第1話 汚部屋からの解放宣言
「レティーシャ・ローズブレイド! 貴様との婚約を破棄する!」
王城の大広間に、カイル王子の声が響き渡った。
きらびやかなシャンデリアの下。
貴族たちがざわめき、扇で口元を隠しながらこちらを見ている。
王子の隣には、彼の腕にべったりとしがみつく男爵令嬢マリアの姿があった。
「そして、この国からの追放を命じる!」
突きつけられた指先が震えている。
私はゆっくりと瞬きをして、その光景を眺めた。
ついに、来た。
この瞬間が。
王子の背後に見えるカーテンの裾。
あそこに昨日、蜘蛛の巣があったはずだ。
今朝、私がこっそり【超・浄化】で消しておいたから、今は綺麗だ。
シャンデリアの輝きも、私が先週、足場の悪い梯子に登って磨き上げた成果だ。
けれど、彼はそれを知らない。
「何か言ったらどうだ! お前のような薄汚い女、僕の隣にはふさわしくない!」
カイル王子が叫ぶ。
薄汚い、と言われた。
確かに今の私は、夜会服こそ着ているものの、指先は少し荒れているかもしれない。
毎日の掃除で、洗剤負けしているから。
「そうよぉ、レティーシャ様。王城は神聖な場所ですもの。いつも煤まみれの貴女がいると、空気が澱んでしまいますわ」
マリアが甘ったるい声で追撃する。
彼女は【幻影魔法】の使い手だ。
自身の肌荒れも、ドレスの染みも、キラキラした幻影で覆い隠している。
中身がどうであれ、見た目さえ良ければいいという彼女のスタンス。
私とは相容れない。
「……謹んで、お受けいたします」
私は深くカーテシーをした。
顔を伏せ、肩を震わせる。
「うむ。ようやく自分の立場を理解したようだな」
王子が満足げに鼻を鳴らした。
周囲からは「可哀想に」「泣いているのか」と同情の声が漏れる。
違う。
笑いが、止まらないのだ。
(やった……!)
心の中で、私はガッツポーズをした。
(やったわ! これで解放される!)
王子の婚約者という立場は、私にとって「無償労働の強制」でしかなかった。
次期王妃教育という名目で城に呼び出され、待っていたのは掃除、掃除、また掃除。
予算不足を理由にメイドが減らされ、衛生観念の低いこの城は、放っておけば三日でゴミ屋敷になる。
「僕の世話は他人がして当たり前」と豪語するカイル王子の部屋など、魔窟そのものだった。
脱ぎ捨てられた靴下。
飲みかけのワイングラス。
食べこぼしの染みがついた絨毯。
それらを【超・浄化】で分子レベルから分解し、ピカピカに維持してきたのは誰か。
私だ。
感謝の言葉ひとつなく、「部屋が綺麗なのは僕の徳が高いからだ」と言い放った彼に、何度モップの柄を叩きつけてやろうと思ったか。
それが、今日で終わる。
婚約破棄。
国外追放。
つまり、雇用契約(仮)の解除通告だ。
「……直ちに、出て行きますわ」
顔を上げ、私は努めて悲痛な表情を作った。
目は潤んでいるように見えるかもしれないが、これはあくびを噛み殺したせいだ。
「ああ、二度とその顔を見せるな。……おい、衛兵。彼女を馬車に乗せろ」
カイル王子が手を振る。
まるで厄介なゴミを払うような仕草。
そのゴミを処理してきたのが私だという皮肉に、彼は一生気づかないだろう。
「お待ちください、殿下」
私は衛兵を制止し、毅然と顔を上げた。
「私の私物は、すべて持ち帰らせていただきます。よろしいですね?」
「は? 私物だと? そんな汚い荷物、城にはいらん。好きにしろ」
「ありがとうございます。契約成立、とみなします」
私はドレスの裾を翻し、早足で会場を出た。
◇
馬車寄せには、すでに私の荷物が積まれた馬車が待機していた。
実家の父が手配してくれたものだ。
父もまた、王家の浪費癖と衛生管理のなさに呆れ果てていた一人である。
「何かあったらすぐに逃げろ」と言われていた準備が、ここで役立った。
「お嬢様、お荷物はこれだけでよろしいので?」
御者が心配そうに尋ねてくる。
トランクが一つと、細長い包みが三つ。
「ええ、問題ないわ」
私は包みを愛おしそうに撫でた。
中身は、特注のミスリル製モップ、高密度の魔導ブラシ、そして長年愛用してきたゴム手袋だ。
これらは全て、私の小遣い(個人資産)で購入した商売道具。
王家の備品ではないので、堂々と持ち出せる。
逆に言えば、私が王家に残してきたものは何もない。
城を維持していた魔力も、ピカピカに磨き上げた技術も、すべて私が持ち出す。
あとに残るのは、本来あるべき姿の「城」だけ。
つまり、汚れが蓄積していく巨大な石造りの建物だ。
「行き先はどちらへ?」
「東へ。国境を越えて、サファイア帝国へ向かってちょうだい」
サファイア帝国。
ここルベリア王国とは違い、徹底した実力主義と、厳格な法治国家として知られる隣国だ。
そして何より、あの国は「清潔」で有名だ。
街路は整備され、下水道も完備されているという。
私の【超・浄化】スキルを、ただの雑用としてではなく、正当な技術として評価してくれるかもしれない。
「かしこまりました」
御者が鞭を振るう。
馬車がガタゴトと動き出した。
王城が遠ざかっていく。
窓から見える城壁の一角に、黒ずんだ苔が生えているのが見えた。
いつもなら、すぐに指を鳴らして消去するところだ。
だが、私は手を膝の上に置いたまま動かさない。
もう、私の管轄外だ。
「さようなら、カイル殿下」
私は小さく呟いた。
胸にあるのは、一点の曇りもない清々しさ。
まるで頑固な油汚れが、強力な洗剤でするりと落ちた時のような快感。
これからは、私の人生だ。
私の魔力も、技術も、労働力も。
すべて私自身のために使い、正当な対価を得る。
馬車は夜の街道をひた走る。
目指すは新天地。
私はトランクから新しい手帳を取り出し、最初のページに大きく書き込んだ。
『業務日誌:一日目。未払い労働からの脱却。収支、プライスレス』
夜風が心地よかった。




