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汚部屋王子を捨て、無菌の寵愛へ  作者: 月雅


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第3話 氷の宰相からの緊急依頼


宿の安っぽいテーブルの上に、場違いなほど上質な封筒が置かれていた。


封蝋に押されているのは、サファイア帝国の国章ではない。

氷の結晶を模した、公爵家の紋章だ。

差出人はアレクセイ・フォン・サファイア。

弱冠二十四歳でこの国の実権を握ると噂される、「氷の宰相」その人である。


「……早いですね」


私は淹れたばかりの安茶を啜った。

ギルドをピカピカに磨き上げてから、まだ一日しか経っていない。

噂の拡散速度が予想以上だ。

あるいは、それほどまでにこの国のトップが「掃除」に飢えていたのか。


封筒の中身は簡潔だった。

『至急、王城へ来られたし。清掃の件にて』

命令形だが、公的文書としての形式は整っている。


私はトランクを持ち上げた。

中には愛用の掃除道具一式と、昨日ギルドで稼いだ銀貨が入っている。

この銀貨で買った新しいインクと羊皮紙も、カバンに詰め込んだ。


これは、大きな商談の予感がする。



王城の応接室は、凍えるほど寒かった。

空調の魔導具が設定温度を間違えているのか、それとも部屋の主の性質か。


「……そこから一歩も動くな」


扉が開くなり、鋭い声が飛んできた。


現れたのは、背の高い青年だった。

銀色の髪に、色素の薄い青い瞳。

美術品のように整った顔立ちだが、その表情は極めて険しい。

そして何より異様なのは、その姿だ。


口元には分厚い布マスク。

両手には隙間のない革手袋。

まるで未知のウイルスと対峙する研究者のような完全防備である。


彼こそがアレクセイ宰相だ。


「君が、ギルドを浄化したという掃除屋か」

「はい、レティーシャと申します」

「近づくな。飛沫が飛ぶ」


彼は私から五メートル以上の距離を取り、ハンカチで口元を押さえた。

初対面の相手に対する態度としては最悪だ。

普通の令嬢なら、「失礼な!」と怒って帰るか、ショックで泣き出すところだろう。


だが、私は違った。


(わかります、閣下……!)


心の中で深く頷く。

人間は、雑菌の塊だ。

呼吸をするだけでウイルスを撒き散らし、皮膚からは角質という名のダストを落とす。

彼の警戒心は、衛生管理責任者としてはあまりに正しい。


「承知いたしました。この距離で商談を行いましょう」


私が平然と答えると、アレクセイ宰相はわずかに目を見開いた。


「……怒らないのか?」

「ええ。衛生管理リスクマネジメントの観点から、適切な距離ソーシャルディスタンスかと」

「ほう……」


彼の瞳に宿っていた絶対零度の冷気が、少しだけ緩んだ気がした。


「単刀直入に言おう。私の執務室を掃除してほしい」


彼は苦々しげに言葉を続けた。


「城のメイドたちは無能だ。掃除を命じても、埃を右から左へ移動させるだけ。書類の山を崩し、私の聖域を汚染する。おかげで私は、執務室に入ることすら苦痛だ」


「現状の汚染レベルは?」


「魔窟と呼ばれている」


相当なものらしい。

私は手元のカバンから、昨日購入したばかりの羊皮紙を取り出した。

さらさらとペンを走らせる。


「では、業務委託契約を結ばせていただきます」


「契約? 口頭でいいだろう」


「いいえ。労働条件と報酬の明確化は、プロとしての流儀です」


私は書き上げた羊皮紙を、テーブルの端に置いた。

アレクセイ宰相がそれを手に取る。

手袋越しに、彼が文面に目を通す。


『清掃業務委託契約書』

1.業務範囲:宰相執務室内の「不要物(汚れ・ゴミ・呪い)」の撤去。

2.報酬:清掃面積1平方メートルあたり銀貨1枚。汚れ深度により割増あり。

3.免責:必要な書類等の誤廃棄防止のため、分類は依頼主立ち合いのもと行う。

4.支払い元:王城管理予算、または依頼主の個人資産であることを明記すること。


「……細かいな」


「以前の職場(ルベリア王城)で、曖昧な契約により無償労働を強いられましたので」


私が淡々と告げると、彼は鼻で笑った。

嘲笑ではない。どこか、気に入ったような響きだった。


「いいだろう。合理的だ」


彼は懐からペンを取り出し、サインをした。

支払い元には『宰相府経費』と記されている。

公的な依頼オファーとして処理されるようだ。これなら未払いの心配はない。


「ついてこい。……ただし、私の影を踏まない距離でな」


「承知しました」


私はトランクを握りしめ、彼の背中を追った。

廊下は磨かれているように見えるが、隅には埃が溜まっている。

宰相閣下がピリピリするのも無理はない。


やがて、重厚な扉の前に到着した。

ここが王国の心臓部であり、同時に「魔窟」と呼ばれる場所。


「開けるぞ。……息を止めておいた方がいい」


アレクセイ宰相が、忌々しげに扉を押した。


ギィ、と重い音がして、中から空気が漏れ出す。

その瞬間、私は思わず目を細めた。


「これは……」


部屋の中は、薄暗く澱んでいた。

山積みの書類。

その隙間を埋めるように堆積した埃。

そして何より、部屋の隅に漂う黒いもや


ただの汚れではない。

激務とストレス、そして人の悪意が凝縮して生まれた、微弱な「呪い」の前兆だ。

彼が肩こりや頭痛に悩まされているなら、原因は間違いなくこれだろう。


「どうだ。逃げ出したくなったか?」


マスク越しに、挑発的な声が響く。


私は口元を釣り上げた。

逃げる?

まさか。


私の目には、この部屋が宝の山に見えていた。

これほどの汚れ(やりがい)。

そして、これを浄化した時の達成感カタルシス

何より、契約書に書かれた「汚れ深度による割増料金」。


「いいえ、閣下」


私は手袋をはめ直し、ミスリル製モップを構えた。


「素晴らしい現場です。追加料金オプションをいただけますか?」


さあ、お掃除の時間だ。


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