『家具』『備品』は保存対象。それ以外の『塵』『汚れ』『カビ』『害虫』、そして『空間に漂う不快なもの』はすべて廃棄対象でよろしいですね?」
入り口で待機するアレクセイ宰相に問う。
彼は眉間の皺を深くし、忌々しげに頷いた。
「ああ。書類と私以外は、すべて消えてなくなればいい」
「承知いたしました。……そのお言葉、契約条件として受理します」
私は目を閉じる。
イメージするのは、ルベリアの王城で磨き上げてきた感覚。
そして、昨日ギルドで掴んだ新しい手応え。
魔力を練り上げる。
体内から溢れる力が、部屋の隅々まで行き渡る。
汚れた床も、澱んだ空気も、すべて私の支配下だ。
「【超・浄化】・全域展開」
目を開くと同時に、指を鳴らした。
キュピィィィン!
甲高い音が部屋中に響く。
それは魔法の発動音であり、汚れが断末魔を上げる音でもある。
光の粒子が爆発的に広がった。
書類の山をすり抜け、その間に挟まった微細な埃だけを分解する。
床にこびりついたインクの染みは蒸発し、カーテンの繊維に入り込んだダニは消滅。
そして、部屋の隅に溜まっていた黒い靄――「呪いの前兆」も、光に呑まれて霧散した。
数秒後。
光が収まると、そこには別世界が広がっていた。
「……な」
アレクセイ宰相が絶句する。
窓ガラスは存在を疑うほど透明になり、外の光をダイレクトに取り込んでいる。
書類の山は崩れていないが、その表面は新品の紙のように白い。
空気は高原の朝のように澄み渡り、微かに石鹸の香りが漂う。
「完了です。オプションとして『空気清浄』と『除菌』も行っておきました」
私は額の汗を拭い、振り返った。
これで報酬確定だ。
宰相府の経費から支払われる銀貨の枚数を計算し、頬が緩みそうになる。
だが、アレクセイ宰相の様子がおかしい。
彼は入り口で立ち尽くし、自身の肩を呆然と触っている。
「……軽い」
「はい?」
「鉛のように重かった肩が、嘘のように軽い。頭痛も消えた。……君は、一体何をした?」
「ああ、それですか」
私は手帳を開き、追加項目の欄にペンを走らせた。
「お身体の周囲に『澱み』がこびりついていましたので。ご本人が『私以外は消えろ』と仰いましたから、肩に乗っていた憑き物(汚れ)も処理させていただきました」
「憑き物……?」
「ええ。激務による疲労物質と、他者からの嫉妬が凝り固まったものでしょう。掃除屋にとっては、床の泥汚れと同じです」
物理的な汚れも、魔的な呪いも、私にとっては等しく「除去すべき不要物」だ。
区別する必要はない。
アレクセイ宰相は、信じられないものを見る目で私を見た。
そして、おもむろに口元のマスクに手をかける。
「閣下? まだ検品が終わって……」
制止する間もなく、彼はマスクを外し、床に捨てた。
露わになったのは、彫刻のように整った美貌。
薄い唇が、震えている。
彼は大きく息を吸い込んだ。
「……空気が、甘い」
陶酔したような声だった。
彼はゆっくりと歩き出し、私の目の前まで来る。
いつもの「影を踏むな」という距離ではない。
すぐ目の前、手が届く距離だ。
「これまで、どこの部屋に行っても埃とカビの臭いがした。息をするのも苦痛だった。だが、ここは……」
彼は嵌めていた革手袋を、乱暴に引き抜いた。
素手が露わになる。
極度の潔癖症である彼が、他人の前で肌を晒すなんて。
次の瞬間、その大きな手が、私の両手を包み込んだ。
「!?」
「君だ。君がいなければ、私はもう息ができない」
熱い掌だった。
氷の宰相と呼ばれる男の体温が、手袋越しではなく、直接伝わってくる。
その瞳は、契約書を見る時の冷静なものではなく、まるで救世主を崇める信者のように熱を帯びていた。
「閣下、あの、素手は不衛生では」
「構わない。君は綺麗だ。この部屋のどこよりも、君自身が清浄だ」
彼は私の手を強く握りしめたまま、真剣な眼差しを向けてくる。
「レティーシャ嬢。単発の依頼では駄目だ」
「え?」
「専属契約を結んでくれ。金ならいくらでも払う。私の個人資産をすべて投げ打っても構わない」
提示された条件は、破格だった。
昨日ギルドで提示した金額の倍、いや桁が違う。
しかも、宰相のポケットマネー(個人資産)からの支払いとなれば、国家予算の枠組みに縛られない。
掃除屋として、これ以上の優良顧客は存在しないだろう。
けれど、彼の瞳にある光は、単なる「便利な道具」を見る目とは少し違っていた。
執着。独占欲。
かつてカイル王子に向けられた無関心とは正反対の、重たい感情。
(……まあ、いいわ)
私はビジネスライクに割り切ることにした。
感情の重さは計算外だが、報酬の重さは大歓迎だ。
それに、この魔窟を維持管理できるのは私しかいないという自負もある。
「承知いたしました。では、長期契約の条件を詰めましょう」
私が微笑むと、アレクセイ宰相は初めて、年相応の少年のように笑った。
氷が溶けるような、眩しい笑顔だった。
その笑顔を見て、私の胸がトクンと跳ねたのは、きっと達成感のせいだ。
そうに決まっている。
私は赤くなりそうな顔を隠すように、新しい羊皮紙を取り出した。
まずは、この手を離してもらわなければ、ペンが持てないのだけれど。




