第55話 安宿の英雄
空は、ちゃんと青かった。
その青を、真っ二つに切り裂くみたいに、
城壁がそびえている。
見上げても、てっぺんはすぐには見えない。
森の巨木より高い、白い石の塊。
中央には、分厚い門。
翼を広げた獣に王冠と剣の紋章が見えた。
「行け。アレン・ハルトシュタイン」
最後に戦士長は、力強く、そして静かにそう告げた。
ここから先は、俺一人だ。
リュシュアも、エリュナも、ラグナもいない。
世界樹の枝も、もう見えない。
エルフたちは、ボスの遺体を載せた車とともに、
すでに門の横手にある、別の入口へと動き出していた。
俺は一礼して、それを見送った。
◇
俺は、正面の列に並んぶ。
荷車を押す商人たち。
包帯だらけの兵士。
荷物を抱えたまま泣いている子ども。
少しずつ、列が進む。
焼き固めた石が、靴底の下で冷たく感じてきた、そのときだ。
「そこの子ども、止まれ」
門の上から、鋭い声が落ちてきた。
びくりと、肩が跳ねる。
「名前と出身を言え」
槍を持った兵士が、こちらを見下ろしている。
「……アレン・ハルトシュタインです。
ハルトシュタイン領です」
空気が、わずかに揺れた。
ひそひそと、周囲に走る声。
兵士は短く仲間と言葉を交わし、
やがて言った。
「確認を取る。ついてこい」
門の内側は、別の街だった。
人混みに溢れている。
石畳も綺麗に整っていた。
「お前のことは、もう上に話が通ってる。
王城から呼び出しが来るまで、街で待機だ」
「……はい」
「勝手に騒ぎ起こすなよ」
兵士の後ろをしばらく歩く。
「ここだ」
指さした先の木の看板を見る。
《つばめ亭》
二階建ての、小さな宿だった。
壁の漆喰はところどころ剥がれているが、
窓にはちゃんと布がかかっている。
兵士が、遠慮のない拳で扉を叩いた。
「宿の者はいるか!」
「はいっ、今ぁ!」
どたばたと足音がして、扉が開く。
出てきたのは、小太りで神経質そうな中年男だった。
「いらっしゃい……って、兵士さま?」
「王城からの預かりだ
この子どもをしばらく泊めておけ」
そう言って、一枚の紙と金袋を乱雑に押し付けた。
男は慌てて受け取る。
「お、王家の印……
まさか、このお方は……」
顔色が変わった。
「スタンピード関連の客だ。
後は任せた」
兵士はそれだけ言うと、くるりと背を向ける。
足音が遠ざかっていった。
取り残されたのは、俺と、中年男だけだ。
「ええと、そ、その……」
男があたふたと口を開く。
「よ、ようこそ……《つばめ亭》へ。
わ、わたくし、この宿を預かっておりますベルンと申します。
本日は……その……」
妙に背筋を伸ばして、頭を下げた。
「アレンです。お世話になります」
「アレンさま……でいいんですよね?」
「いや、アレンで――」
「お父さーん、なに騒いでんのよ」
奥から、女の声が飛んだ。
◇
厨房のほうから、痩せた女が現れる。
腰に手を当てて、こちらをじろりと一瞥。
「客? こんな時間に?」
「お、おい、マルタ。お城からだ、お城!」
ベルンが、紙を差し出す。
マルタと呼ばれた女は、
それをひったくるように取る。
王家の印を見たところで、
「……へえ」
口元が、にやりと動いた。
「な!? すごいだろ!」
ベルンが小声で盛り上がる。
その横から、小さな頭が一つ。
五歳くらいの男の子が顔を出した。
「お客さん?」
マルタは、子どもの手で制して、
俺に向き直った。
「……スタンピードの英雄様で?」
「いや、その……」
言葉に詰まる。
「エルフと一緒に来たって話、朝から噂になってたわよ。
門番のとこで足止め食ってた商人が、酒場でしゃべってたもの」
マルタが、値踏みするかのようにジロジロ見る。
「ま、お城の紙持ってるなら、うちでは上客だね」
ぱん、と手を叩く。
「ベルン、一番いい部屋!」
「えっ」
「空いてるでしょ、角のとこ。
ほら、お城の印付きなんだから」
「い、いや、その、あそこはほら、窓の立て付けが――」
「あとで直すの。あんたが」
ばっさり。
「今夜は、肉つけるわよ。塩もちゃんと振ってね。
あ、子どもたちの分は少しだけ減らして」
「えええ」
「なによ、文句ある?」
「な、ない……」
完全にマルタに頭が上がらないらしい。
◇
「英雄様って、ほんとにいたんだ……」
男の子が、興奮気味に呟いた。
「ねえねえ、スタンピードって、どんくらいでっかかった?」
「こら、そんな聞き方しないの」
マルタが、さっと子どもの頭を押さえる。
「高貴なお方なのよ。
『あのう、でございますか』とか、そういう言い方しなさい」
「あのう、でごじゃりますか?」
「どこの言葉よ、それ」
笑っていいのかわからない。
俺は、どこか居心地の悪さを覚えながらも、頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
「はいはい。じゃ、アレンさま」
マルタは、『さま』に力を入れてみせる。
「お荷物は? ……それだけ、ですか?」
肩の小さな袋を見て、片眉を上げた。
「はい。大したものは」
「ふうん。じゃ、部屋片付けますから。
ベルン〜!ほら、茶でも出して」
「お、おう!」
主人は慌てて動き出し、
子どもは、俺の周りを一周してから、
面白がって厨房に走っていった。
◇
角部屋は、小さいけれど、ちゃんと陽が入った。
窓ガラスは少しひびが入っていたが、
マルタが「どうせ割れないから大丈夫」と一言で片付ける。
ベッドに小さな机。
水差しと、洗面用のボウル。
「気に入らなくても、文句は受け付けませんからね。
うちの、いちばんいい部屋なんですから」
マルタが、先に釘を刺す。
「……ありがとうございます」
ベルンはというと、
後ろでおろおろしながら、何度も頭を下げていた。
夕方。
一階に降りると、
テーブルの一つに、皿が並べられていた。
パンと、野菜スープ。
そして、小さめだけれど、ちゃんと焼いた肉が一枚。
「さ、お座りください、英雄さま」
マルタが手で示す。
「今夜だけ特別です」
「お、おい、マルタ……」
「なに? 嘘は言ってないでしょ」
マルタは肩をすくめる。
「うちだって余裕ないんだから。
出せるときに出して、あとは普通。そういうもんよ」
「……それで、十分です」
俺は苦笑いをして、席についた。
一口、肉をかじる。
硬い。
けど、ちゃんと塩気があって、煙の香りがする。
「おいしいです」
そう言うと、マルタは「ふん」と鼻を鳴らし、厨房に引っ込んだ。
ベルンは、安心したように笑う。
「そ、そりゃよかった……です」
カウンターの向こうで、少年がひょこっと顔を出す。
「ほんとに、スタンピードの英雄なの、ですか?」
少しだけ、考えてから。
「そう言ってる人がいるだけだよ」
と答える。
「ふうん」
マルタが厨房の奥から、声だけ飛ばしてくる。
「いいのよ、英雄様で。
『スタンピードの英雄が泊まった宿』って言えたら、
ちょっとは客も増えるんだから」
「おいおい」
「本音よ」
軽い笑い声。
安宿の油とスープの匂い。
外から聞こえる、馬車の車輪の音。
その真ん中で、
「英雄様」と呼ばれる自分だけが、
少しだけ浮いているような気がした。




