第48話 ユグリア
そこはマナの海。
どこまでが自分で、どこからが世界樹なのか——
曖昧だった、あの感覚。
今は、違う。
深いところでうねる光の流れ。
その真ん中に、確かな輪郭が立っていた。
「……久しぶり、でいいですかね」
声に出したつもりはない。
けれど、言葉みたいなものが、マナの中へふわりと溶けていく。
それに応えるように、光の中心がひとつ、形を結んだ。
長い枝と葉をまとったような、女性の影。
そのすべてがマナの光でできている。
人とも木ともつかない、不思議な存在感。
「だいぶマシになりましたね」
声もまた、言葉の音ではない。
けれど、確かにそう聴こえた。
「なんて呼べば?」
くすりと笑う気配が伝わってくる。
「ユグリア。そう呼んでください」
世界樹の主。
このマナの海の、中心にいる存在。
◇
「あなたがここへ初めて運ばれたときのことを、覚えています」
ユグリアの揺れが、ゆっくりと強くなる。
「ひどく傷ついていました。
心も。体も。そして――線も」
線。
その単語に、胸の奥がかすかに軋む。
「もうどうしようもないくらいに――」
ユグリアは、マナの流れの一部をほどくようにして、
俺の胸の奥に触れてきた。
そこには、焼け跡のような感触しかないはずだった。
ユグリアのマナが、そこにかすかに混じる。
冷たくも熱くもない、不思議な温度。
「しかし、とてもキレイな線のあとでした」
ユグリアの声とともに、
マナの海に俺の胸の奥が浮かびあがる。
焦げついて、ほとんど切断された細い線と太い線の束。
そのあいだに、ぽつ、ぽつと、小さな光の粒が残っている。
「本来、私は個の生に深く関わるべきではありません」
ユグリアの声が、淡く震えた。
「それをすれば、世界の巡りが乱れる。
だから、私は見守るだけの存在でした」
それでも、とユグリアは続ける。
「そのときのあなたは――」
俺の崩れた回路と、世界樹の損なわれた巡りが、
一瞬だけ鏡合わせみたいに重なって見えた。
「同じように線を痛め、同じように核だけが残っていた」
「あなたを見捨てることは、
あのときの私には――
自分自身を見捨てるのと、ほとんど同じ意味でした」
ユグリアのマナが、俺の胸の奥へとふわりと染み込んでくる。
「森の瘴気に、根が。幹が。枝が。葉が。
あなたと同じように、私自身も傷ついていたのは事実です」
世界樹の断面図のような光景が、
マナの海に浮かぶ。
幹を走る太いマナの線。
枝や葉へ向かう細い線。
その節目ごとに、黒い塊がこびりついている。
「外からの治癒は、何度も施されてました」
ユグリアの声が、かすかに硬くなる。
「それは毒を抜かぬまま、表面を塞いだようなものです」
白い膜の内側で、黒い瘴気がじわじわと広がっていく。
それに追いつこうとするように、
さらに厚いヒールの層が上塗りされる。
元の線の形が、どんどん分からなくなっていく。
「世界樹の本来の巡りは歪み、
私は自分の線を、見失いかけていました」
「そんな状態で、なんで俺なんかを助けたんですか」
自嘲気味に言うと、
ユグリアの揺れが、わずかに笑う。
「あなたのマナは森のどのエルフよりも共鳴した。
その結果の同調、でした。
無茶ではありましたが、まったくの無意味でもありません」
「なんか、すみません」
「今、そのときの無茶と瘴気の蓄積が響いているのは確かです」
◇
ユグリアのマナの海で、ぼんやりとピースが埋まってく。
《浄化》
《ウオーター》
《ヒール》
三つの属性が、頭の中でくるくると回り、
一つの細い流れへと収束していくイメージ。
もし――
今、俺の魔力線が生きていれば……
そのままマナに溶けていく思考。
――いや。
俺はなんのために来た。
ぎりぎりで引き戻して、口にする。
「魔法なら、点滴みたいに流せるんですけど」
ユグリアの揺れが、ぴたりと止まった。
「点滴?」
「一気に押し込まないってことです」
マナの海の一部に、簡単な模型が浮かぶ。
黒い塊で細くなった線。
そこへ、強い光の塊がぐっと押し流される。
塊は砕けるが、その勢いで線そのものが裂けてしまう。
ユグリアの揺れが、わずかに鋭くなる。
「だからまず、剥がれやすくする《浄化》を、薄く」
「剥がれたぶんだけ、《ウオーター》で流す」
「あとの隙間に、薄い《ヒール》を乗せる」
頭の中で組んでいた、点滴のレシピを、
そのまま言葉にしていく。
「押しつけない、ですか」
ユグリアが、なぞるように繰り返した。
◇
「あなたには、まだ核があります。
わずかに残った魔法点も」
ユグリアのマナが、さらりと流れ方を変えた。
世界樹の幹や枝を走る光の流れの一部が、
すっと方向を変えて、俺のほうへ伸びてくる。
焼けた線に、きわめて細い光のすじが伸びてきた。
世界樹の根の――
ごく細い道のようなマナの糸。
細い根の光が、魔力核へひとつずつ結びついていく。
俺の体の中の魔法点とは、少し感触が違う。
でも、これなら流れを組み立てられる。
胸の奥が、じん、と熱くなる。
「……これ、俺の魔法線……?」
ユグリアが首を振るように揺れる。
「残念ながら、私の力ではそこまではできません。
今、繋いだのは、あくまで世界樹側のごく細い根」
「つまり、世界樹の中にだけ通じる線」
「そうです」
ユグリアがはっきりと言う。
「あなたの線が外界へ開いていない以上、
魔法を、外に撃つことはできないのです」
世界樹のマナが、仮の魔力線を通って、
ぱらぱらと試しに流れ始める。
生暖かくも冷たくもない、透明な流れ。
そこへ、俺の中の
《浄化》と《ウオーター》と《ヒール》のイメージを、
ひとつずつ統合していく。
「私のマナを、私の中だけで組み替える。
魔法の組み方だけを借りる形です」
ユグリアの言葉が、俺の胸の奥に沈んでいく。
仮の魔法線、か。
それでも、胸の奥で震えるこの感覚。
確かにそこに、魔法の手応えが戻ってきていた。
◇
世界樹のマナの流れに意識をそっと重ねる。
《浄化》を前面に出しすぎない。
《ウオーター》を、できるだけ薄く保つ。
《ヒール》を厚くしすぎない。
「ユグリアの中の、新陳代謝の速度にも合わせないといけない」
思わず口に出していた。
「あなたに身をゆだねましょう」
ユグリアが、わずかに揺れる。
マナの海の中に、設計図が浮かびあがる。
世界樹の幹の内側。
細い枝の中。
傷んで色が変わっているところへ、
細い点滴の養分が、静かに染み込んでいく。
黒く淀んでいた部分の縁が、
わずかにほぐれる。
完全に消えるわけではない。
でも、硬く固まっていたところに、
ほんの少しだけ、隙間が生まれていく。
その隙間を、浄化の流れが優しく撫でる。
削り取るというより、
古い皮膚が自然に剥がれていくのを、手伝うような動きだ。
剥がれたところには、薄いヒールの膜が張る。
新しく伸びようとする線を、無理に引っ張らない程度の強さで、
ふわりと支えている。
「ふう……こんな感じ、かな」
問いかけると、
世界樹全体のマナの流れが、一瞬だけ止まりかけた。
次の瞬間、
幹の奥から、かすかな安堵の揺れが広がっていく。
深いところでの詰まりが解消されたのがわかった。
「悪くありません」
その一言が、マナの海に響く。
「これは、外から叩きつけられる治癒とは違う。
私の中で、止まっていた巡りが回り始めました」
◇
世界樹の中に、
少しずつ循環が生まれていく。
行き場を失っていたマナが、流れ込み始める。
仮魔法線で点滴として組み直され、
バランスを整えられ、
傷んだ枝や幹へ送り出されていく。
「感謝します。あなたのおかげです」
ユグリアの声が、静かに響いた。
世界樹の枝の先、
しおれかけていた一枚の葉。
完全に持ち上がるわけではない。
けれど、今にも落ちそうだったところから、
一歩だけ踏みとどまったように、揺れ方が変わった。
世界樹の傷んだ内側に、薄い点滴の流れ。
それは、まだ足りない。
すべてを癒やすには、とてもじゃないが届かない。
けれど。
世界樹のマナのざわめきは、
深く深呼吸するように静まっていく。
すると――
胸の奥で、俺の壊れた線の端に、かすかな温度が灯る。
世界樹のマナが、仮魔法点にふわりと流れ込んでくる。
「ここから先―― 」
ユグリアの揺れが、そこで止まる。
「それは意味のない話になります」
世界樹の細い根で代用されていた仮の魔力線は、
ゆっくりとほどけていった。
その感触を名残惜しんで、息を吐いた。
世界樹と俺。
二つの壊れかけた循環が、
細いところで、一つにつながった。
やがてゆっくり遠のく記憶。
「あなたの魔法点は、少しだけ目を覚ましました」
「しかし、それは世界樹の……恩恵の残り香……
……いずれ薄れ……眠りにつくでしょう……」




