第49話 残っているもの
胸の奥が、まだほんのり熱い。
世界樹の幹に触れた感触も、
マナの海で聞いた声も、
指先のどこかにまだ残っている気がした。
「……ん」
まぶたを上げると、見慣れた根の天井。
湿った土と葉の匂い。
斑に差し込む柔らかい光。
「——アレン!」
視界の端から、金緑の髪が飛び込んできた。
「おおっと」
胸の上にのしかかりそうになって、
エリュナがぎりぎりで踏みとどまる。
「ちゃんと帰ってきた……」
目元が、真っ赤だ。
「ただいま、でいいのかな」
自分でも驚くくらい、自然にその言葉が出た。
ここが、そういう場所になっていたんだと
ようやく気づく。
エリュナは、くしゃっと笑った。
「うん、ただいまって言っていい」
◇
「起きたか」
根のカーテンの向こうから、低い声。
リュシュアが入ってきて、続いてラグナも顔を覗かせる。
「三日寝てた」
ラグナが指三本立てた。
「三日……?」
「世界樹の中、かなり歩き回ったみたい」
エリュナが、そっと俺の胸の上に手をかざす。
直接は触れていない。
でも、その手のひらから、かすかな揺れが伝わってくる。
「今はだいぶ落ち着いたけど、
最初は、線全部がびりびりってなってた」
「世界樹のマナが、お前の中を一度洗ったからな」
リュシュアの言葉は淡々としている。
「それで……」
自分の身体に意識を沈める。
重い。
けれど、前より少し、芯が通っている感覚があった。
「立とうとすれば、多分、立てます」
「無理するな。胸の線がまだ安定していない」
リュシュアがぴしゃりと言い切ったあと、
なぜか、俺の胸元をじっと見ていた。
「……線の反応が、前と違うな」
ラグナが口の端を上げた。
「それなら——
魔法、ちょっと確かめないとね」
「え?」
◇
世界樹の根元から少し離れた、小さな広場。
根が途切れて、土が顔を出している場所で、
俺はなんとか上半身を起こして座らされていた。
「じゃ、やってみよ」
ラグナが少し下がる。
エリュナは隣にしゃがんだまま、
じっと俺の胸のあたりを見つめている。
リュシュアは木にもたれ、腕を組んでいた。
「何からいきます?」
「一番簡単なやつ」
言われて、右手を前に出す。
息を吸って、
小さな灯りの魔法陣を思い浮かべる。
前は、それなりの光の玉が生まれた。
部屋一つくらいは照らせるくらいの——
「……っ」
指先に、じわ、と痺れる感覚。
《ライト》
胸の奥から、細い糸みたいなものが走ってきて——
ぽ、と、小さな光が灯った。
蛍みたいなやつが、一匹。
「……うん、しょぼい」
ラグナが即答した。
「ですよね」
光は、かろうじて手のひらの周囲を照らす程度。
強く息を吹きかければ、消えてしまいそうだ。
「でも、出ないわけじゃない」
リュシュアが、少しだけ顎を上げる。
「前は、焦げた線のあとしか感じられなかった。
今は——」
「点が、動いてる」
エリュナがぽつりと言った。
「点?」
俺は自分の中をもう一度なぞる。
胸の奥の核から伸びていたはずの線は、
やっぱり細くて頼りない。
けれど——
「……あちこち、なんか、ちくちくします」
指の付け根。
手首。
肘。
肩のあたり。
そこかしこで、小さな点がぴくぴくと震えていた。
「前は、真ん中から線で伸ばしてた感じだったんですけど……」
言葉を探しながら、蛍みたいな《ライト》を見つめる。
「今は、点が勝手に起きてる感じです」
全身に、細かくばら撒かれてるみたいな。
「ユグリアが、世界樹が、線の名残をたどって、
点に火をつけたって」
リュシュアが呟く。
「太い線は、やっぱりほとんど死んでいる。
だが、点そのものは完全には消えていなかった」
「それが、体中に散ってるってこと?」
ラグナが俺の肩をぽん、と叩いた。
「へぇ。めんどくさい体だね」
「すみません」
「半分は褒めてるわよ」
ラグナは笑う。
「だったら、体ん中で魔法をぶん回せばいい」
「身体強化……ってことですか?」
思わず、口に出していた。
「まだ言ってないのに、察しがいい」
ラグナが目を細める。
「魔法はしょぼい。
でも、足だけは速い変態にしてあげる」
◇
「世界樹は……どうなんですか?」
エリュナが少し目を閉じて、
深く息を吸い込んだ。
「まだ痛そうだけど、
前より、奥のぎゅうぎゅうが減ってる」
「葉の落ち方も、普通に戻りつつある」
リュシュアが補足する。
「死にかけから、寝不足くらいには戻ったってとこかしらね」
ラグナの雑な例え。
「……よかった」
ぽろっと、本音が出た。
世界樹の中で見た、
あの黒ずんだ流れと、詰まり。
全部は無理だけど、
壊れ続けていくのは止めたかった。
「ありがとうって、言ってたよ」
エリュナが、ふいに言った。
「世界樹」
「……ほんとですか」
「うん。ありがとう。でも、まだたくさん残ってるって」
ユグリア。
褒めてるのか、せかしてるのか分からない。
◇
その日の夕方。
世界樹の根元近くの広場に、
里の大勢が集められた。
長老たちが前に並び、
巫女長がその隣に立つ。
「世界樹の巡りは、最悪の状態を脱した」
長老の声が、広場に静かに落ちた。
「葉の落ち方、幹の色、
いずれも回復傾向にある」
ざわ、と周囲が揺れる。
「森のマナの流れも、
外縁の魔物も、わずかだが沈静化している」
長老の視線が、こちらへ向いた。
「人間の子よ」
空気が、ぴんと張りつめる。
「おまえが世界樹と一時の同調を行った直後から、
これらの変化が観測された」
「因果関係のすべては断定できぬ。
だが、無関係とも言えぬ」
淡々とした声だった。
「この事実は、記録に残す」
それだけ告げて、長老は一度視線を外した。
「回復は始まったにすぎぬ。
世界樹も、森も、依然として不安定だ」
「浮かれる時ではない」
長老はそこで言葉を切った。
掟にも、感謝にも、まだ触れなかった。
◇
解散になり、人の気配が薄くなる。
ラグナが、あからさまに顔をしかめる。
「やっぱり、森の奥……まだ腐ってる」
エリュナが小さく頷いた。
「ざわざわが、奥のほうだけ消えてない」
「終わってない——」
リュシュアは、しばらく森の奥を見つめたまま、低く言った。
「スタンピードの主。それは、結果にすぎん」
ラグナが、視線を向ける。
「どういうこと?」
「森の巡りが壊れ、瘴気が溜まりきった末に生まれた、病変だ」
「病気には、必ず原因がある」
エリュナが、はっと息をのんだ。
「……じゃあ、まだ“元”が残ってるかもしれないってこと?」
「その可能性が高い」
リュシュアは、ゆっくりとうなずいた。
「世界樹が持ちこたえた今だからこそ、
それを探らねばならん」
「俺も——」
思わず、口が動いた。
「俺も行けませんか」
「ダメ」
ラグナが即答した。
「今のアレンは、世界樹に繋がった生き延びた線よ」
エリュナも黙って、うなずく。
「森の奥は、まだ瘴気が濃い。
今の状態で踏み込めば、今度こそ戻れん」
リュシュアも、首を振ってつづける。
「探るのは、森と戦場に慣れた者の仕事だ」
事実——
俺が、足手まといだというだけの話。
それが、一番よく分かっているのは、俺自身だ。
「……分かりました」
喉の奥が、少しだけ熱くなる。
「じゃあ、戻って来たら、教えてください」
◇
翌朝。
まだ陽が高く昇りきる前の森に、
戦士たちが、静かに集まっていた。
リュシュアは深緑のマントをまとい、
弓と短剣を腰に下げている。
ラグナも同じ装備だが、
今回は里側の防衛と、アレンの傍に残る役。
兄に、ラグナが肘を入れた。
「ちゃんと帰ってきなさいよ」
エリュナは、少し離れた場所から二人を見ていた。
「もう、自分一人で全部抱えなくていいって」
「……そう聞こえるの?」
リュシュアたちが、やがて森の深いほうへ
消えていく。
「それまで、わたしたちは——」
エリュナは、俺の胸のあたりを指さした。
「ここ、ちゃんと治しておく」
ラグナが、どこか楽しそうに笑う。
「どうせ暇なんだから、叩き直してあげる」
「優しさゼロですよね、それ」
「半分よ」
エリュナが、こくんと頷く。
「まだ終わってないって顔ね」
ラグナが空を見上げる。
「世界樹も、森も。あんたも」
俺は苦笑しながら、胸の奥に意識を沈めた。
焦げた線の残骸と、
新しく灯った小さな点たち。
世界樹の揺れと、自分の鼓動が、
少しずつ同じリズムを刻み始めていた。
しばらくして——
リュシュアたちは見つける。
そのずっと奥のほうで、まだ、
どろりと重い何かが蠢いているのものを。




