第77話 ただいま
あの夜のことは、何度夢に見ても薄まらない。
砦の上から見えた、泥と炎と光の川。
地鳴りのような咆哮と、土砂の音。
父の声。兵たちの怒号。
そして——
砦の内側で「ここから出るな」と言い含めたはずの、小さな背中。
止められなかった。
何度思い返しても、そこに戻ってくる。
あのとき、強く腕をつかめなかったのは、自分だ。
「勝手に突っ走るな」
「一人で抱え込むな」
「家族を、領地を信じろ」
そう言うだけのことだ。
そのくらいのことも言えないで、あの夜、弟を一人にしたのだとしたら——
そんな兄でいるくらいなら、兄なんて名乗る資格はない。
だから、自分もやった。
領地の復興に走り、学園の課題を落とさず。
魔法の修練も、剣の鍛錬も。
「あいつに胸を張って叱れる兄になるため」に——
◇
アレンが王都に来ると聞いたのは、冬が終わる少し前だった。
父の手紙には、「エルフの里から、王都に戻される」とだけ書いてあった。
……相変わらず、雑だな。
苦笑はしたが、胸の内側はひどくざわついていた。
父も本当は分かっていないのだ。
エルフがどこまで関わったのか。
王都がどこまで責任を取るのか。
そして——弟が今、どんな顔をしているのか。
だったら、俺が探すしかない。
そう思って、まず向かったのは、王都の冒険者ギルドだった。
◇
「アレン・ハルトシュタイン?」
受付嬢が、手元の控えをめくりながら眉を上げた。
胸元の名札には、小さくアニエスとある。
「ええと……ああ、あのスタンピードの英雄くんね」
「英雄?」
思わず、声が少し低くなる。
「王都でも、その呼び名なんですか?」
「最初は、ね」
アニエスは、少しだけ口元をゆがめた。
「こっちに来たときは、王城からもギルドからも、そんな感じで扱われてたけど。
すぐに、そうでもなくなったけどね」
「……そうですか」
「ほら、あのガキだろ? 一発でボス落としたって話の」
「どうせ話が盛られてんだろ。王城でもてはやされて、今は音沙汰なしってやつ」
背後のテーブルから、小さな笑い声が漏れる。
アニエスの手が、ペン先を持ったまま、ぴたりと止まった。
「お仕事中ですよー」
さらっと、声を飛ばす。
からかっていた連中が、ばつが悪そうに口をつぐんだ。
「今は、どこに?」
アニエスは帳簿の端を指でたどり、
「下町の孤児院に世話になってたって、聞いてる。
そこから、焼き肉屋の手伝いに行ってるみたい。
腹をふくらませる英雄様って、酒場ではそう言われてるわね」
「えっと。名前は——」
受付嬢が小さなメモを取り出し、一番上に書かれていた名前を指で叩いた。
「《子どもの家》よ」
◇
《子どもの家》は、王都の端っこにあった。
剥がれた壁。ところどころ直した跡のある屋根。
それでも、窓からは子どもたちの笑い声が漏れていた。
「あら」
玄関を開けた瞬間、
腕まくりした女性がこちらを振り向く。
ミレーネと呼ばれていた。
「お貴族さまじゃない。何の用?」
「ルーク・ハルトシュタインと申します」
ルークは名乗り、深く頭を下げた。
「弟が——ここに世話になっていたと聞いて」
「ああ、アレンね」
ミレーネは、あっさりと頷いた。
「確かにしばらくは居候してたわよ。よく働くし、よく稼ぐし、よく無茶するし」
「……無茶、ですか」
「スタンピードの英雄様だからって、ここの子たちまで巻き込んで、英雄ごっこしようとするからね」
呆れたように笑う。
「まあ、そのおかげで、今の子たちの飯が増えてるんだけど」
ミレーネは、窓の向こうを顎でさした。
そこには、小さな台と、煙が見えた。
「焼き肉屋。
あの子が持ってきた報奨金を元手に、下町で一番、腹のふくれる店をやろうとしてる」
「……」
「でも、今日は会えないわね」
「会えない……?」
「朝から出て行ったもの。ここ数日は、学園の試験がどうこうって騒いでたから」
言いながら、ミレーネは肩をすくめた。
「だから、あの子は、たぶん試験場か、その帰り道のどこかよ」
学園の試験という言葉に、ルークの胸の奥が、かすかにひっかかった。
王立学園の入試時期くらい、もちろん知っている。
でも、それと弟の姿が、すぐには結びつかなかった。
ミレーネは、軽く笑って肩をすくめた。
「間の悪いお兄ちゃんね」
「……そうみたいです」
ルークは、自分の胸の奥がじわじわと痛くなるのを感じた。
王都でもう、自分の居場所を作ってるのか。
誇らしさと、取り残されたような寂しさが、同時に胸を叩く。
◇
入試の日も、同じだった。
本来なら、上級生が正門付近をうろつくのは歓迎されない。
それでも、授業と寮の仕事の合間を縫って、ルークは試験会場の近くまで足を運んだ。
だが——
「午前の筆記は、とっくに終わりましたよ」
係の教員は、申し訳なさそうに言った。
「もう帰りましたか」
「さあ。筆記が受かってれば、実技にまた来るかもしれませんが」
実技の日。
訓練場の端まで行ったときには、すでに実技試験は終わりかけていた。
遠くから、受験生のざわめきだけが聞こえる。
「豆粒、マジ笑った」
断片的な言葉。
やっぱり、あいつだな。確信だけが、胸に積もっていく。
でも、今行っても、ただ「間に合わなかった兄」をさらけ出すだけだ。
だから——
壁の向こうから聞こえてくる歓声を、黙って聞いていた。
「歴代コースタイム、大幅更新!」
「はぁ!? ロウガ先輩より速いのかよ!」
「あいつ絶対おかしいって」
細く握りしめた拳。
吸い込んだ息を、喉の奥で押し戻す。
「……また、突っ走ってるのか」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
そして、踵を返した。
◇
だから、あの日。
食堂で、弟の名を聞いたときも——
最初は、深呼吸をしてから立とうとしたのだ。
「おいおい、もしかして——入試で噂の豆粒くんか?」
その言葉を聞いた瞬間、心拍が一段、跳ねた。
冗談だ。ここは寮で、あいつらに悪意はない。
それくらい、頭では分かっている。
でも——
砦の前の光景が、脳裏にぶり返す。
泥と光と、あの小さな背中。
違う。
心の中の声が、勝手に言葉になっていた。
椅子を引いたとき、自分でも驚くほど大きな音が出た。
食堂のざわめきが、ぴたりと止まる。
普段なら、こんな目立ち方は絶対にしない。
空気を読み、場を収める側に立つべき人間だ。
それでも——
このときだけは、言葉が先に出た。
「……言葉を選べ」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「あいつは、豆粒じゃない」
何度も練習したはずの「叱り言葉」じゃなかった。
「あの夜—— 砦の前線を照らし続けた灯だ」
言ってから、自分で少し驚いた。
そんな台詞、用意してなかったぞ、俺。
でも、止まらない。
「あの灯がなければ、今ここで笑っていられる人間は、半分もいなかった」
それは、事実だった。
アレンがどれだけ泥を用意し、どれだけ眠り石を仕込み、どれだけ外側から波の形を崩したか。
自分が、その場にいなかったことだけが、今も胸に刺さっている。
からかっていたやつが、わずかに目をそらし、「……悪かった」と呟いた。
それを聞いて、少しだけ肩の力が抜ける。
そのとき、ようやく弟の視線に気づいた。
「……ルーク兄さん?」
昔と、ほとんど変わらない声。
でも、ほんの少しだけ低くなっている。
自分の胸の高さも、ほんの少しだけ変わっている。
……ああ、生きてる。
頭で分かっていた事実が、ようやく「目の前の現実」に変わった瞬間だった。
◇
中庭に出たとき、
スタンピードのことを聞こう。
エルフのことを聞こう。
世界樹のことを聞こう。
王都でどう暮らしていたのか聞こう。
そう思っていたのに——
「……あれから、何があった」
それしか出てこなかった。
なんで十倍なんて撃った。
なんで世界樹にまで首を突っ込んだ。
なんで王都でまで無茶を——
けれど、そのたびに、あの夜のことが思い出された。
その事実だけは、どう取り繕っても変わらない。
だから——
「……よく、生きて戻ってきた」
それだけだった。
次の瞬間、自然に自分の身体が動いた。
弟の細い肩をつかんで、ぐいっと引き寄せる。
「うわ」
情けない声が出たが、知るか。
抱きしめた感触は、記憶より軽くて……
生きてきたぶんだけ、ちゃんと重くなっている。
何度も、言葉を考えてきた。
領地の復興に走りながら。
教室でペンを動かしながら。
王都で、学園でお前がどんな顔してるのか想像しながら——
「お前の顔見たら、全部、どうでもよくなった」
長男だ。上級生だ。将来は領地を背負って立つ。
弟の前で、泣くわけにはいかない。
そう思っていたのに——
「生きててくれて」
胸の中に積もっていた言葉が、みんな形を失っていく。
「ありがとう」
叱るとか、資格があるとかないとか。
そんなものは、後からいくらでも考えればいい。
腕の中で、アレンが少し動いた。
「ただいま」
くぐもった声が、胸に響く。
背中に、小さな腕の感触。
「……もう一回だけ言っとく」
ルークは、鼻をすすりながら言った。
「無茶をするな」
「うん」
「でも、してしまったときは——」
言葉を探す。
叱るのでも、責めるのでもなく。
「ちゃんと帰ってきて、ただいまって言え。
そのときは、何度でもおかえりって言ってやる」
アレンが、小さく笑った気がした。
「分かった」
今はただ——それでいい。




