第44話 世界樹の迷い
さわ……
ざわ……。
音ではない。
光でもない。
ただ、何かが揺れている感覚。
風もないのに、葉が触れ合うような、
そんな気配が、どこからともなく重なってくる。
それは無数に広がって、
やがて小さな振動になり、
空気を渡り、身体のまわりへと滲み出してくる。
包まれる。
皮膚を越えて、
ゆっくり、身体の内側へと染み込んでいく。
撫でられている。
そっと、やさしく、何度も。
もっと奥——
胸の中心が、その揺れを受け止める。
同じリズム。
同じ鼓動。
夢なのか、現実なのか。
その境目が、ぼやけたまま——
◇
「……ん」
自分の声だと気づくまで、少し時間がかかった。
まぶたは重く、
鼻の奥に、土と木の匂い。
ゆっくり目を開ける。
絡み合った木の根が、籠のように頭上を覆っている。
その隙間から、淡い光が差し込んでいた。
「……森?」
首を動かした瞬間、
胸の奥で、ぎち、と嫌な音がする。
「っ……!」
遅れて走る痛み。
骨でも肉でもない、もっと内側のきしみ。
「起きた……?」
淡い金緑の髪の女の子が、すぐそばにいた。
尖った耳。
「……エルフ」
女の子は、ぱちぱちと瞬きをして、小さく笑った。
「うん。エルフ。
ここ、エルフの里。世界樹の根もと」
世界樹——
その言葉と同時に、胸の奥がひやりとする。
「……俺」
喉が勝手に震えた。
スタンピード。
巨人の単眼。
街は。
父さんやみんなは。
ダメだ、その先が思い出せない。
「無理しちゃだめ」
女の子は、俺の胸を指さす。
「中、ぐちゃぐちゃだから」
「……魔力線、か」
「そう。ひどいけど、死んではない。
世界樹も、まだ切るなって言ってる」
女の子は根の隙間の光を見上げる。
俺も、つられて視線を向ける。
そこに、さっきまで夢で感じていた、
あの揺れと同じ気配があった。
「この場所だと、よく分かるの。
揺れ方」
「揺れ方?」
「前はね、怒ってた。今は……迷ってる」
「切るか、切らないかって」
「……誰がそんな」
「わたし。エリュナ。巫女候補。
世界樹の声を聞くのが少し得意なの」
「……アレンです。
壊れかけの人間」
「うん。でも、まだ全部は壊れてない」
一瞬、胸がひりつく。
エリュナはそっと手をかざした。
触れてはいない。
でも、そこだけ空気が、じんわり温かくなる。
「この子、ぼろぼろなのに、まだ生きようとしてる」
静かな声だった。
「真ん中のところだけ、変にしぶとい。
世界樹の揺れに、勝手にくっつこうとしてる」
「……勝手に?」
「ちょっと図々しい」
くすり、と小さく笑う。
「多分、世界樹も迷ってる。
切るか、切らないか」
くすぐったくて、少しだけ心地いい感覚。
不思議となんか懐かしく感じる。
「だから、ゆっくり決めよ」
「二年も寝てたんだし」
「二年……?」
「森の狩人がずっと守ってた。
『弟子だ』って言い張って」
胸が熱くなる。
「リュシュア……さん?」
「うん」
エリュナは、俺の目を覗き込んだ。
「まだ眠いでしょ」
言われてみれば、
身体の芯がずっと重い。
二年分の眠気と、痛みと、疲れが、
まだ全部、吐き出しきれていない気がした。
「世界樹の根もとにいるあいだは、マナは勝手に巡る
起きていると、かえって邪魔になる」
「それ、さっきから、いろいろ話しかけてきたやつの台詞か?」
エリュナは、悪びれもせずうなずく。
「わたしも、反省してる。
だから、一緒に反省しよ」
意味が分からない。
でも、その雑さが、今は妙に心地よかった。
「……じゃあ少しだけ、寝る」
エリュナの声が、すぐそばで響く。
「起きたときは、もうちょっとだけ、
世界樹の機嫌、よくなってるといいね」
意識が、そこですとんと落ちた。
◇
「……おはよう」
すぐそばに、エリュナ。
「どれくらい寝てた?」
「今日で、七百三日目と一日くらい?」
ホッとした。
目覚めてからは、1日しかたってない。
それでも七百日、か。
「今日は、半分だけ起きててもいいって」
エリュナが、世界樹のほうをちらりと見上げる。
「半分?」
「起きるのと、諦めるの、半分こ」
上体を起こそうとして、胸が悲鳴をあげる。
「無理をするな」
背後から、低い声。
「首をやる」
振り向くと、緑のマントのエルフ。
「リュシュアさん……?」
「ようやく名前を呼べるようになったか」
リュシュアは、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「え?」
「今までうなされて、意味の分からんことばかり言っていた」
エリュナが、くすっと笑う。
「『もっと詰められる』『いや詰めるな』とか」
「やめてください」
顔から血の気が引く。
それを見て、リュシュアは小さく息を吐いた。
「今日は、少し現状を教える」
◇
あらためて、自分の身体へ意識を沈める。
腕も指も、重いが動く。
足も感覚は残っている。
問題は――
胸の中、だろうな。
リュシュアが短く言う。
「自覚はあるか」
「痛いのと、なんか変な感じがするんです」
「あれだよ」
エリュナが天井を指す。
「世界樹。二年ずっと」
胸の奥に、ゆっくり染みてくる揺れ――
懐かしいような、やさしい感覚。
……そうか。
「ありがとうございます」
誰に向ければいいか分からず、とりあえず頭上へ。
すぐに、ざわ、と葉の気配が降りてきた。
「どういたしましてって」
本当なのか?
ただ、否定もできない。
リュシュアが切り替える。
「お前の太い魔力線は、ほとんど焼けた」
「……やっぱり」
「残りも、流せば裂ける。細い線も大半が千切れ、潰れ、癒着している」
「……魔法は」
少しの間。
「一生無理だ」
頭の奥で、何かが静かに崩れた。
「ただし」
声色が変わる。
「人間の基準では、だ。
世界樹の基準では、まだ決まっていない」
「どういうことですか」
エリュナが手を取る。
「ちょっと流すね」
マナが胸の奥で止まり、ぴり、と反応。
途切れた線の端が一瞬光って、消えた。
「今の、感じた?」
「少しだけ。繋がりかけて……離れた」
「うん。
名残はまだたくさんあって、世界樹がそこをなぞってる。
新しい通り道の芽が、でき始めてるの」
「まだ繋がってはいないがな」
◇
「世界樹が『そろそろだ』と判断した。
だから、お前は目を覚ました」
「木のくせに慎重ですね」
「お前よりはな」
言い返せない。
「あれは……」
思ったより素直な声が出た。
「やりすぎでしたか」
「戦術的には、止められなかったかもしれん。
だが、帰ってこいと言ってた側としては、殴ってでも止めたかった」
「ですよね」
それでも、やるしかなかった。
「だからこそ、今がある」
リュシュアが世界樹を見る。
「今のお前は、切り捨てられなかった流れだ。
それをどう繋ぎ直すか、世界樹は見ている」
「……だったら……」
「どこで線を引くかは、お前次第だ」
「アレン。
前みたいに魔法はもう撃てない。
だが『やりたがり』は、まだ生きているだろう?」
「それ、褒めてます?」
「半分は」
胸の奥でどこか恐れていた言葉は。
ここで俺は……切られない。終わらない。
「……分かりました」
ゆっくり息を吐く。
「じゃあ、ちゃんと見ます。
自分がどれだけ壊れてるか」
「うん」
エリュナが嬉しそうにうなずく。
「壊れてるとこ見るの、得意そうだもん」
「褒めてる?」
「半分は」
どうやら、エルフの里では「半分」が流行っているらしい。
胸の奥はまだ痛い。
それでも――
頭上から降りる世界樹の揺れは、
さっきより、ほんの少しだけ柔らかかった。




