第75話 おかしな走り
「まあ、いつも通りやるだけだ」
ロウガは腕を軽く回し、首を鳴らしていた。
騎士科の障害物コース——
壁超えから始まり、丸太渡り、雲梯が順番に並ぶ、「走って、跳んで、つかまる」単純な仕掛け。
最後に急斜面の大きな壁が待ち構える難所がある。
そのスタート地点に、ロウガが立っていた。
心拍は、適度に上がっている。足裏の感覚もいい。
風向きも、土の湿り気も、問題なし。
「ロウガ。わかってるな」
ローガンが、にやにやしながら言う。
その言葉にロウガは、軽く笑う。
身体強化なんざ、型を覚えりゃ誰でもそこそこはできる。
本当に差が出るのは——
筋肉に力を込めるタイミング。抜くタイミング。
どこで息を吐いて、どこで溜めるか。使い方だ。
その点、自分は人より少しだけ上手い。
一族みんなが「身体強化の使い手」だったおかげでもある。
「スタート!」
合図が上がった瞬間、土を蹴った。
◇
最初の仕掛けは、正面に低い壁と、その手前の両側面に傾けられた斜面の壁。
真っすぐ行けば、背丈の高さくらいの壁をそのまま越える。
横の斜面を使って走り抜ければ、その勢いで壁を超えることもできる。
ロウガは、真っすぐを選んだ。
ここで変なことしても、得しねえ。
小さくジャンプし、壁に片手をついて乗り越える。
着地と同時に、足首の力を抜く。衝撃で膝を壊さないように。
一連の流れはスムーズだ。
よし。次は丸太渡りだ。
地面から少し浮いた丸太が、いくつも一直線に並んでいる。
一つ一つが、微妙に不安定だ。
「ほい、ほい、ほいっと」
軽い足取りで、一歩ずつ踏んでいく。
一本飛ばしもできなくはないが、わざわざリスクを増やす場面でもない。
両脇で見ている受験生たちが、ざわつく。
「はや……」
耳に入る声を、意識的に外す。
次は雲梯。ぶら下がる鉄棒が、一直線に並ぶ。
ここまでで、強化三分。
ロウガは、自分の身体強化の「持ち」を、感覚で把握している。
全開で走り続ければ三〜四分。要所でレベルを落とせば、五分は持たせられる。
だから、ここで急ぐ必要はない。
両手でしっかりと棒をつかみ、一つずつ前へ。
握力と肩に力をいれ、腰もひねり、足の揺れも利用する。
ここで落ちたら、全部台無しだしだしな。
最後の棒をつかみ、勢いを利用して前に飛び降りる。
視界の先には、最後の急斜面が見えた。
壁のようにそびえる土の坂。
上辺にかろうじて両手が届く高さ。
ロウガは、一度だけ深く息を吸い込んだ。
加速。足裏に土の感触を刻みつける。
斜面に足をかける瞬間、全身の筋肉に一気に魔力を通す。
駆け上がり、最後のところでジャンプ。
上辺をがしっとつかむ。
腕と背中を総動員して、身体を引き上げる。
上まで登り切り、鐘を鳴らした。
「記録——」
記録係が、砂時計と板を見比べ、声を上げる。
「……歴代コースタイム、更新!」
一瞬の静寂。
次の瞬間、歓声が爆発した。
ロウガは、軽く手を挙げただけで、すぐに呼吸を整え始めた。
特別でも、手を抜いたわけでもない。いつも通りの「最速・安全運転」。
派手に飛び回るやつもいるが、そういうのはだいたい、どこかでガス欠する。
問題は——視線を横にずらす。
少し離れたところで、細い少年が、自分の足首を軽く叩いていた。
あの坊主が、どう走るかだ。
◇
「次。アレン・ハルトシュタイン」
が呼ぶ。
アレンが、スタート地点に立つ。
騎士科志望たちの間に、ひそひそ声が走った。
「マジで走らせんのかよ」
ローガンは、そんな声をものともせず、にやにやしている。
「怖かったら、やめてもいいぞ?」
「やります」
アレンは、きっぱりと言った。声は震えていない。
エルフの里で、何回も転びながら走った。
子どもの家で止まる練習いっぱいした。
自分にそう言い聞かせる。
足首。膝。腰。肩。《瞬間ブースト》の「点」を、順番に頭の中でなぞっていく。
胸の真ん中の小さな魔力核から、そこへ、一瞬だけ魔力を飛ばすイメージ。
合図とともにアレンは、前へ踏み出した。
◇
ロウガの目から見て、最初の数歩は「普通」だった。
細い脚で、一歩一歩、丁寧に地面を蹴っている。
そう思って見ていた、そのとき。
最初の斜面の壁に差しかかった瞬間——
アレンの足首が、ひゅっと光ったように見えた。
その一瞬だけ、踏み込みの速さが、明らかにおかしくなる。
「……ん?」
ロウガは、思わず声を漏らした。
アレンは、斜面の壁の根元で、
ふつうなら一歩分しか取れないはずの距離を、
「半歩+一歩分」くらいに伸ばしていた。
足が、土に引っかからない。
斜面に乗った瞬間、身体が、ぬるっと前へ滑る。
そのまま——
横の斜面を、駆け抜けていった。
壁の上へかかる前に、すでに向こう側の平地に降りている。
「……今の入り方、なんだ?」
ロウガは、眉をひそめた。
あそこは、「足場が悪いから、避けるか、慎重に行け」と教えられる場所だ。
あんな風に、「勢いだけで走り抜ける」やつを、見たことがない。
◇
丸太渡り。
ロウガが「安全最速」と判断したポイント。
アレンは——
最初の一本だけ、丁寧に踏んだ。
その次の瞬間、足首がまた、ちかっと光る。
二本飛ばしで、向こうの丸太に乗っていた。
「いやいや、それはさすがに——」
ロウガの口が動く。
普通、「二本飛ばし」なんてやれば、足を滑らせる。
狙いが少しでもずれれば、丸太の側面に靴が当たって、そのまま地面に落ちる。
だがアレンは、踏み切る瞬間だけ、足に短く強い魔力を入れ、着地の直前には、もう抜いている。
飛び方自体は雑なのに、着地の瞬間だけが、妙にきれいだった。
一本、二本、三本。リズムは一定ではない。
落ちそうなところだけ、身体強化をかけてやがる。
ロウガは、直感的にそれを理解した。
必要最小限。
ギリギリのところだけ、ちょん、と指でつつくような使い方。
あれで、本当にガス欠しねえなら——
ロウガの中で、「派手に飛ぶやつ=すぐバテる」という常識が、少しずつ崩れていく。
◇
雲梯。
「ここで大体、みんなバテるんだよなぁ……」
見た目は地味だが、腕だけで全体重を支えるのは、普段脚で立っている何倍もきついのだ。
ロウガは、アレンの動きを追った。
ぶらり、と身体が揺れる。
ここは、一本ずつでいい。そう思った矢先。
アレンは、最初の二本を普通に渡り、三本目から、いきなり二本飛ばしをした。
「おいおい」
ロウガの取り巻きが、小さく悲鳴を上げる。
落ちる、と思った。でも——
手を伸ばした先の棒を、ぎりぎりの指先でつかみ、その瞬間だけ、肩にひゅっと魔力が走る。
身体がぶら下がりきる前に、次の棒へ。
一本飛ばし。二本飛ばし。また一本。
めちゃくちゃだ。完全にリズムが狂っている。
それでも、落ちない。
「……さすがにおかしい」
ロウガは、ぽつりと呟いた。
「あのペースで来て、まだ雑に飛べるのか?」
自分なら、あそこまで行った時点で、「安全優先」に切り替える。
◇
最後の急斜面。壁と言っていい角度だ。
わずかに弧を描いているが、ほとんど直角に近い。
普通は、助走をつけて途中で跳び、
上の縁に手をかけて、腕で引き上げる。
ロウガも、さっきそうした。
アレンは——そこで、減速した。
「……おい」
思わず、声が漏れる。
助走が足りない。跳ぶ構えもない。それじゃ絶対に届かない。
そこへ——
ふう、と一息吐く音。
一瞬の静寂。次の瞬間。
一歩目。
後ろ脚の踏み込み。足裏が、土にめり込む。
深い……
思わずそう思う。
親指を軸に、ぐり、と地面を噛む。
どん、と鈍い音が響いた。
その踏んだ足が、すぐに視界から消えた。
消えた、というより——一歩が速すぎる。
影のように、何かが前へ滑る。
二歩目。
さっきよりも、はっきり速い。
助走なんかじゃない。完全に「登る速度」だ。
三歩目。
早すぎる。
四歩目は——
目で追い切れなかった。
次に視界に飛び込んできたとき——
アレンの身体は、ほとんど壁に貼り付く角度で走っていた。
「……は?」
嘘だろ。
腰が落ちない。体が下に沈まない。
壁を、走ってる……?
最後。
つま先が、斜面をぐっと噛んだ。
短く強い——身体が弾かれたみたいに、上へと抜けた。
何事もなかったかのように立つ。
ロウガは、口が開いたまま閉じられなかった。
(……人間が、身体強化だけでやっていい動きか、あれ)
跳びもせず、ただ走り抜ける。
……あんな登り方、見たことねえ。
上まで駆け上がったアレンが、鐘を鳴らす。
澄んだ音が、訓練場に響き渡った。
「き、記録——!」
一拍置いてから、声が上がる。
「歴代コースタイム、大幅更新!」
訓練場が、一瞬だけ静まり返ったあと——
爆発するようなざわめきに包まれた。
「はぁ!?」
「ロウガより速いのかよ!」
「今の見たか!? 壁走り!」
「あいつ、絶対どっかの変な流派だろ!」
ロウガは、自分の胸のあたりを軽く叩いた。
……やられたな。悔しさと、一種の爽快感。
自分の「正解」だけでは測れない相手がいる。
そういう事実は、むしろ心地良かった。
◇
同じ走りを、もう一人の男が見ていた。
オルフェンは、目だけで魔力の流れを追う。
ロウガの身体強化は、分かりやすい。
体表に淡い膜が広がり、主線から枝線へ、教本どおりに魔力が流れている。
だが、あの斜面。
アレンの身体には、光がほとんど見えなかった。
体表も、足元も、静かなまま。
強化していないのか? そう思った瞬間——
胸の真ん中あたりが、ふっと光る。
魔力核。
そこから、細い光が一本だけ、足首へと、ひゅっと跳んだ。
踏み込んだ瞬間だけ、その点が眩しく光り、次の瞬間には、もう消えている。
線を流していない……?
二歩目では、膝へ。
三歩目では、足の甲へ。
点。点。点。
短く、鋭く、射出される。
主線を通らない。枝線もほとんど使わない。
核から、直接。
まるで、斜面に見えない足場を打ち込んでいるようだった。
落ちてもおかしくない角度。
足がずれてもおかしくない距離。
その寸前で「一点」が灯り、ぎりぎりで成立させていく。
「……美しい」
気づけば、その言葉が、喉元までせり上がっていた。
「いや、認めるわけにはいかん」
オルフェンは、唇を噛んだ。
線の外側で魔力を扱うなど、傍流もいいところだ。
本来なら、「あってはならない」ものだ。
それでも——あの点を、放り出すのは、もっとありえん。
オルフェンは、静かに息を吐いた。
◇
ローガンが声を荒げて言う。
「こいつは特待生だな。騎士科で走らせ甲斐がある」
「いいや」
オルフェンは、即座に返した。
「この子は魔法科志望だ」
ローガンが、にやっと笑う。
「さっき、未完成魔法って言ってなかったか?」
「……まだまだだ」
オルフェンは、そっぽを向きながら言う。
「描き方も、魔力の扱いも甘い。基礎から叩き込む必要がある」
「叩き込む、ねえ」
ローガンは、からかうように笑った。
「じゃあ、騎士科の実技にも貸してくれよ、先生」
「貸すぐらいなら、構わん」
オルフェンは、渋い顔のまま、わずかに頷いた。
「だが、本職は魔法科だ」
横で聞いていた事務教員が、そっと記録に書き加える。
「アレン・ハルトシュタイン」
「筆記:補欠ライン」
「実技:初級ライト/身体能力・参考記録——歴代タイム更新」
ざわめきは、まだしばらく続いていた。
◇
訓練場の端。
アレンは、土の上に座り込んで、足首をさすっていた。
いつもの《瞬間ブースト》のあとより、少しだけ疲れている。
緊張しすぎて、ちょっと無駄に打ちすぎたかも。
でも——どこも、焼けるようには痛くない。
世界樹と繋いでからずっと、
「壊れていないか」「線が切れていないか」を確かめながら生きてきた。
今日も、まだ、大丈夫だ。
「おい」
影が、土の上に落ちた。
顔を上げると、ロウガが立っていた。
「……はい」
思わず、背筋が伸びる。
「さっきの走り。ムカつくくらい、よかった」
ロウガは、腕を組んだまま言った。
「え?」
「旗戦のときは、本気で潰しに行くからな」
ぽつりと告げて、背を向ける。
「あの変な一歩、もっと磨いておけよ」
アレンは、一拍遅れて笑った。
土の感触を、もう一度足裏で確かめる。
足首の中の、小さな魔法点が、まだ、静かに温かかった。
◇
訓練場から少し離れた石畳の上で、一人の影が足を止めていた。
壁の向こうから届く歓声。
「歴代コースタイム、大幅更新!」
「はぁ!? ロウガ先輩より速いのかよ!」
「あいつ絶対おかしいって」
細く握られた拳。
息を吸い込みかけて——やめる。
「……また、突っ走ってるのか。あいつは」
小さくそう呟いてから、影は踵を返した。




