第1話 目覚めたら赤子だった件
目を開けた。
……おかしい。
まず、それが最初の感想だった。
視界が、低すぎる。
天井が、やけに遠い。
しかも、ぼんやり滲んでいる。
感覚が定まらない。
「……え?」
声を出そうとして、出なかった。
いや、正確には――出したつもりの声と、耳に届いた音が違った。
喉が震えただけ。
言葉にならない、空気の抜ける音。
ぞっとする。
体を動かそうとする。
肩。腕。指先。
……反応が、遅い。
いや、というより、ほとんど動かない。
力の入れ方が分からない。
指先に意識を集中してみる。
ぴく、と小さく震えただけだった。
そこで、ようやく気づく。
――動かないんじゃない。
小さすぎるんだ。
背中に伝わる、やわらかい感触。
自分よりずっと大きな手に、すっぽり包まれている安心感。
厚みのある布。
胸元に触れる、あたたかい何か。
それがゆっくり上下する。
俺の体も一緒に揺れる。
耳元で、やさしい声が響く。。
意味は分からない。
でも、不思議と落ち着く。
音そのものが、体の奥に染み込んでくる。
長い髪が、ふわりと頬に触れた。
少し甘い匂い。
抱きかかえられたまま、ゆっくり揺らされる。
そのリズムに合わせて、
喉の奥から、勝手に声が漏れた。
「あー」
「うー」
自分で出しているのに、どこか他人事みたいな声。
……あ、これ。
ようやく、状況を察する。
完全に赤ん坊だわ。
◇
前の人生の記憶は、途切れてはいない。
ただ、一本の線というより、
ばらばらの切れ端みたいな感じだった。
会社のロゴ。
満員電車の圧迫感。
いつも買っていた缶コーヒーの味。
夜遅くのコンビニ弁当。
居酒屋で、毎回同じ愚痴を聞かされたこと。
思い出そうとすれば、いくらでも浮かぶ。
でも、それらを並べても、
「これだ」と言える一枚の絵にはならない。
忙しくて。
疲れていて。
たまに笑って。
そのまま、日々が過ぎていった。
まあ……どこにでもある人生だったな。
嫌いじゃなかった。
不幸だったとも思わない。
ただ、起伏がなかった。
「モブ」
そんな言葉が、いちばん近い。
そういえば、体調を崩した記憶あるな。
無理して、我慢して、
「まだいける」と流して。
その先は、ぼんやり白い天井で途切れている。
結局、これだけはやったって言えるもの、なかったな。
それが、最後に残った感想だった。
◇
で、気がついたら、これだ。
知らない天井。
知らない腕。
知らない言葉。
自分の頬をつつきながら笑っている、その人をぼんやり眺める。
……異世界転生って、本当にあるんだな。
妙に納得している自分がいる。
前世で、どれだけそういう話を読んできたかがよく分かる。
魔法陣が光って「選ばれし勇者よ」とか、
そういう演出は……ないのね。
ちょっとだけ、がっかりだ。
目覚めた瞬間に特典説明が始まらないあたり、
今回は「チートコース」じゃないらしい。
◇
しばらくして、別の足音が近づいてきた。
床が、規則正しくきしむ。
低めの声。
さっきの人より、少し硬い響き。
視界の端に、がっしりした肩が入る。
少し厳しそうな目をした男の人だ。
さっきの――たぶんお母さん候補――と、
短く言葉を交わす。
それから、男の人は俺の顔を覗き込んだ。
表情が、わずかに変わる。
次の瞬間、大きな手のひらが、俺の頭を包んだ。
わしゃ、と撫でられる。
赤ん坊の俺の頭を、ほとんど覆ってしまう掌。
節くれ立った指。
固いタコ。
なのに、その動きは驚くほど優しい。
撫でられたところが、じんわりとあたたかい。
この人が、たぶん――お父さん、かな。
よく通る声で、俺に何かを話しかけてくる。
意味は分からないけど、
せめて反応くらいは返しておこう。
「あー」とか「うー」とか。
さっきと同じような、赤子ボイスで。
男の人は、口元をほんの少し緩めた。
もう一度撫でられたいな、と思う。
その気持ちが伝わったのか。
さっきより長く、より優しく。
もう一度撫でてくれた。
何かを言い残し、男の人は部屋を出ていく。
その背中を、ぼんやりした目で追った。
そのとき。
今度は、軽い足音が跳ねてきた。
弾む声。
子ども特有の、高いトーン。
小さな影が、ぐっと近づく。
俺の顔を、真正面から覗き込んできた。
明るい色の髪。
きらきらした目。
目が合った瞬間、その子は一気にしゃべり出す。
何を言っているのかは分からない。
でも、テンションが高いのだけは、はっきり分かる。
動かない俺の手を、つんつん突いてくる。
ちょっと痛い。
すぐ横から、お母さん候補の声が飛ぶ。
その子は「ごめんなさい」とでも言うように、力を弱めた。
……これは、お兄ちゃんだろうな。
俺が「あー」とか「うー」と鳴く。
すると、その子は同じ声を真似して返してくる。
じゃあ、こっちはもう少し変な声を出してみよう。
そうすると、その子は笑い転げそうな勢いで喜んだ。
前の世界にも、家族はいた。
両親も、兄弟も。
「ここは異世界」
新しい家族なのは、頭で分かっている。
それでも、頬をなでられたり、抱き上げられたりすると、
体のほうが先に安心してしまう。
眠気も、すぐに押し寄せてきた。
……まあ、悪くないスタートだよな。
そんなことをぼんやり考えながら、
俺は、またまぶたを閉じた。




