第5話 たらいと薪と冷たい水
言葉は、だいぶ出るようになってきた。
全部はっきり、というわけではないが、
「おかあさま」「おとうさま」「ミーナ」くらいなら、ちゃんと言える。
それでも、背は低い。
目線も、まだ床に近い。
だからこそ、見えてくるものがある。
◇
朝。
廊下の向こうから、
バシャバシャという水音が聞こえてきた。
「よいしょ、っと……
あ、アレン坊ちゃま、おはようございます〜」
大きなたらいを両手で抱えたミーナが、
少し息を切らしながら笑う。
「ミーナ。おはよ」
舌が少しもつれたが、ちゃんと伝わった。
「今日はお洗濯が多くて。
水魔法使いのおじさんも、今日は街に行っちゃってて……」
ミーナは、じゃぽん、とたらいを揺らした。
中には、井戸から汲んできたばかりの水。
屋敷付きの水魔法使いが一人いる、とセバスから聞いたことがある。
だが、飲み水と最低限の生活分が限界らしい。
洗濯や風呂まで回す余裕はない。
俺は、窓の外を見る。
中庭の向こうに、小さな屋根付きの井戸。
使用人たちが交代でロープを引き、
ぎっこんばったん、水を汲み上げている。
一回で、せいぜい十リットルほど。
それを、洗濯、炊事、掃除に振り分ける。
前の世界では、蛇口をひねればお湯が出た。
そのありがたさを、意識したことはなかった。
◇
昼前。
裏庭のほうへ回る。
「アレン、あまり近づきすぎるな」
後ろから、お父さんの声。
「はーい」
発音はまだ怪しいが、
お父さんはそれで満足そうにうなずいた。
庭の隅では、若い使用人たちが薪を割っている。
斧を振り上げ、振り下ろす。
乾いた音が、一定のリズムで響く。
割られた薪は積まれ、
それを別の者が運んでいく。
行き先は、暖炉、かまど、大きな湯沸かし釜。
「お湯、まだですかー!」
厨房から声が飛ぶ。
「今、薪足してるところだ!」
「朝の水魔法分なんて、とっくになくなりましたよー!」
文句を言いながらも、誰も手を止めない。
鍋の中で、水がぐらぐらと音を立てている。
スイッチ一つで湯が出る世界。
あれは、奇跡に近い文明だった。
◇
厨房の隅。
メイドたちが、たらいの前に並んでいる。
冷たい水に手を入れ、
皿を洗い、すすぎ、拭く。
冬が近いせいか、水はかなり冷たい。
手は赤くなっている。
「ミーナ、て。まっか」
思わず言葉が出た。
「あら、見てました?」
ミーナが、少し照れたように笑う。
「さっきまで、ちょっと《ウオーム》使えるお姉さんが、
お湯を足してくれてたんですけどね。
すぐ疲れちゃって」
そう言って、また水に手を入れる。
指先が、わずかに震えている。
この量を相手にするには、
少し使える程度の魔法では、焼け石に水だ。
◇
夕方。
暖炉の前で、お母さんが本を読んでいる。
俺は、その足元で丸くなっていた。
火の熱が、じんわり伝わる。
「アレン、眠い?」
「ねむく、ない」
言いながら、目は半分閉じている。
お母さんが笑って、頭をなでた。
「昨日のお風呂、少しぬるくなかった?」
「ぬるい……?」
「水魔法のおじさん、昨日は畑も手伝っててね。
お風呂に回せる分が少なかったの」
「すみません奥様……
薪も残り少なくて、火を弱めちゃって……」
ミーナが、しゅんと肩を落とす。
「いいのよ。風邪もひかなかったし。
でも、たまにはたっぷりのお湯に入りたいわね」
「たっぷり、おゆ」
口に出すと、少し楽しくなる。
この世界には、給湯器も蛇口もない。
でも、《ライト》と《ウオーム》はある。
水さえあれば、
最初から少しだけ温かい水くらいなら、
なんとかできないだろうか。
まだ《ウオーター》は習っていない。
だが、いずれ必ず覚える。
それまでに、考えることはできる。
◇
その夜。
ベッドの中で、いつもの魔力体操。
呼吸を整え、
体の中心から、手足へと意識を伸ばす。
今日は、少しだけイメージを変える。
冷たい水。
赤くなったミーナの手。
その上に、《ウオーム》で温もりを重ねる。
冷たい。
温かい。
意識の向きを、少しだけ変える。
冷たい水に、最初から温もりが混じっていたら。
たらい一杯は無理でも、
手を洗う一杯だけなら。
それだけで、どれだけ楽になるだろう。
大きな改革はいらない。
少しだけ、楽になる。
少しだけ、笑顔が増える。
初級魔法だけでも、できることはある。
たらいと薪の世界。
そこに、ほんの少しだけ、給湯器っぽさを持ち込めないか。
そんなことを考えながら、
俺は眠りに落ちるまで、
冷たい水と温かい手洗いのイメージを、
何度も頭の中で繰り返していた。




