第61話 綺麗事
あのあと——
追いついてきた客に、
俺は頭を下げて、銅貨二枚を返した。
「一枚は、甘い水代ってことで……」
男はしばらく俺とテオと瓶を見比べて、
「……まあ、一枚ならいい」
と引き下がってくれた。
残った一枚は、テオの小さな手の中にある。
「二枚……二枚、飛んでった……」
テオは、額を石畳にくっつけそうな勢いでうなだれていた。
「グレン兄ちゃん、あの二枚でパン買うつもりだったかも……」
「……だったかもしれないね。
グレンって人のところに、これから行くんだよね?」
「……うん」
「じゃあ、一緒に謝りに行こう」
テオが、はっと顔を上げた。
「でも、兄ちゃん、別に悪いことしてないよ?」
「俺は、口出したから」
だったら、その後始末にも付き合うべきだ。
「一緒に怒られに行こう」
「……変な人」
テオは、目をぱちぱちさせたあとで、小さく笑った。
「うん。じゃあ……来て」
尻尾が、少しだけ持ち直す。
「隠れ家、教えてあげる」
◇
スラムの奥は、王都とは思えないほど静かだった。
ひび割れた壁。
半分崩れた階段。
閉じられたままの扉。
テオは、その間をするすると進んでいく。
「ここ」
立ち止まったのは、二階建ての古い建物の裏手だった。
表の入り口は板で打ち付けられ、
裏側に、かろうじて人一人通れるくらいの隙間がある。
「この中?」
「うん。……先に行くね」
テオは、ひょい、と隙間に体をねじ込んだ。
少し待ってから、中から小さな声。
「お兄ちゃん、こっち」
肩をすぼめて、同じように隙間を抜ける。
薄暗い部屋。
壁の隅に、木箱と古い布。
割れた椅子が二つ。
そのうちの一つに、見覚えのある少年が腰掛けていた。
さっき路地で台の上に立っていた少年——グレンだ。
「……で、うまくまいてきたか、テオ」
こちらを見ずに言う。
「たぶん……。たぶん、もう追ってこない」
「たぶんの二回は、あんまり信用ならねえな」
そう言ってから、グレンはようやく顔を上げた。
その目が、俺のところで止まる。
「……まだいたのか、坊や」
「さっきは、余計なことを言ってしまって、すみません」
俺は、素直に頭を下げた。
テオも、あわてて隣でぺこぺこと頭を下げる。
「ご、ごめんグレン兄ちゃん!
銅貨、二枚返しちゃった……」
「……は?」
グレンの眉が、ぴくりと跳ねた。
テオは、握りしめていた銅貨一枚を、
おそるおそる渡す。
「これだけ……」
部屋の空気が、一瞬で冷えた気がした。
グレンは、しばらく何も言わずに、
その銅貨と俺たちの顔を順番に見た。
「……まあ」
深く息を吐いたあと、ぼそりと言った。
「逃げ切れただけマシとするか。
二枚ぶんで済んだなら、
今日は、ちょっと負けたくらいだ」
「怒らないの?」
テオが、おそるおそる聞く。
「怒っても腹は膨れねえ」
グレンは、肩をすくめた。
「それより——」
じっと、俺を見る。
「綺麗事の坊や、お前だよ」
その呼び方に、背中がぴくりとする。
「……すみません」
もう一度、頭を下げる。
「二枚返したってことは、
今日のガキの飯が一日ぶん減ってる。
それが分かった上で、やったんだよな?」
「……はい」
短く答えるしかなかった。
グレンは、乾いた笑いを一つ漏らした。
「……あまちゃんだな」
木箱の上の瓶をひとつ、からん、と転がす。
「俺はスリも盗みもしねえ。
夢を売ってるだけだ」
テオが、少しだけ安心したようにうなずく。
じっと、値踏みする目が向けられる。
「それを違うって言うなら――」
からん、と空になった瓶を指ではじく。
「誰も騙さずに、ガキどもの腹を膨らませる方法を——」
言葉に、わずかな皮肉を混ぜる。
「お前、持ってんのか?」
喉の奥で、言葉が止まった。
持っているかと聞かれたら、
「……今は、ありません」
正直に言うしかなかった。
グレンが、鼻で笑った。
「孤児院のな。
上のベッドで、いい子してりゃ、
飯は減らされずに済むと思ってた」
グレンは、肩をすくめた。
「でも、なにも変わらなかった。なにも、だ。
だから、俺は外に出た」
「スラムの現実を知らない俺が、
こうすべきっていうのも、傲慢だと思います」
「でも、やり方は変えられるはずです」
どんな形になのか、まだ分からない。
それでも。
「その方法を、探したいです」
グレンは、しばらく黙って俺を見ていた。
やがて、ふい、と視線を外す。
「……本当に、あまちゃんだな」
呆れたように言う。
「それで回るなら、世の中苦労しねえ」
「でもよ。
見てて退屈はしなさそうだ」
グレンが少しだけ笑う。
それは、楽しんでいる色が混じっていた。
「いいぜ、坊や」
俺を指さす。
「そこまで言うなら——
そのやり方ってやつ、見せてみろ」
胸が、どくりと鳴った。
「そのうち……何か持ってきます」
「期待はしてねえ」
グレンは、肩をすくめた。
それは今までで、ずっと軽く聞こえた。
◇
外に出ると、空はもう傾きかけていた。
テオが、隣でぼそっと言う。
「グレン兄ちゃん、あんまり怒らなかった。
お兄ちゃんが一緒にいたから、かな」
テオは、尻尾をくい、と揺らした。
「ありがと」
「どういたしまして」
本当のところは分からない。
でも、テオの尻尾が、
さっきより少しだけ高く上がっているのを見て。
甘い正義——
俺は、それを真剣に考え始めていた。




