第36話 側面迂回ルート
砦の階段を駆け下りると、
空気の匂いが変わった。
上は、血と泥と汗。
ここはそれに、森の匂いが混じっている。
外側から右端レーンへ、回り込む小道。
兵士が物資を運ぶときに使う、砦と森の「すき間」だ。
「……行くか」
自分しかいないのに、わざわざつぶやく。
一歩目の足取りが、少し重い。
◇
俺は走りながら、手持ちの武器について考えていた。
相手を仕留る確実な方法。
――石弾の3倍ショット。
オーク一体ぐらいなら、きっと倒せる。
でも——
リュシュアさんとの約束がある。
ここで無理して、俺の貧弱な太線を焼いたら、
この先、何もできなくなる。
――石弾2倍ショット。
負担はマシだが、その分威力も中途半端。
オークからしたら、ちょっと痛い程度だ。
仕留めきれない。
むしろ怒らせる。
こっちの位置までバレる。
どちらも今、一番やっちゃいけない。
◇
俺の罠職人としての性質にぴったりの
眠り石や悪臭石。
線を重ねれば、
広範囲で足を止めることもできる。
でも、ここでそれをやると——
退路が潰れる。
魔物の動線を大きく変える。
味方が崩れる危険もある。
どろんこレーンの中ならいい。
でも、道中で使うとぐちゃぐちゃに壊す。
だから、これも封印。
もっと細い一手。
――気絶弾。
眠り魔法をほんの少しだけ乗せた、
当たると、くすぐったい空気弾みたいなやつ。
倒せなくていい。
崩せなくていい。
でも、2倍ショットにすれば——
気絶まではいかないにしても、足止めくらいできる。
◇
木立の隙間から、
灰色っぽいものがちらりと見えた。
オークだ。
「……っ」
思わず、すぐそばの木の裏に身を寄せる。
二匹。
木の根元あたりを、うろうろ嗅ぎ回っている。
スタンピードの本流から、少し外れたやつらだろう。
でも、数匹でもこの裏道はふさがれてしまう。
右手を前に突き出し、
ターゲットを定める。
《気絶弾2倍ショット》
空気がねじれたみたいな感覚とともに、
目に見えない弾が飛ぶ。
オークの胸板のあたりで、
何かが「ボン」と内側から爆ぜたみたいな反応が見えた。
「グホッ!」
一匹が、肺の空気を全部吐き出すみたいな声を上げて、
その場で膝をつく。
隣の一匹が、
驚いてそっちを向いた瞬間——
今だ。
木陰から飛び出して、
二匹の視線の外側を全力ダッシュで抜ける。
近寄らない。
間合いにすら入らない。
足もとだけを見る。
木々の間を、夢中で抜ける。
怒鳴り声が追いかけてくる前に、
次の木の裏へ、なんとか身体を滑り込ませた。
「……はぁ、はぁ」
喉が、焼けるように痛い。
ドクン、ドクン。
なぜかやけに大きく響く、自分の心臓の音。
そのときになって、ようやく気づく。
——あれ?
周囲の音が、ほとんど聞こえていなかった。
まずい。
緊張で、息が上がっていることに、
今さら気づいた。
◇
「ガンッ……ガンッ……」
金属がぶつかる鈍い音。
耳の奥で、止まっていた感覚が、ゆっくりと戻ってくる。
何かが、盾とぶつかっている。
そして、音が一気に鮮明になる。
オークの咆哮。
人間の怒鳴り声。
右端レーンの真横あたりに、
なんとかたどり着いたらしい。
大きな木の幹に身を寄せ、
そっと顔だけを出す。
そこには――
砦の石壁。
その横腹に食い込もうとしている、
黒い帯みたいなオークの群れ。
泥はある。
水もある。
でも、中央のような山にはなっていない。
眠り瓶が決まったらしい地点だけ、
オークが横たわっている。
だが、その肉の残骸の外側から、
新しい波が、ひっきりなしに押し寄せてきていた。
ここだ。
どろんこレーンの一番奥。
砦と森の境目。
右端レーンに流れ込む入口。
ここで勢いを削れば、
前線に届く波そのものが、少しずつ弱くなる。
この位置からなら、
魔物からはほとんど見えない。
森の影。
木の幹。
地形のくぼみ。
身を隠しながら、眠り石を投げ込める。
◇
問題は、ただ一つ。
自分でスリープを食らわないことだ。
瓶は、もうない。
生成と同時に投げる。
いくしかない。
右手を上げる。
石を作り始める。
同時に肩をひねる。
「一発目」
生み出した眠り石を
その瞬間に、もう腕を振り出している。
「――っ」
眠り石が、小さな弧を描いて飛ぶ。
オークから見えないような、
高くて山なりの弾道。
石が、右端レーンの入口の手前、
狙ったあたりの地面に落ちる。
コロ、コロン。
そこから、
目には見えない睡魔が、
地面をなでるように広がっていく。
オークの足首。
膝。
眠りの元が、じわじわと上に這い上がる。
一番手前のオークの膝が、
わずかに折れた。
その後ろのやつが、
勢いのままそいつにぶつかる。
足と足とが絡み合う。
タイミングがずれる。
波頭の面が、
ほんの少しだけ崩れた。
「よし」
思わず、声が漏れる。
◇
「二発目」
同じように投げる。
木陰を二本ぶんずれて、
さっきとは、狙う角度も少し変える。
同じ場所ばかり狙えば、
そのうち何かおかしいと察知される。
石が落ちたあたり。
オークの一歩目が、
ほんの少し遅くなる。
二歩目。
さっきより深く沈む。
足を取られたところを、
父さんたちが斬る。
兵士が槍が突く。
冒険者が首を狙う。
――届いてる。
ここから投げた石が、
ちゃんとあそこを鈍らせてる。
◇
「三発目」
「四発目」
「五発目」
一本投げるごとに、
木から木へ、少しずつ位置をずらす。
慎重に。見つからないように。
投げる。
移動。
投げる。
移動。
その繰り返し。
「……はぁ、はぁ」
肺が、火の玉みたいになっている。
やばい。
酸素が、本当に足りない。
でも、
右端レーンの黒い帯は、
さっきよりも薄くなっている。
波がくる前に、勝手に崩れていく。
中央の山。
どろんこレーン。
眠り瓶。
この入口いじり。
その全部が噛み合って、
やっとここまで落とせている。
俺一人の力じゃない。
みんなの合わせ技だ。
それでも、
俺の「一手」にちゃんと意味があるのが分かる。
魔力が、じわじわと削れていく。
……もう少し。
あともうちょっとだけ、
やらせてください。
誰にともなく、
そう心の中でつぶやいた。
◇
何発目か、
もう正確な数を数えられなくなっていた。
「十……いや、十二……?」
頭の中の数字が、
ぐちゃぐちゃになっていく。
手のひらに、
次の眠り石の感触が生まれるたびに、
指先がかすかに震える。
魔力も、そろそろ底が見えてきた
《泥石》工場。
《水石》。
《眠り石》。
《光り石》。
《眠り瓶》。
そのあとで、
ここまで走ってきて、
今また《眠り石》連投。
魔力核の中の貯金が、
じわじわと削れているのが分かる。
でも、
右端レーンの入口は、
確かに弱ってきていた。
……もう少しだ。
もう一歩先だけ、やらせてください。
誰にともなく、
そう心の中でつぶやいた。




