第57話 王国宰相ヴァルド
「エルフ使節団、および例の少年の件。
まとめが上がりました、宰相閣下」
秘書官の声が、静かな執務室に落ちた。
壁一面の地図。
二年前のスタンピードの進路を示す赤い印は、
今ではもう、ただの記号の集合でしかない。
その中央に置かれた机の前で、
ヴァルド・レグナルトは書類から視線だけを上げた。
「聞こう」
短い一言に、秘書官の肩がわずかに強張る。
◇
「まず、森側の処理についてです。
二年前から継続していたボス遺体の瘴気削りと――」
「それはよい」
ヴァルドは即座に切った。
「森の中の後始末は、森の責任だ。
王国が金を出す理由にはならん」
一枚目の書類から興味を失ったように、視線が外れる。
秘書官はつばを飲み込み、素早く次の紙をめくる。
「では、少年について。
アレン・ハルトシュタイン。
二年前、砦より英雄少年として報告が上がった件です」
「……二年前、か」
ヴァルドは小さく頷いた。
ペン先を、こつと無意識に鳴らす。
砦陥落を免れたという報告。
その末尾に添えられた、
《多属性初級魔法によりボスに決定打を与えた少年》
その一文を読んだ瞬間、
彼はすでに全体の扱いを決めていた。
――復興は数字の範囲で。
――英雄は、必要以上に作らない。
英雄は民を鼓舞する。
同時に、王と政府の無策を照らし出す灯でもある。
「エルフの報告では、
少年の太い魔力線はほぼ焼損。
外向き魔法の使用は、今も実質不可能とのことです」
秘書官は、淡々と読み上げながらも、
ちらりとヴァルドの表情をうかがう。
「軍事的価値は?」
「ありません。
魔法兵として育成する意味はないかと」
「そうだろう」
ヴァルドは指先で机を軽く叩いた。
規則正しく二度、乾いた音が鳴る。
「英雄としても、兵器としても、半端だ」
秘書官は何も言わない。
「……で、森側はどう評価している?」
「世界樹の恩人。
ただし、『森の外で生きるべき存在』として、
人の社会に返す方針とのことです」
「冷静だな」
ヴァルドは小さく息を吐いた。
溜め息というほど大きくはない、それでも確かな呼気。
「英雄を抱え込めば、森も面倒を見る羽目になる。
それを理解している」
◇
ヴァルドは、手元の書類を一枚めくってから言った。
視線だけが紙と秘書官の間を行き来する。
「王都では、どう扱っている?」
「ご指示どおりです。
軍・ギルドともに、
『英雄視を抑制せよ』
『スタンピード関係者の一人として扱え』
という方針で統一しております」
指示をなぞるような言葉。
それが、絶対的でもある。
「王城のほうは、どう処理した?」
「下位官吏による簡素な授与のみ。
報奨金と記念章一つ。
陛下は病を理由に欠席。
宰相閣下のご出席も他案件として見送りました」
秘書官は、報告というよりも、
決定事項の再確認をしているような口調だった。
ヴァルドは一拍置いてから尋ねた。
「少年の反応は?」
「礼を述べ、静かに退出したと」
「ならばよい」
期待を与えず、失望も与えない。
それが最も安全な扱いだ。
ヴァルドは、自分に言い聞かせるように、心の中で反芻した。
◇
「街では、どう見られている?」
「英雄の言葉は残っていますが、
王都では、
『話が盛られている』
『辺境の騒ぎだ』
という認識が優勢です」
秘書官は、淡々とまとめる。
「ちょうどいい」
ヴァルドは、窓の外に一瞬だけ視線を投げた。
王都の屋根が幾重にも重なり、
その向こうに城壁の影が伸びている。
「今の王都は、余計な火を抱える余裕はない」
独り言のように、静かに続ける。
「スタンピードから逃げてきた者たち。
孤児。行き場のない者たち。
英雄は、希望にも不満の受け皿にもなる」
ヴァルドの声は、やはり淡々としている。
感情を削った結果なのか、最初からそうなのか、
それを知る者は少ない。
「少年は?」
「城下の安宿に滞在中です」
「下級貴族の子どもだ。
いずれ、学園か、実家か。
どこかに収まるだろう」
ヴァルドは、机の上の紙を整える。
角を揃え、重ね、視界から押しやるように。
「その間、我々がすることは――」
そして静かに告げる。
「英雄視を、静かに冷ます。
……それだけだ」
その頃、アレンは――
宿屋の薄くなったスープの味に、
少しだけ首をかしげているだけだった。




