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呼び方を変えた日

生活は、

思ったより静かだった。


朝は、

だいたい各自で起きる。


キッチンに行くと、

男がコーヒーを淹れていることもあれば、

もう仕事部屋に入っていることもある。


「おはよう」


私が言う。


「おはよ」


返事は、いつも軽い。


「牛乳、もうないよ」


「了解。今日買っとく」


それだけ。


特別な会話は、ない。

でも、困ることもなかった。


洗濯機の使い方は、

私の方から聞いた。


男に任せるのは、

なんだか少し恥ずかしかったし、

施設では自分でもやっていたことを

そのまま丸投げするのも違う気がした。


「洗濯機……使ってもいい?」


「もちろん」


「施設のと違ってて。

勝手に触って変になっても嫌だから」


男は一瞬だけこちらを見てから、

立ち上がった。


「じゃ、一回一緒にやろっか」


洗面所で、

洗濯機の前に並ぶ。


「これが電源。

モードは基本はこれでいい」


ボタンを押しながら、

一つずつ説明してくれる。


「水量は自動。

洗剤はここ。

迷ったら止めていいから」


「乾燥まで基本は全自動だけどさ。

俺はシワになってほしくないやつは、風呂場に干してる」


少し間を置いて、


「キキも、そういう服があったら、

乾燥は使わずに洗濯だけにしな」



私は頷く。


少し間を置いて、

男が続けた。


「自分でやりたいなら、それでいいし。

俺がやってもいいんだったら、

洗濯機の中に入れといてくれたらいい」


選ばせるみたいな言い方だった。


「……うん」


「どっちでも大丈夫だから」


それ以上は、何も言われなかった。


選択肢が、

ちゃんとそこにあった。


その感じが、

少しだけ楽だった。


ゴミのことも、

私から聞いた。


「ゴミって……どうしてるの?」


男は少し考えてから、

いつもの調子で言った。


「んー、俺あんま家にゴミ溜まるの好きじゃなくてさ。

外出るたびに、ついでに出しちゃうタイプ」


そう言って、

キッチンの奥を指す。


「分別だけ気をつけてくれれば、

あとはいつでも出せる。この家。」


それから、

少しだけ言葉を選ぶみたいに続けた。


「だから基本、ゴミ出しは俺がやる。

キキは、自分の部屋のゴミだけ、

できれば毎日リビングのゴミ箱に移しといてくれたら助かる」


命令じゃない。

でも、

一緒に暮らす前提の言い方だった。


「分かった」


私がそう言うと、


「ありがと」


それで終わり。


お風呂のことだけは、

最初の日に一度だけ聞いた。


「お風呂……どうしたらいい?」


男は少し考えてから言った。


「俺、風呂好きなんだよね。

入ると長くなるし、だいたい遅くなる」


それから、当たり前みたいに続けた。


「だからキキは、早めに入った方がいい。

俺は風呂出たら毎日掃除してから上がるからさ」


少し間を置いて、


「入りたいときに湯船ためて入っていいよ」


でも、そこで一拍。


「ただ、あんまり遅くなるのも良くないから。

夜8時までには入って、9時には寝ること」


一瞬、私を見る。


「約束な」


「……うん」


「よし」



必要なことは、

必要なときに、

自然に言葉になった。


踏み込みすぎない。

でも、放ってもいない。


その距離が、

私にはちょうどよかった。


スタジオの扉は、

ほぼ毎日開いていた。


男は、

机に向かって

音を書いている。


私は、

床に座って

本を読んでいる。


ページをめくる音だけが、

部屋に落ちていた。


「退屈?」


「……してない」


「なら、いいや」


それで終わり。


少しずつ生活にも慣れて、

転校まで、あと少しだった。


夕方。


買い物に出てた男が帰ってきた。


「肉、買ってきたよー」


「……何作るの」


「すき焼き」


特別な日にしか

食べたことのない料理だった。


鍋の音を聞きながら、

少し期待を膨らませる。


「キキー?

そろそろできるからテーブルセットしてー」


私は、

顔を上げずに答える。


「ちょっと待って……

もうちょっとでキリいいところまで読めるから……」


「……お父さん」


声に出てから、

自分で気づく。


部屋が、

一瞬だけ

静かになる。


「了解。

キリいいとこまで読みな」


いつも通りの声。


私は、

少し安心して立ち上がる。


「ありがとう、もうちょっと待ってね」


「ほーい」


それで終わった。


何も、

変わらない。


でも。


その夜、

布団に入ってから

思い出す。


呼び方を

変えた感覚。


意識したわけじゃない。

決めたわけでもない。


ただ、

出た。


それが、

一番しっくりきた。


翌朝。


「おはよう」


「おはよ」


「……お父さん」


今度は、

ちゃんと聞こえる。


男は、

ほんの少しだけ

笑った。


「なに?

我が愛しの娘さん」


私は、

それ以上

何も言わなかった。


胸の奥に残る、

こそばゆいこの感覚が、

なぜだかとても愛おしかった。

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