第39話 小さな線
リュシュアは、静かに木の上を移動していた。
枝から枝へ。
音をできるだけ殺しながら、
森の地図を、頭の中で何度もなぞる。
目に見える風景ではなく、
マナの濃淡で描かれた地図を。
どろんこレーンの一帯は、
遠目にも分かりやすかった。
泥と水の帯。
ところどころに点在する眠り。
その外周を縁取る光。
全体として見れば、立派な陣になっている。
誰がやったか—— すぐに察しがついた。
「発想だけは褒めてやる」
ぽつりと、それだけ呟いた。
◇
問題は、その陣の外側だ。
森の、もう少し奥。
砦とどろんこレーンを超えた先の狭間。
そこに、
どうしようもなく重い黒い歪みが、ひとつ居座っている。
巨躯。
単眼。
マナの圧だけで、周囲の魔物を押し出す源。
サイクロプス。
……にしては、おかしい。
見た目だけなら、
単眼の巨人——サイクロプスと見てもいい。
だが、
あの歪み方は、その名で片づけていいものではない。
マナの質。
積み重なり方。
奥にもう一枚、得体の知れない膜がある。
名前どおりの相手では、なさそうだ。
ここで深追いしても仕方がない。
違和感だけを、胸の奥にそっと刺しておく。
スタンピードが始まる前から、
この辺りのマナの流れの不自然さは分かっていた。
どこかにその源がいることも。
だが、
森全体が揺れている中で、
その一点を特定するのは簡単ではなかった。
だからこそ、自分は奥側に回り、
それを探しながら、
別方面の危険な群れを押さえていた。
スタンピードが
「こっち側」に雪崩れ込まないように。
その分、手前の負担は大きくなっただろう。
どろんこレーンと眠り瓶。
前線の奮戦。
あれがなければ、
とっくに砦は沈んでいた。
◇
そのときだった。
森の一角で、
マナの地図が一気に書き換わった。
眠り石。
悪臭石。
さっきまでなかった線が、
突然そこに浮かび上がる。
しかも、歪み源のほぼすぐ横で。
「……なぜ、いる」
誰がそんな真似をするのか。
それが誰なのか。
考えるまでもない。
足場をいじる。
眠りで鈍らせる。
そういう発想を、実際に形にしてきた人間は、一人しか知らない。
お前は、本当に……。
彼は木の上から、方向を変えた。
枝から枝へ。
音を殺しながら。
その途中。
スタンピード全体の流れが、
はっきりと変わっていくのが見てとれた。
中央が山を築き、
どろんこレーンの帯が機能し、
眠り瓶が波頭を折る。
砦のほうから、
勝ちを確信する声が、上がる。
あちらは、どうにかなったか。
ならば、尚のこと——
もう源を放置する理由は、なくなった。
◇
眠り石の線が、
一本、二本とさらに増えていく。
悪臭の薄い膜が、
巨人の通り道を、何度もなぞっていた。
死にたいのか。
呆れの中に、
わずかな感心が混じる。
この線の動き。
そこにいる小さな人間が、
どんなふうに足場をいじっているか、
なんとなく想像できた。
できることをしろ、と言ったはずだが。
小さくため息を落とす。
しかし、追う速度をさらに上げた。
◇
木々のあいだから、
巨躯の輪郭が見え始めた。
単眼の巨人。
森の木々を見下ろすように立つ、
名のつけようのない化け物。
その少し外側の、
地面と木の影のあいだに——
小さな影が一つ、しゃがみ込んでいる。
「……いたか」
リュシュアは、
一本高い枝の上で、足を止めた。
小さな影は、
息も絶え絶えの様子だった。
背中の動き。
肩の揺れ。
肋の出し入れ。
一度、攻撃をもらって、
それでもここまで走ったのだろう。
まだ両手を前に出し、
何か組んでいる。
「無茶だ」
声が、口からこぼれた。
だが、
その小さな手は止まらない。
胸の奥——
魔力核のあたりから、
こちらにもはっきりと分かるほど、
線という線が引きずり出されていく。
ストーン、エアーパレット、ダークか。
それらを一本の統合線にし、
さらに、それを並列で増やしている。
「なるほど」
思わず、言葉がこぼれた。
石弾。
その変形版。
魔力ごと闇にくるんだ弾を、
空気の筒の中から滑らせるつもりだろう。
あの単眼は、光ではなく、
「魔力のうるささ」を見ている。
そう気づいた結果の工夫。
その発想に感嘆すら覚える。
しかし、その間にも
統合線がどんどん束ねられていく。
三本。
四本。
五本。
小さな胸の奥から
魔力のきしむ音が、こちらにも伝わる。
六本。
七本。
なにをやっている。
いい加減にしろ。
八本。
九本。
指先が震え、
それでも、弾の芯だけは崩さまいとしている。
本当に死ぬぞ。
そう喉まで出かけて、
飲み込んだ言葉を噛み締める。
見れば分かる。
その線の向き。
魔力の流れ方。
お前は——
ただむやみに撃とうとしているわけじゃない。
巨人の足。
一歩踏み込む、その前。
膝と足首のちょうどあいだ。
荷重がいちばんかかる位置。
「そこを折る気か」
小さく呟いて、納得する。
倒せとは、一度も教えていない。
崩して止めろと、さんざん言い続けた。
一撃の一歩手前。
それがお前の仕事だ。
「——今だ」
つぶやいた言葉と同時に
小さな身体から、右手が突き出された。
音は、ほとんどなかった。
空気を、
闇に包まれた石弾が引き裂いた。
ダークでくるまれているせいで、
目にはほとんど映らない。
マナの流れすら、感知できない。
圧縮された十本ぶんの線が、
一点へと集約された一撃。
次の瞬間——
巨人の足元で、
鈍い破砕音が響いた。
「グ、アァァァァッ!」
怒号とも咆哮ともつかない声が、
そのまま悲鳴に変わる。
膝から下が、不自然な方向へ折れ曲がった。
巨体が、ぐらりと傾ぐ。
一歩目を支えきれず、
そのまま前のめりに崩れ落ちる。
……やりやがった。
苦い感情が、
そのままため息になって漏れた。
十本使ってまで……
それをやろうとするか。
次の瞬間、
小さな身体ががくんと崩れた。
膝からではない。
全身から、力という力が抜けた落ち方。
同時に、
視界の端で、まだ動く黒い塊に意識を切り替える。
巨人の片脚は完全に潰れている。
だが、上半身はなお生きている。
腕と残った足で地面を掴み、
這いずるように前へ進もうとする。
単眼が、血でにじみながらも、
なおどこか一点を探している。
砦でも、前線でもない。
崩れ落ちた、小さな人間のほうへ。
……執念深い。
なぜ、執拗に一人を追おうとするのか。
その執着が、妙に引っかかった。
何かを見ているのか。
あるいは、匂いのようなもので追っているのか。
今考えるべきなのは、それじゃない。
自分の不始末にケリをつける。
ここから先は私の仕事だ。
◇
片膝を折り、体勢を崩し、
止めてくれたからこそ——
今この瞬間だけ、
こちらが完全に上を取れる。
だからこそ、
一射も無駄にはできない。
弓を構える。
一本ごとに、呼吸と鼓動と、
残ったマナの流れを重ねる。
単眼の少し外側、
眼窩の奥の神経束に一本目。
首の付け根、頸椎の隙間に二本目。
心臓のすぐ上に三本目。
矢は、狙いどおりに飛んだ。
巨体が、短く痙攣する。
最後の咆哮は、
もはや威圧ではなかった。
ただ終わりの声。
ドスン、と。
森全体が、わずかに震えるような音を立てる。
巨人は、今度こそ動かなくなった。
木から飛び降りて、
地面に倒れている、小さな身体のそばに膝をつく。
胸のあたりに手を当て、
魔力線の状態を確かめる。
太線は、半分以上が焼けている。
残っているぶんも、まともには流せないだろう。
細い線も、元の網目からすれば、
明らかにスカスカだ。
魔法を使う道は、完全に閉ざされた。
それが、冷静な診断としての事実だった。
「大バカだ」
ぽつりと、口にする。
「だが……
よく、やった」
そのとき、
閉じていた瞼が、ぴくりと震えた。
焦点の合わない瞳が、
かすかにこちらを向く。
「……リュ、シュア……さん……」
かすれた声が、
喉の奥から漏れる。
「……お、れ……ちゃんと……
崩して、止め……ました、よ……」
ほとんど、うわ言だ。
それでも、
その言葉の中には、
どこか子どもらしい誇らしさと、
任せるという信頼が混ざっていた。
胸の奥が、
少しだけ痛んだ。
そうだ。
お前は、自分にできることを十分にやった。
こういうのは、本来——
最初から自分がやるべき役目だった。
視線を、さきほど倒れた巨躯へと一度だけ向ける。
さっきまでこちらを睨んでいた単眼は、
もう何も映していない。
「……ああ。ちゃんと止まっていたぞ……」
小さく答えてから、
目の前の小さな額を、指先で軽く弾いた。
「バカ弟子」
それは、
自分でも驚くほど自然に、
口から零れた言葉だった。
一瞬、
自分でも意外だった。
——依頼相手。
——預かりもの。
——面白い実験材料。
これまで頭の中で、
付けていた名前が書き換わる。
「お前はもう私の立派な弟子だ」
そう、はっきりと言う。
アレンの口元が、
ほんの少し緩んだ気がした。
安心したような、
どこかホッとしたような顔だった。
◇
言いたいことは、山ほどあった。
なぜ、こんな森の奥深くに一人でいるのか。
なぜ、約束を破り、十倍ショットを撃ったのか。
森にはくるな、と言ったはずだ。
「前に出るな」とも何度も釘を刺したはずだ。
だが、それを口に出した瞬間——
全部、自分に戻ってくるのが分かっていた。
早くから、ボスらしきものがいると分かっていた。
それでも、最後まで野放しにしていた。
スタンピードよりも、
探索を優先してたにも関わらず、だ。
すべて自分の責任だ。
そして——
結局はここに間に合わなかった。
一番小さいこいつに
一番負担をかけたのも、自分だ。
叱る資格は——ない。
しばらく、黙って顔を見ていた。
汗と血と泥で、
ぐちゃぐちゃになっている。
どこか満足そうに目を閉じているが
余計に腹立たしい。
「……仕方ない」
小さく息を吐いて、
彼は小さな身体を抱え上げた。
今までは、
金で護衛を請け負った相手に過ぎなかった。
教えを乞われれば教えたし、
出来る範囲で線の引き方も見せた。
だが、この瞬間——
ようやく自分の中で、覚悟が決まった。
「生きてさえいれば、
また、いくらでも教えてやる」
誰に向けるでもない独り言を、
森の空気にそっと流す。
そして、振り返る。
遠くの砦の歓声を、もう一度確認して——
リュシュアは、
小さな荷物を胸に抱いたまま、
静かに森の奥へと歩き出した。
これで一章完結です。




