第37話 戦場のマナ
どれくらい眠り石を投げたか――
「十……いや、十五……?」
もう正確な数は分からない。
頭の中の数字がぐちゃぐちゃになって
途中で数えるのをやめた。
右端レーンの入口は、
だいぶぐずぐずになっている。
……もう、いいだろ。
木の幹に背中を預けて、
肺の奥から荒い息が漏れる。
「はぁ、……はぁっ」
魔力も帰るぶんは残さないと。
ちゃんと帰るって約束したんだ。
◇
俺は、あたりを見渡した。
妙な違和感。
砦の石壁が、
さっきより少し小さく見えた。
「……?」
木から一歩離れて、
振り向いてみた。
木の幹は太く、
周りの森は暗い。
たぶん、さっきより、
だいぶ奥だ。
眠り石を投げては移動、
投げては移動しているうちに——
いつの間にか、
砦からかなり距離を伸ばしていた。
まずい。
ここまで入るつもりじゃなかった。
ちょっといじって、
すぐに戻るつもりだった。
気づけば、
どろんこレーンのすぐ脇から、
森のもう一段深いほうまで足を踏み入れている。
すぐに戻るべきだ。
これ以上は、
本気で帰り道が危ない。
◇
「……なんか、嫌だな」
不安を紛らわすかのように小声でつぶやく。
言葉にした瞬間、
余計に「嫌な感じ」がはっきりする。
——空気が、重い。
さっきまでと、違う。
ここにいたくないと身体が言っている。
「……っ」
思わず、呼吸が浅くなる。
なんだ、これ。
森の匂いは同じだ。
木も、土も、変わらない。
そのはずなのに。
耳の奥で、
自分の鼓動だけが、
やけに大きく響いている。
ドクン。
ドクン。
やばい。
理屈じゃない、
身体がそう言っていた。
この先、やばい。
行くな。
直感が、
全力でブレーキをかけてくる。
「森の奥には、なにかがいる」
リュシュアの言葉が、
唐突に頭に浮かんだ。
◇
そのときだった。
「おおおおおっ!!」
遠くから、
大きな歓声が響いてきた。
砦のほうだ。
「……え?」
一瞬、耳を疑う。
でも、何度聞き直しても、
それは悲鳴じゃない。
怒鳴り声でもない。
「押し返したぞ!」
「波が薄くなってる!」
「いける、いけるぞ!」
誰かの叫びが、断片的に届く。
……勝った?
右端レーンの入口を見る。
さっきまで押し寄せていたオークの群れは、
もはや数体を残すのみ。
前線に届く敵の波も、
今やさざなみ程度だ。
みんなの合わせ技――
それが、スタンピードを崩しきったんだ。
「……っ」
腰が、ずるりと抜ける。
「よかった……」
張り詰めていた何かが、
一気にほどけた。
「ほんとに、よかった……」
勝利の雄叫びが、もう一度上がる。
さっきまでの重苦しい空気が、
少しだけ軽くなった気がした。
帰ろう。
リナに盛大に怒られて。
父さんに殴られて 。
兄さんには小言を言われるかもしれない。
それでもいい。
「よし、帰って——」
言いかけた、その瞬間。
景色が、ぐるん、と回った。
「……え?」
一瞬、何が起きたのか分からない。
空が、
砦の壁が――
全部いっしょくたになって、
視界の端を流れていく。
身体が、ふわっと浮いた。
あれ。
なんで、俺、飛んでるんだろう。
その疑問が頭をかすめた、次の瞬間――
背中に、
とんでもない衝撃が走った。
「——ッッッ!」
声にならない悲鳴が喉に詰まる。
地面に叩きつけられたと
理解するまで、少し時間がかかった。
肺の中の空気が、全部押し出される。
なんだ、今の。
呼吸ができない。
視界の端が、白く染まる。
口の中が、土と血の味になっていた。
遅れて、
背中から脇腹にかけて、
ずきずきとした鈍い痛みが広がる。
多分――折れてる。
そんな冷静な感想が、
どこか他人事のように浮かんだ。
動かない。
いや——動かせない。
手をつこうとしても、
力が入らない。
息を吸おうとしても、
胸が広がらない。
「っ、か、は……」
情けない音が漏れる。
やばい。
普通に――やばいやつだ。
視界の隅に何かが見える。
……太い。
あまりにも太い足首。
一本で、
俺の身体よりも太い。
地面に深くめり込み、
土が盛り上がっている。
……オーク、じゃない。
オークなら、
まだ人間っぽさがある。
これは――
それどころじゃない。
「……」
必死で、首だけを動かす。
背中から脳まで、
痛みが突き抜ける。
それでも、
ゆっくりと、振り向いた。
◇
そこにいたのは——
木々の上に突き出た、
巨大な影。
四メートルか、五メートルか。
距離感の感覚が、完全にバグる高さ。
岩みたいに盛り上がった腕と胴体。
ごつごつした灰色の皮膚。
肩から背中にかけて、ところどころ黒い毛が生えている。
そして、顔の真ん中には――
馬鹿みたいにでかい、ひとつ目。
その単眼が、
まっすぐ、こちらを見下ろしていた。
「…………は?」
頭が、ついてこない。
いやいやいやいやいや。
サイズおかしいだろ。
一つ目の巨人——としか言いようのないそれが、
ずん、と一歩前に出る。
地面が揺れた。
さっき、俺を吹っ飛ばしたのは、
きっとあの足だ。
蹴られたのか、
踏み込んだ地面の余波をもらったのか、
分からない。
いやそんなことどうでもいい。
どっちにしても、シャレになってない。
「やば……やばいやばいやばい」
声が震える。
肺がうまく動かないせいで、
言葉が途切れ途切れになる。
あれに挑むって発想が出てくる人種とは、
たぶん、仲良くなれない
本気でそう思った。
反射的に、地面をかいた。
泥と枯れ葉が爪の間に入り込む。
肋骨が悲鳴を上げるのを無視して、
どうにか四つんばいの形まで身体を起こす。
「っ……!」
視界が一瞬、暗くなった。
それでも、手と足を前に出す。
一歩。
二歩。
気がついたときには、
俺はもう、森のほうへ向かって走り出していた。
――まだ、こんなに走れたのか、俺。
自分で自分に、少し驚く。
さっきまで、
息も絶え絶えで眠り石を投げてたはずなのに。
背中と脇腹の痛みも、
走り出した瞬間だけは、
どこかに置き忘れてきたみたいになっている。
たぶん、
現実逃避も混ざった全力疾走だった。
◇
背後で、ドン、と地面が鳴った。
「……っ!」
振り向く余裕はない。
でも、分かる。
さっきの巨体が、
俺を追ってきている。
木が倒れる音。
枝が折れる音。
土が弾け飛ぶ音。
一歩ごとに、
大人が全力で飛び跳ねたみたいな地震が、足の裏から伝わってくる。
無理無理無理無理。
勝てるとか、そういう話じゃない。
あれは、もう、世界の上位存在だ。
頭の中で、
勝手にそんなラベルが貼られる。
それでも、足は止まらない。
止まったら、その瞬間終わるからだ。
森の中を、
全力で駆け抜ける。
さっきまで、自分が眠り石を投げていた“入口”が、
横目に見えた。
どろんこレーン。
右端レーン。
砦の石壁。
全部、斜め後ろに流れていく。
(砦のほうに走りたいのに)
(飛ばされた方向が悪すぎる)
今、俺が走っているのは——
砦とは逆。
“外側”の森のほうだ。
このままじゃ、
誰にも気づかれないまま
ひっそり消えるコースまっしぐらである。
冗談きつい。
スタンピードの勝利の裏側で、
人知れず一人食われるとか、最悪の結末だ。
足元の根っこに引っかかりそうになりながら、
木と木の間を縫うように走る。
この木の陰は、一瞬隠れられる。
まだ、走れるだろうか。
ここは泥が深いから避ける。
身体が勝手に判断している。
頭の中は、「やばい」と「無理」と「走れ」でいっぱいだ。
◇
背後で、地面がドスン、と揺れた。
「……っ!」
振り向く余裕はない。
でも、分かる。
さっきの巨体が、
俺を追ってきている。
木が倒れる音。
枝が折れる音。
土が弾け飛ぶ音。
一歩ごとに、
大人が全力で飛び跳ねたみたいな振動が、足の裏から伝わってくる。
無理無理無理無理。
勝てるとか、そういう話じゃない。
あれは、もう、
世界の上位存在だ。
頭の中で、
勝手にそんなラベルが貼られる。
それでも、足は止まらない。
止まったら、その瞬間、終わるからだ。
森の中を、
全力で駆け抜ける。
さっきまで自分が眠り石を投げていた入口が、
横目に見えた。
どろんこレーン。
右端レーン。
砦の石壁。
全部、斜め後ろへ流れていく。
今、俺が走っているのは――
森の奥のほうだ。
スタンピードの勝利の裏側で、
人知れず一人食われるとか、
最悪の結末すぎる。
足元の根に引っかかりそうになりながら、
とにかく走る。
この木の陰なら、一瞬隠れられる。
まだ、走れるだろうか。
そこは……泥が深い、避けろ。
身体が勝手に判断している。
でも、頭の中は、
「やばい」と「無理」と「走れ」でいっぱいだ。
気絶弾……
頭の端に、その選択肢が浮かぶ。
撃つ価値はある。
でも、外したり、効かなかったりした瞬間、
即、ゲームオーバーだ。
じりじり、詰められている。
誰かに知らせないといけないのに――
どうすれば……。
頭の中で、
同じ問いが何度も回る。
答えは、出ない。
背中も脇腹も痛い。
肺は火の玉みたいで、
足はとっくに棒だ。
それでも、
止まったら終わりだということだけは、
脳が、ちゃんと理解している。
「はぁ、っ……はぁ……!」
◇
そのときだった。
「ガァァァァァァァァッ!!」
背後から、重低音の塊を叩きつけられる。
「……っ!?」
足が、勝手に止まる。
鼓膜が悲鳴を上げる。
胸の内側が震える。
怒鳴り声とか、魔物の叫びとか、
そういうレベルじゃない。
――動くな。
――ここから先は逃がさない。
そんな命令そのものが、
「圧」となって押しつけられてくる。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
頭で命令しているのに、
足がうまく言うことを聞かない。
喉の奥がきゅっと狭くなって、
うまく息が吸えなくなる。
「っ、う……」
さっき叩きつけられた背中と肋骨の痛みが、
咆哮の振動でぶり返した。
「なんでもいい……!」
ほとんど反射で、
俺は手を前に突き出していた。
《悪臭石》
《眠り石》
もう、手当たりしだいだ。
「くそっ、くそ、くそ!」
狙いなんてつけない。
とりあえず、巨人の足がありそうな方向へ
乱れ打ちする。
むわっ、と鼻をつく悪臭と、
足元あたりにまとわりつく眠気の霧が、
自分にも、かすかに届いた。
「うぇっ……」
「……?」
背後で、足音が一瞬だけ緩んだ気がした。
完全に止まったわけじゃない。
でも、さっきまでの一直線の追跡とは違う。
咆哮の圧も、わずかに薄くなった。
……効いたか?
せいぜい、
「ちょっと嫌な匂いがする」とか、
「ちょっと眠い」とか、その程度だろう。
でも、
この一拍ぶんのズレは、
十分に命拾いだった。
「走れ……!」
自分にもかかりかけた眠気を、
必死で振り払う。
悪臭も、眠りも、
こんな近距離でぶちまけるものじゃない。
自滅するだけ。
こんな逃げ方、ダメだ。
なにか、気を引けるもの……
悪臭と眠りみたいに、
広範囲を崩しすぎるものじゃなく、
もっと、点で注意を引けるもの。
あいつの視線そのものを、
一瞬でもいい、別の方向にやれるもの。
……光り石。
頭の奥で、ひとつの考えが浮かぶ。
それなら——
自分がいないタイミングで光らせれば、
あの単眼を、その一瞬でも騙せるかもしれない。
◇
俺は走る方向を微妙に変えた。
巨人との距離を見ながら、
森の中に仕掛けるルートを頭の中で描く。
「一カ所じゃ足りないな……」
あいつが一瞬そっち見て、
それだけで終わる。
「連続して、三カ所」
一つ目が光る。
あれ?って顔をさせる。
二つ目が光る。
なんだこれって追わせる。
三つ目が光る。
こっちなのか?って迷わせる。
そのあいだに、
俺は別方向へ距離を取る。
うまくいく。
そう信じて行動する。
走りながら、光り石を作る。
すぐ近くの地面に、
しゃがみこまずに置ける場所を探して——
時間差トリガーはアバウトな指定だ。
今すぐ発動しなければいい。
そのまま、木の根の影に転がす。
「一本目……!」
さらに先へ走る。
走りながらまた転がす。
「二本目」
「三本目」
自分の進行方向とは、違う角度。
三カ所、仕込み終えた。
「はぁ、はぁ、はぁっ……!」
視界の端で、
砦の石壁がどんどん小さくなっていく。
「あいつを砦に連れて帰るわけないだろ」
もう、足が止まりそうだった。
◇
「——お?」
少し後ろのほうで、
世界の色が一瞬だけ変わった気がした。
振り向かなくても分かる。
一本目の光り石が、光った。
森の薄暗がりの中に、
ぽつりと白い光の点。
巨人の単眼が、
そっちを向いた気配がする。
足音の向きが、
わずかにずれた。
よし……
ほんの少しだけ、
胸の中に余裕が生まれる。
「二本目……!」
今度は別の光が灯る。
巨人の影が、
一本目と二本目の間で、
ゆっくりと頭を振っているのが見える。
そして——三本目。
三つ目は、注意を逸らすため
一番明るくなるよう仕込んだ。
巨人の顔がくっきり浮かぶ。
ごつごつした額。
歪んだ口。
そして、一つ目——
その黒い部分が、ニョロリと動く。
「っ……」
自分でも気づかないうちに、
足がわずかに減速していた。
まず、一本目の光をなめるように。
次に、二本目をじろりと。
そして、ゆっくり、ぬるりと
三本目……
ではないほうを見る。
つまり、
俺のいるほうに。
見られた……
完全に、そう感じた。
お前だな。
そう言われた気がした。
なんで……。
なんで、光じゃなくて俺なんだ。
さっきまで闇の中にいた。
急に明るくなったんだ。
普通は、そこに視線が吸い寄せられる。
でも、あいつは——
最後あきらかに、こっちを選んだ。
見えてるんじゃない……
魔力で捉えているんだ。
頭の中で、妙にしっくりきた。
悪臭石。
眠り石。
どろんこレーン。
眠り瓶。
光り石。
この砦一帯に、
俺はとんでもない数の魔法石を埋め込んだ。
戦場のマナ地図を描き直した、と言ってもいい。
あいつから見たら、
ここ一帯、魔力だらけの光る地図だったんじゃないか。
そして今——
その中で一番、
濃くて、うるさい点がどこかって言ったら。
……俺だ。
多分——
飲み込みたくない考えが頭をよぎる。
この単眼のボスも。
そもそも、このスタンピードさえも。
吸い寄せたのは、俺なのかもしれないという事実。
「……どうすんだよ、これ」
見つかった。
もう逃げ回ることはできない。
それでも俺は、
走ることしかできなかった。




