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準備の始まり

靴を買いに行った

その日の夜は、

いつも通りだった。


テレビの音が小さく流れて、

キッチンから

お父さんの食器を洗う音がする。


私は、

ソファで膝を抱えていた。


「眠い?」


「……まだ」


「そっか」


それだけ。


昨日の話があっても、

空気は変わらなかった。


イギリス。


言葉にすると、

遠い。


でも、

お父さんの言い方は

いつもと同じだった。


選択肢の一つ。

それ以上でも、

それ以下でもない。


私は、

しばらく黙ってから言った。


「……行ったら」


「戻ってこれる?」


お父さんは、

すぐに答えなかった。


水を止めて、

手を拭く。


「戻りたくなったら、

戻る」


「それだけ」


簡単すぎて、

少し拍子抜けした。


「途中で

やめても?」


「やめても」


「怒らない?」


「怒る理由、

ない」


その言葉で、

胸の奥が

少し緩んだ。


「……じゃあ」


私は、

ソファの端を

握ったまま言う。


「行ってみたい」


声は、

小さかった。


お父さんは、

うなずいた。


「了解」


それだけ。


「いつ?」


「準備できたら」


「学校とか、

手続きとか」


「全部、

俺がやる」


当たり前みたいに言う。


「私は?」


「キキは、

寝る」


少しだけ、

笑った。


その夜。


布団に入ってから、

天井を見る。


遠くへ行く。


でも、

一人じゃない。


それだけで、

怖さは

半分になった。


翌朝。


「おはよう」


「おはよ」


お父さんは、

パンを焼きながら言う。


「今日は

パスポートの申請しよう」


「……なんか緊張する」


「わかる。

俺も初めて作る時、

そんな感じだった。」



当たり前のように

同じ目線に立ってくれる。


「でも、

今はオンライン申請だから

写真も家で撮れるよ」


私は、

少し驚いた。


「子どもは

五年用な」


「服は、

昨日買ったやつが

いいんじゃない?」



昨日、

靴と一緒に買った

少しだけ

フォーマルな服。



着替えて

リビングに戻ると、

お父さんの目が

急に真剣になった。


カーテンを

少しだけ閉めて、

光の入り方を見る。


「……目に

影が入るな」


椅子の位置を

数センチ動かす。


「顎、

ほんの少しだけ

上」


「いや、

やっぱり

下」


私は、

じっと立ったまま。


「そんなに

気にする?」


そう言うと、

お父さんは

少し照れたみたいに

笑った。


「俺の親父がさ」


「写真、

めちゃくちゃ

うるさい人で」


「光彩とか、

目の奥の光とか」


「昔から

叩き込まれてて」


聞いたことのない

話だった。


「……そうなんだ。

なんかしてる人なの?」


「まあ、

ちょっと」


それ以上は

言わなかった。


スマホを構えて、

もう一度だけ

位置を調整する。


「はい」


「まばたき

しない」


カシャ。


撮れた写真を

一緒に見る。


「……変じゃない?」


「大丈夫」


「ちゃんと

写ってる」


その言い方が、

いつもより

少しだけ

誇らしそうだった。


この人は、

本当に

全部を

用意してくれる。


これからもずっと

そう在ってくれるんだろうなと

なんとなく思った。

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