第72話 帳簿の端【受付嬢アニエス視点】閑話
「おう、アニエス」
開館準備がひと段落したころ、
ギルド長シェルドが、あくび混じりに現れた。
「おはようございます、ギルド長」
「また変な噂が増えたぞ」
インク壺の蓋を閉めながら、顔だけ向ける。
「英雄焼き肉、グランツが焼くと二割増しでうまいらしい」
シェルドが鼻で笑う。
「下町のあの店、
毎晩ほぼ満席だとよ」
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
ギルド長は、ちらりと横目で私を見る。
「……まだ気にしてるのか」
「まだってほど、まともに話したこともないですよ」
そう言いながらも、ペン先が一瞬だけ止まったのは、自分でも分かった。
◇
最初に、あの名前を見たのは通達だった。
王城印。その端に、宰相ヴァルドの紋章。
> 「アレン・ハルトシュタイン」
> 「当人への過度の英雄視、噂の拡散を避けること」
> 「ギルド窓口において、特別扱いとならぬよう注意せよ」
それを読んだあと、シェルドは紙を机に置いて、私を見た。
「アニエス。お前、弟妹がいるんだったな」
「……はい」
「なら分かるだろ。
宰相さまに睨まれたら、ここだけじゃ済まん」
「この名前の少年が来ても、
余計なことは言うな」
「了解しました」
それしか言えなかった。
家には、妹が二人と、咳の止まらない弟が一人。
首になったら、一緒に沈む。
◇
数日後。
王都のギルドは、大きかった——と、あとで少年は言った。
石造りの建物。
ざわめきと鉄と酒の匂い。
壁一面の依頼板と、長いカウンター。
その列の中に、私もいつも通り、ただ座っていた。
「次の方、どうぞー」
顔を上げる。
列から出てきたのは、思っていたより小さな少年だった。
繕ってあるけれど、丁寧に着た服。
胸元の記念章だけが、少しだけ場違いに光っている。
「ええと……」
少年の喉が、少しだけ鳴る。
「ハルトシュタイン領に手紙を出したくて。
ここから送ってもらえるって」
「はい、手紙ですね。お名前を――」
「アレン・ハルトシュタインです」
近くの椅子で待っていた冒険者が、ちらりとこちらを見る。
手元の控えと照らし合わせた瞬間、
喉の奥が、かすかにひゅっと鳴った。
「少々お待ちください」
教本どおりの口ぶりだけを残して、奥へ下がる。
職員同士のひそひそ声。
視線が、何本もこちらに飛んでくる。
シェルドと目が合った。
彼は何も言わない。ただ、わずかに顎を引く。
——通達どおりにしろ。
そう聞こえた気がした。
スタンピードの分配金。
二年分、ギルドで預かっていた袋を受け取り、
仕事用の笑顔をつけて、窓口に戻る。
「お待たせしました、アレンさん。
手紙の前に、お渡しするものがあります」
袋を差し出しながら、視線だけで反応をうかがう。
「スタンピードの分配金です。
二年分、こちらでお預かりしていました」
「えっ……」
驚いたように目を見開いてから、
少年は、慌てて首を振った。
「な、中身はここで——」
「あ、だ、大丈夫です」
不安そうで、それでも礼儀正しい目。
「では、こちらに受領のサインを」
教本どおりの声だけを出す。
背後から、「英雄様」だと笑う声。
それに向かって「お静かにお願いします」と言うのが、
あのときの私にできた限界だった。
扉の方へ歩いていく背中が、小さく見えた。
◇
少しして——王が公務に戻った、という噂が流れ始めたころからだ。
宰相からの通達は、まだ来る。
けれど、その調子は、ほんの少しだけ柔らいだ。
シェルドも、酒場でわざわざ「英雄はいなかった」と繰り返す必要まではなくなった。
カウンターの奥で帳簿をめくっていると、
別の行に、見覚えのある名前が増えていった。
ホーンラビットの持ち込み。
オーク小隊の精算。
提出者:グランツ。
備考欄に、補助:アレン。
休憩室では、冒険者が笑っている。
「おい、ぶひぶひ肉食ったか?」
「英雄様自ら焼いてくれるんだよ。
腹ふくらませてくれる英雄様なら、大歓迎だ」
好き勝手言いながら、
もう誰も「呪いの子」なんて言わなくなっていた。
ちゃんと食べてる。ちゃんと食べさせてる。
それが分かるたびに、
最初の冷たさが、余計に胸に刺さる。
あのときの一言くらい、
変えられたんじゃないかって。
そんなときに、王立学園からの封筒が届いた。
「アニエス」
シェルドが、封筒をほかの書類と一緒に揃えながら言った。
「例の少年のだ。
《子どもの家》の店宛で回せ。窓口からは出すな」
「……分かりました」
王立学園の紋章が押された白い封筒。
それを受け取りながら、胸の奥が、少しだけざわついた。
◇
ギルドに戻り、帳簿を開く。
「アニエス、手が止まってるぞ」
はっとして、ペンを握り直す。
帳簿の端。
受付嬢の、誰に見せるでもないメモ。
アレン・ハルトシュタイン
子どもの家/焼き番/狩り補助
その下は空白のまま、ページをめくった。
「すぐやります」
炭火の匂いをまとった小さな英雄様に
今度会ったときに聞こう。
ささやかに楽しみにしている。




