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初級魔法しか取り柄がない!!  作者: なるっち
3章 王編 ― 英雄の形
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第72話 帳簿の端【受付嬢アニエス視点】閑話

「おう、アニエス」


開館準備がひと段落したころ、

ギルド長シェルドが、あくび混じりに現れた。


「おはようございます、ギルド長」


「また変な噂が増えたぞ」


インク壺の蓋を閉めながら、顔だけ向ける。


「英雄焼き肉、グランツが焼くと二割増しでうまいらしい」


シェルドが鼻で笑う。


「下町のあの店、

 毎晩ほぼ満席だとよ」


胸の奥が、少しだけ軽くなる。


ギルド長は、ちらりと横目で私を見る。


「……まだ気にしてるのか」


「まだってほど、まともに話したこともないですよ」


そう言いながらも、ペン先が一瞬だけ止まったのは、自分でも分かった。





最初に、あの名前を見たのは通達だった。


王城印。その端に、宰相ヴァルドの紋章。


> 「アレン・ハルトシュタイン」

> 「当人への過度の英雄視、噂の拡散を避けること」

> 「ギルド窓口において、特別扱いとならぬよう注意せよ」


それを読んだあと、シェルドは紙を机に置いて、私を見た。


「アニエス。お前、弟妹がいるんだったな」


「……はい」


「なら分かるだろ。

 宰相さまに睨まれたら、ここだけじゃ済まん」


「この名前の少年が来ても、

 余計なことは言うな」


「了解しました」


それしか言えなかった。


家には、妹が二人と、咳の止まらない弟が一人。

首になったら、一緒に沈む。





数日後。


王都のギルドは、大きかった——と、あとで少年は言った。


石造りの建物。

ざわめきと鉄と酒の匂い。

壁一面の依頼板と、長いカウンター。


その列の中に、私もいつも通り、ただ座っていた。


「次の方、どうぞー」


顔を上げる。


列から出てきたのは、思っていたより小さな少年だった。


繕ってあるけれど、丁寧に着た服。

胸元の記念章だけが、少しだけ場違いに光っている。


「ええと……」


少年の喉が、少しだけ鳴る。


「ハルトシュタイン領に手紙を出したくて。

 ここから送ってもらえるって」


「はい、手紙ですね。お名前を――」


「アレン・ハルトシュタインです」


近くの椅子で待っていた冒険者が、ちらりとこちらを見る。


手元の控えと照らし合わせた瞬間、

喉の奥が、かすかにひゅっと鳴った。


「少々お待ちください」


教本どおりの口ぶりだけを残して、奥へ下がる。


職員同士のひそひそ声。

視線が、何本もこちらに飛んでくる。


シェルドと目が合った。

彼は何も言わない。ただ、わずかに顎を引く。


——通達どおりにしろ。


そう聞こえた気がした。


スタンピードの分配金。

二年分、ギルドで預かっていた袋を受け取り、

仕事用の笑顔をつけて、窓口に戻る。


「お待たせしました、アレンさん。

 手紙の前に、お渡しするものがあります」


袋を差し出しながら、視線だけで反応をうかがう。


「スタンピードの分配金です。

 二年分、こちらでお預かりしていました」


「えっ……」


驚いたように目を見開いてから、

少年は、慌てて首を振った。


「な、中身はここで——」


「あ、だ、大丈夫です」


不安そうで、それでも礼儀正しい目。


「では、こちらに受領のサインを」


教本どおりの声だけを出す。


背後から、「英雄様」だと笑う声。

それに向かって「お静かにお願いします」と言うのが、

あのときの私にできた限界だった。


扉の方へ歩いていく背中が、小さく見えた。





少しして——王が公務に戻った、という噂が流れ始めたころからだ。


宰相からの通達は、まだ来る。

けれど、その調子は、ほんの少しだけ柔らいだ。


シェルドも、酒場でわざわざ「英雄はいなかった」と繰り返す必要まではなくなった。


カウンターの奥で帳簿をめくっていると、

別の行に、見覚えのある名前が増えていった。


ホーンラビットの持ち込み。

オーク小隊の精算。

提出者:グランツ。

備考欄に、補助:アレン。


休憩室では、冒険者が笑っている。


「おい、ぶひぶひ肉食ったか?」


「英雄様自ら焼いてくれるんだよ。

 腹ふくらませてくれる英雄様なら、大歓迎だ」


好き勝手言いながら、

もう誰も「呪いの子」なんて言わなくなっていた。


ちゃんと食べてる。ちゃんと食べさせてる。


それが分かるたびに、

最初の冷たさが、余計に胸に刺さる。


あのときの一言くらい、

変えられたんじゃないかって。


そんなときに、王立学園からの封筒が届いた。


「アニエス」


シェルドが、封筒をほかの書類と一緒に揃えながら言った。


「例の少年のだ。

 《子どもの家》の店宛で回せ。窓口からは出すな」


「……分かりました」


王立学園の紋章が押された白い封筒。

それを受け取りながら、胸の奥が、少しだけざわついた。





ギルドに戻り、帳簿を開く。


「アニエス、手が止まってるぞ」


はっとして、ペンを握り直す。


帳簿の端。

受付嬢の、誰に見せるでもないメモ。


アレン・ハルトシュタイン

 子どもの家/焼き番/狩り補助


その下は空白のまま、ページをめくった。


「すぐやります」


炭火の匂いをまとった小さな英雄様に

今度会ったときに聞こう。

ささやかに楽しみにしている。

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