第3話 氷の宰相からの緊急依頼
宿の安っぽいテーブルの上に、場違いなほど上質な封筒が置かれていた。
封蝋に押されているのは、サファイア帝国の国章ではない。
氷の結晶を模した、公爵家の紋章だ。
差出人はアレクセイ・フォン・サファイア。
弱冠二十四歳でこの国の実権を握ると噂される、「氷の宰相」その人である。
「……早いですね」
私は淹れたばかりの安茶を啜った。
ギルドをピカピカに磨き上げてから、まだ一日しか経っていない。
噂の拡散速度が予想以上だ。
あるいは、それほどまでにこの国のトップが「掃除」に飢えていたのか。
封筒の中身は簡潔だった。
『至急、王城へ来られたし。清掃の件にて』
命令形だが、公的文書としての形式は整っている。
私はトランクを持ち上げた。
中には愛用の掃除道具一式と、昨日ギルドで稼いだ銀貨が入っている。
この銀貨で買った新しいインクと羊皮紙も、カバンに詰め込んだ。
これは、大きな商談の予感がする。
◇
王城の応接室は、凍えるほど寒かった。
空調の魔導具が設定温度を間違えているのか、それとも部屋の主の性質か。
「……そこから一歩も動くな」
扉が開くなり、鋭い声が飛んできた。
現れたのは、背の高い青年だった。
銀色の髪に、色素の薄い青い瞳。
美術品のように整った顔立ちだが、その表情は極めて険しい。
そして何より異様なのは、その姿だ。
口元には分厚い布マスク。
両手には隙間のない革手袋。
まるで未知のウイルスと対峙する研究者のような完全防備である。
彼こそがアレクセイ宰相だ。
「君が、ギルドを浄化したという掃除屋か」
「はい、レティーシャと申します」
「近づくな。飛沫が飛ぶ」
彼は私から五メートル以上の距離を取り、ハンカチで口元を押さえた。
初対面の相手に対する態度としては最悪だ。
普通の令嬢なら、「失礼な!」と怒って帰るか、ショックで泣き出すところだろう。
だが、私は違った。
(わかります、閣下……!)
心の中で深く頷く。
人間は、雑菌の塊だ。
呼吸をするだけでウイルスを撒き散らし、皮膚からは角質という名の埃を落とす。
彼の警戒心は、衛生管理責任者としてはあまりに正しい。
「承知いたしました。この距離で商談を行いましょう」
私が平然と答えると、アレクセイ宰相はわずかに目を見開いた。
「……怒らないのか?」
「ええ。衛生管理の観点から、適切な距離かと」
「ほう……」
彼の瞳に宿っていた絶対零度の冷気が、少しだけ緩んだ気がした。
「単刀直入に言おう。私の執務室を掃除してほしい」
彼は苦々しげに言葉を続けた。
「城のメイドたちは無能だ。掃除を命じても、埃を右から左へ移動させるだけ。書類の山を崩し、私の聖域を汚染する。おかげで私は、執務室に入ることすら苦痛だ」
「現状の汚染レベルは?」
「魔窟と呼ばれている」
相当なものらしい。
私は手元のカバンから、昨日購入したばかりの羊皮紙を取り出した。
さらさらとペンを走らせる。
「では、業務委託契約を結ばせていただきます」
「契約? 口頭でいいだろう」
「いいえ。労働条件と報酬の明確化は、プロとしての流儀です」
私は書き上げた羊皮紙を、テーブルの端に置いた。
アレクセイ宰相がそれを手に取る。
手袋越しに、彼が文面に目を通す。
『清掃業務委託契約書』
1.業務範囲:宰相執務室内の「不要物(汚れ・ゴミ・呪い)」の撤去。
2.報酬:清掃面積1平方メートルあたり銀貨1枚。汚れ深度により割増あり。
3.免責:必要な書類等の誤廃棄防止のため、分類は依頼主立ち合いのもと行う。
4.支払い元:王城管理予算、または依頼主の個人資産であることを明記すること。
「……細かいな」
「以前の職場(ルベリア王城)で、曖昧な契約により無償労働を強いられましたので」
私が淡々と告げると、彼は鼻で笑った。
嘲笑ではない。どこか、気に入ったような響きだった。
「いいだろう。合理的だ」
彼は懐からペンを取り出し、サインをした。
支払い元には『宰相府経費』と記されている。
公的な依頼として処理されるようだ。これなら未払いの心配はない。
「ついてこい。……ただし、私の影を踏まない距離でな」
「承知しました」
私はトランクを握りしめ、彼の背中を追った。
廊下は磨かれているように見えるが、隅には埃が溜まっている。
宰相閣下がピリピリするのも無理はない。
やがて、重厚な扉の前に到着した。
ここが王国の心臓部であり、同時に「魔窟」と呼ばれる場所。
「開けるぞ。……息を止めておいた方がいい」
アレクセイ宰相が、忌々しげに扉を押した。
ギィ、と重い音がして、中から空気が漏れ出す。
その瞬間、私は思わず目を細めた。
「これは……」
部屋の中は、薄暗く澱んでいた。
山積みの書類。
その隙間を埋めるように堆積した埃。
そして何より、部屋の隅に漂う黒い靄。
ただの汚れではない。
激務とストレス、そして人の悪意が凝縮して生まれた、微弱な「呪い」の前兆だ。
彼が肩こりや頭痛に悩まされているなら、原因は間違いなくこれだろう。
「どうだ。逃げ出したくなったか?」
マスク越しに、挑発的な声が響く。
私は口元を釣り上げた。
逃げる?
まさか。
私の目には、この部屋が宝の山に見えていた。
これほどの汚れ(やりがい)。
そして、これを浄化した時の達成感。
何より、契約書に書かれた「汚れ深度による割増料金」。
「いいえ、閣下」
私は手袋をはめ直し、ミスリル製モップを構えた。
「素晴らしい現場です。追加料金をいただけますか?」
さあ、お掃除の時間だ。




