音のある部屋
車は、
施設の前から
そのまま都内へ向かった。
黙ったままでも、
気まずくはなかった。
街の明かりが増え、
建物が高くなる。
車は、
一本奥まった通りに入った。
正面に、
高い建物が立っている。
見上げると、
思ったより
高かった。
エントランスは、
天井が高く、
床が光っている。
外の音が、
そこで一度、落ちる。
入って左側に、
コンシェルジュカウンターがあった。
人が複数、
中に立っている。
男が近づくと、
静かな声がかかる。
「お帰りなさいませ」
男は、
足を止めて
軽く会釈する。
それだけで、
通り過ぎる。
特別な確認も、
説明も、
なかった。
そのまま、
奥へ進む。
エレベーターホールは、
広い。
表示が、
いくつかに分かれている。
低層。
中層。
そして、
一番奥。
男は、
迷わず
奥へ向かう。
高層階専用。
男は、
カードをかざす。
短い音。
扉が、
静かに開いた。
中は、
広い。
鏡も、
広告もない。
扉が閉まると、
外の気配が切れた。
揺れは、
ほとんど感じない。
数字だけが、
静かに上がっていく。
降りる。
廊下は、
内側にある。
外は、
見えない。
足音が、
吸われる。
少し歩く。
突き当たりに、
壁みたいな面があった。
男が近づくと、
それは
何事もなかったように
開いた。
区画を分ける
境目だった。
「ここまでくれば、あと少し」
それだけ言って、
男は先に進む。
中は、
さらに静かだった。
人の気配が、
完全に消える。
もう少し、
歩く。
突き当たりに、
小さな空間がある。
専用のポーチだった。
男の腰の高さくらいの
金属の仕切り。
扉というより、
ゲートに近い。
男が軽く押すと、
音もなく開いた。
その奥に、
玄関がある。
男は、
ドアの前で立ち止まる。
カードをかざす。
短い音。
玄関が、
開いた。
「靴、
そこ」
玄関は、
広い。
床が、
きれいに光っている。
私は、
靴を脱ぐ。
揃える。
「お、えらい。
ちゃんと揃えてるな。」
部屋は、
静かだった。
音が、
吸われている感じ。
リビングは広くて、
窓が大きい。
家具は、
少ない。
「ここ、」
天井が高くて、
窓が大きい部屋。
ベッドと、
机と、
クローゼット。
「一応、
“あなたの部屋”です」
少し照れたみたいに言って、
肩をすくめる。
「足りないものは、
随時言って」
「急に完璧な生活、
始めなくていいから」
それだけ。
軽く案内があり、
男は、
キッチンで
水を飲みながら言った。
「しばらく、
在宅多めになる」
それだけ。
その日の夜。
部屋の奥に、
もう一つ
扉があるのに気づいた。
「そこ、
何?」
「スタジオ」
男は、
軽く言う。
扉を開けると、
空気が変わった。
機材。
マイク。
スピーカー。
ピアノ。
私は、
何も言わずに
中に入った。
「見てもいい?」
「もちろん」
男は、
肩をすくめる。
男は、
椅子に座って
ノートPCを開いた。
画面に視線を落とし、
指だけが静かに動く。
キーボードの音は、
ほとんどしない。
頬杖をついたまま、
こちらを見ない。
沈黙。
でも、
居心地は悪くない。
「……歌ってみる?」
思い出したみたいな声。
冗談に近い軽さ。
私は、
少し考えてから
うなずいた。
マイクの前に立つ。
最近、
よく耳にする
曲。
息を吸って、
声を出す。
自分の声が、
部屋に返ってくる。
澄んでいて、
まっすぐで、
どこにも似ていない。
途中で、
空気が変わった。
男が、
頬杖をやめた。
姿勢を直す。
椅子が、
わずかに鳴る。
その音で、
私は歌うのをやめた。
「……あ」
男は、
自分の動きに気づいて
一瞬止まる。
「ごめん」
すぐに言う。
「やめないで」
少しだけ、
急いだ声。
私は、
もう一度息を吸って
続きを歌った。
最後の音が
消えると、
部屋は静かだった。
男は、
しばらく
何も言わない。
それから、
画面から目を離して
こちらを見る。
「こういうのを、
天使の歌声って
言うのかな……」
少し考えてから、
「……分からないけど」
冗談みたいな
言い方なのに、
目だけが
違った。
「……また
歌っていい?」
「むしろ
歌って」
男からの、
出会って初めてのお願い。
でも、
無理強いしない
優しい声だった。
その夜、
自分の部屋に戻って
考えた。
歌を続けたら。
この人と、
ずっと一緒に
いられるかもしれない。
理由は、
それで十分だった。




