第79話 流れはじめたもの
その夜、トラル寮の部屋は、まだ少し落ち着かない空気に包まれていた。
学園生活、一週目。新しい時間割。新しい授業。新しい人たち。
知らないことだらけで、胸のあたりがずっとそわそわしている。
そんな中でも——
机の上だけは、いつも通りに整えてあった。
教科書とノートが三冊。
一番上のノートを、そっと開く。
午後の授業、「基礎魔法陣・一回目」のページ。
黒板に描かれた、《ライト》の魔法陣。
……本当に、没収されちゃったな。
昼間の光景が、自然と頭に浮かぶ。
アレンくんのノートをひったくって、《ライト》のページだけ破り取って、懐にしまい込んだオルフェン先生。
「落書きは没収だ」と言いながら、紙から目を離そうとしなかった横顔。
そんなに、変だったのかな。
いや、変なのだろう。教科書とは違うのだから。
でも——僕は、あの線がどうしても気になっていた。
◇
ペンを取る。
新しいページに、もう一度、《ライト》の魔法陣を描く。
まずは教科書どおり。
円。三つの紋様。短い線。
そこまでは、何度も練習した形だ。
次に——
アレンくんが足した一本を、記憶をたどりながら描き加える。
紋様の手前で分かれて、小さく回って、円の別の場所に合流する、あの線。
「ここで、分かれて……」
口の中で、小さくなぞりながら、ペンを動かす。
最初は、位置がうろ覚えで、三回目で、ようやく「これだ」と思える形になった。
描き終えた図を、じっと見つめる。
形だけを見れば、ただ線が一本増えただけだ。
それなのに——何となく、さっきから感じている違和感。
僕は、ペンの先で入口のところを軽く突いた。
「ここから、魔力が入ってきて」
そこから紋様へ向かう線をなぞる。
「ここで、光る」
そして、アレンくんが言っていた「溜める」場所。
そこから、足した一本へ。
「ここで、分かれて……」
一本の線が、小さな輪を描いて、円の別の位置に戻っていく。
そのとき——
「あ」
胸の奥で、何かが、ぽん、と弾けた。
「流れてる」
今、一瞬だけ、魔力がそこを通っていく道が見えた。
「……そうか」
今まで、ずっと逆だと思っていた。
線を増やすと、ごちゃごちゃ「汚く」なる。
だから、できるだけ減らして、左右対称で、シンプルに描くのが「美しい」と。
でも、止まってるなら、増やさないと、流れない。
線の上を、何がどう通っているかなんて、考えたことがなかった。
アレンくんは、違った。
「楽かどうか」「苦しくならないかどうか」
考えているのは、いつもそれだ。
正しいとか、きれいとか、そういう言葉は出てこない。
結果として「流れている線」になっている。
……ずるいな。
思わず、小さく笑ってしまう。
◇
「アレンくん」
ベッドの上で足を伸ばしていたアレンくんに、声をかける。
「ん?」
「……《ライト》以外でも、やってみていい、かな」
僕は、少しだけ迷ってから続けた。
「魔法陣のやつ。自分でも、線を足してみたい」
アレンくんは、意外そうに目を瞬かせてから、すぐに笑顔になった。
「いいんじゃない? 俺も見てみたいし」
少しだけ緊張していた肩の力が抜ける。
教科書をめくって、次のページに載っている魔法陣を探す。
選んだのは、《ウォーム》。
手を温めたり、水をぬるくしたりする、簡単な熱の魔法だ。
まずは、教科書どおりに写す。
小さめの円。内側に、渦巻きのような紋様。
そこへ向かう線が数本。形は、すぐにきれいに描けた。
問題は、そのあとだ。
ここから入ってきて、ここで熱になる……
頭の中で「動く様子」を想像してみる。
描き終えて、ノートを見下ろす。
入口からの道、溜める場所、戻る道、包む蓋。
自分の中では、一応、全部意味がある。
「アレンくん、ちょっと、見てもらってもいい?」
アレンくんは、ベッドの上に座り直して、ノートを受け取った。
何も言わずに眺める。目が、線の上を何度も往復する。
「うまく動かないと思う」
「だよね……」
「でも、ここから流してみたいって考えてるのは分かる」
◇
ランプの火が、静かに揺れていた。
アレンくんは、もうベッドに潜り込んで、寝息を立てている。
僕は、机の前で、もう一度ノートを開いた。
教科書どおりの《ライト》と《ウォーム》。
アレンくんが直してくれたもの。
教科書のは、形はきれいだ。
でも、入口から入った魔力が、目では追えない。
アレンくんのは、流れが見える。ちゃんと「通り道」になっている。
「ちゃんと流れるから美しいって考えも、あるのかもしれない」
だったら——
僕も自分で描けるようになりたい。
意味のある線を、いつか自分で。
◇
同じころ——
石造りの別棟では、一人の男が机に向かっていた。
オルフェン。
ランプの灯りに照らされた机の上には、紙が三枚、静かに並んでいる。
一枚目は、入試のときの、魔力線図の写し。
背骨に沿った主線。
そこから枝分かれする線。
さらにその上に重なる百本を超える細い線。
何度見ても、自分の目には三十本までしかはっきり見えない。
残りは、「ある」としか言えない世界だ。
二枚目は、訓練場での身体強化を、自分の記憶から描き起こした図。
少年の胸の真ん中に、小さな光。
そこから、必要な瞬間だけ、足首や膝や肩へ飛ぶ「点」の光。
膜のように覆うのではなく、必要なところにだけ刺さる「灯」。
三枚目は、今日、授業中にこっそり破り取ってきた紙片。《ライト》の魔法陣。
教科書どおりの、稚拙でシンプルな図——に、一本、細い線が足されている。
オルフェンは、三枚の紙を、順番に見比べた。
どれも、まったく違う。
だが、目を離せないという一点では、同じだった。
緻密な細線が織りなす、編み物のような様式美。
太い線が一気に走り抜ける、鼓動のようなダイナミズム。
余白と線の比率が作り出す、骨格の黄金バランス。
美しい。
複雑でありながら、破綻しない。
精巧でありながら、どこか野性を残す。
強い一撃でありながら、その軌跡が一枚の絵として完結している。
魔法だろうと、身体強化だろうと、魔法陣だろうと──
完成しているものは、同じ高さに立つ。
オルフェンは、かすかに口元を歪めた。
「厄介な子どもだ」
4章これで終わりです。




