新選組−隠し刀未目~隔岸観火
昨晩、会津藩士が三名斬られたとの報告を受けた。
三番隊隊士の村上剣吾はその副組長兼密偵である志木と共に一度壬生寺駐屯所に赴き装備を整えると、薄浅葱の羽織りに袖を通し総長・山南敬助に出立の挨拶を済ませてから遺体を一時安置してあるという京都町奉行所へと向かった。
新選組の諜報活動においては諸士調役・山崎烝を筆頭に二番隊の島田魁が調役も兼ねる。剣吾と志木は彼らよりももっと雑用寄りではあったが副局長・土方歳三からすればこそこそ嗅ぎ回るような仕事においてはうってつけだと思わせているようである。
城主不在の二条城、京都町奉行所はその間近に構える。十四代将軍・徳川家茂や将軍後見職の慶喜が上洛した際の住居とする以外は二条在番という幕府専属の警備組織がこの城の守衛に当たる。昨今の京都ではとても治安がままならずここ長い期間を城主が居ないまま置かれていたわけだ。
つい数日前に遡り、新選組は長州浪士を軸に画策されていた京都天皇御所の焼き討ち計画を未然に防ぐという活躍を成したばかりだ。その組織の密会場所である池田家を晩に襲撃し首謀者の吉田稔麿を自刃へと追い込んだ。
それ故の報復だろうか、斬られた会津藩士というのは夜の街を警護にあたる与力同心である。
被害元から想像するに犯行は政治的な意図を感じられない一方で私怨に近いようなものといえるか。この手の捜索に新選組で駆り出されるのが剣吾と志木だ。
町奉行所の正門から堂々と尋ねる。新選組は会津藩預りという未だ非正規の組織ではあったが池田家襲撃の件より威光を放ちようやく京都の街において周辺地域の民から信頼を勝ち得るに至った。
その影響もあり最近新選組隊士を志願する挙兵参加者が多く出た為、幹部組は慌てて編隊や人員調整等に追われ忙しい様子である。
壬生寺出立の際、総長山南の机には何かの書類が山のように積まれていたが恐らくその類のものだろうか「お勤めお疲れ様です」と剣吾が言うと山南は、
「書類整理は慣れてますから」
とやや苦笑いしながらに言った。新選組における総長という格は上から三番目という大役だったがこの厳格な武装集団の上司にあって山南は大分朗らかな人格を備えている者だった。
番兵に軽く頭を下げ門を潜ると玄関口から伸びる通り庭が横手に続いた。玄関を跨がずこれを回り込んで裏へ行くよう指示された二人は築地塀を沿って奥へと進む。
近く六角獄舎を構える故にか京都町奉行所はこの混乱期にあってそこまでの敷地を備えておらず借り牢少なく同心長屋も小ぢんまりとしたものだ。塀の内側の設備は必要最低限といった具合である。
二人が通り庭を抜けるとそのまま砂利敷きの白州を設ける公事場へと出る。そういえば剣吾がまだ幼かった頃に江戸の遠山景元は亡くなったと聞いたが、桜吹雪の入れ墨を切り札にする彼の名判決というものを一度この白州の上で見てみたいものだと兄に言うと「馬鹿だなお前は、罪人にでもなるつもりか」と呆れられたものだ。
幼少の頃の記憶に耽っている剣吾に、すると前から別の二人組がやって来る。
「おや…貴方方は…」
身なりの良い藩士二人だがどうやら同心ではないよう。その羽織りには、
細川九曜の紋、熊本だ。
「新選組…ですか」
しかし相手の問いかけにも返さず、剣吾は意図せずその男の一方に目を奪われていた。
相当な美男子である。
線が細く整った中性的な顔立ちで艶のある長髪であった。対応の悪い剣吾をその端麗な切れ目で訝しく睨む。
「やはり貴方方は武士に対しての礼儀も知らない賊の集まりのようですね」
相当に機嫌を損ねた様子で、
「あいや、相すまん!」
間髪割って志木が入る。
「顔が良い者には男も女もなく見惚れてしまうのです、此奴は。気を悪くなさるな」
思い掛けずこの美男が「は?」と唖然とした表情になったが直ぐにくすりと鼻で笑い返した。
その笑い方もどこか女性のような気品を纏った独特な仕草だ。そうまで言われてはと思ってだろう。
「その家紋は熊本の方とお見受けしましたが、何故このような所に?」
「私達は熊本親兵に属しています、昨晩辻斬りがあったと聞いて未然の警護の為に調査せよと朝廷に仰せつかった」
朝廷に?剣吾の脳裏には疑問符がつくが、
「ははぁ、さようでしたか」
志木が両膝に手をかけ腰を低くしたお辞儀をする。剣吾もそれに習い頭を低くすると熊本親兵と言った二人組も態度を改めた。
藩士がいつまでも農民上がりの似非侍相手に幼稚にヘソを曲げていてはと思ったのだろう。
「では我々は失礼するよ」
美男の藩士がもう一人に目配せする、もう構うなといった感じだろうか。砂利敷きをざくざくと踏む二人は剣吾達がやって来た通り庭へとやがて消えていく。
だが志木は、
この二人の姿が見えなくなるとようやくいつもの理屈っぽい調子を取り戻しつつ、そして何事かを思い詰めていた様子だった。とその前に、
「衆道癖でもあるのかお前は」
「すみません、思わず。しかし熊本親兵とは一体何者なのですか?」
「まあ後回しだ、とりあえず私達も一度遺体の方を確認してみよう」
白州の脇に土蔵があり側には麻布を被せた三名の遺体があった。
昨晩斬られた会津藩側の同心であり血の匂いこそしたが本格的な腐敗はまだであったか。しかしながら夏場である事を考えると早い段階でこれを処理したいであろう。傍らで仲間の亡き骸を看取る一人の同心だがこちらは所司代に属する方の者か「観るなら早くしてくれ」と剣吾と志木を心なしかに煽る。
「では少々拝見つかまつる」
軽く頭を下げた志木が被せてあった麻布を捲る。
顕になった同心の遺体を見た剣吾は何かに気付いたのか、骸の内の一体を抱えその背中を確認した。
「おい剣吾」
「失敬、気になったので」
「外傷だけで何がわかるものか」
同心は嫌味を言ったが仲間をやられた事に対する無念から来るものか、それともお前達新選組のせいだと言いたいのか。何にしても敢えて二人は敬意を払う意を込め何も言い返さなかった。
しかし剣吾、この遺体を返して傷口を確認するなり直ぐに違和感を覚えた。そしてその内の一体は小手までも斬り落とされている。
「…何を気付いた」
同心に聞こえぬよう志木が小声で話す。
「ここではちょっと…一度長屋へ戻りませんか?」
何故だと眉をひそめる志木だったが亡き骸にそっと麻布をかけ直すと二人は二度同心へ頭を下げこの場を後にする。
新選組が剣吾と志木へ充てた仮住まいの貧民長屋を芦川長屋と言った。この一室を借り二人は上総から上洛して来た足軽級の下士という体で周囲から素性を隠し任務に当たっている。
実はこの名を知ったのは最近のことで隣りの一世帯と会津藩邸へ下女として通うナミから聞いたものだ。
「うちの父が宮大工せやけど、このごろは火の元が多いねんなあ」
この動乱にあって街や御所等が多く火災損失をすると建築職人がよく駆り出された。ナミの父 喜三も家屋の修繕作業によく携わったが苗字を持たない為に雇用の際に不便が生じたらしい。
すると淀藩主・稲葉正邦から喜三は直々に芦川という苗字を賜ったそうだ。
芦川とは樹木や獣などの皮を薄く剥いで鞣した建築部材である。どういった意図があって正邦はこの名を喜三に与えたのか定かではないが、この長屋に住まう者で苗字を持たない者は屋号となった芦川を名乗る事になった。
「それは名誉なことですね。芦川ナミさんって呼び名も響きが良いです」
「あらほんに?嬉しいわ」
いい加減にしろと志木に叱られた剣吾であるが、
先程京都町奉行で見た三名の同心の遺体は直ぐに火葬される予定である。昨今は特に人斬りも多く土葬だけでは場所もなくなりつつあり、またコロリや結核等の病気の蔓延も危惧されての処置だ。
早い段階で遺体の状態を確認出来たのは不幸中の幸いだったと剣吾は内心思った。志木が建て付けの悪い遣戸をがたがたと閉め無双窓から外を伺う。
「よし大丈夫だろう。剣吾よ、あの遺体に何があったのか分かるか。やはり長州の犯行だと思うか?」
「そうですね、まず辻斬りで間違いないでしょう。出会い頭で斬り合いになったようには見えませんね」
「ほう、何故だ?」
「同心二名が背後から襲われています。一人は向かって左上から右下への逆袈裟斬り、もう一人は刺突ですが腹部と背中側から胸部へ貫いた二カ所は二回刀を振ったものではなく二人がかりで行ったものでしょう」
「すると犯行は最低でも三名だな?」
「もう一人かなりの手練れが混ざり込んでいたはずです。多分四人」
夜な夜な京都の街を彷徨っていたのだ。十数の大所帯とはなかなかいかないだろう。
「…手練れ?」
「一人、小手まで落とされていたあの同心は…三人の先頭を歩いていたんです。背後から奇襲を受けて二人が倒れる時に咄嗟に飛び退いて刀を抜き構えて辻斬りと向き合った」
「その三人が先頭の同心へ一斉に斬り掛かったのではないのか?一人目が小手を落とし、それから二人目が胴を斬ったというふうに…」
「いえ、あれは精度が段違いな一太刀です」
言い切る剣吾にまさかと志木、
「小手が骨肉まで見事に斬り落とされていたものだぞ」
「そうです、斬った軌道が対面に左上から右下への逆袈裟斬りは背中を斬られた同心と同じですが…あの小口斬りになった腕の損傷は『正眼を構えた』時に直線上になるものでした」
「構えているのに動けず相手に先手を取られたというのか?相当な速さの剣閃でなけばそうはならん」
「敵と向き合って先手を取る剣の技で敢えて最強と言うならば、恐らく居合の使い手でしょう」
小手まで落とされていた、というのが剣吾の言うところの状況証拠らしい。そもそも正眼を構えるという所作は刀身を相手へ向けその間合いに入らせない為に行うものだ。これが構えごと牽制撃のないたった一閃で突破されていることになる。
向き合った相手から初動で先手を取る戦術で言えば胴を開け上段を構えるのが王道の他、新選組の天然理心流が得意とする刺突もある。だが突技は確殺を奪い易いとはいえ差し返しになる二刀目以降の振りの難易度は相応の修練を要する。
居合斬りも更に難しい技術であるがこれを剣吾が先手最強の剣技と謳うその理由は、抜刀術の根本にある精神というのが『刀はその刀身を抜いた時点で勝負が決している』というもので使い手の集中力が他の剣技のものとは次元が違う。所作は鞘から鯉口を切り刀を構える動作そこから剣撃しそして残心に至るまで、この一連の動きを一括しており受ける者は想像しているよりもずっと隙の無いものに視えるはずだ。
だが対面した相手が居合の技を真に見切るべきは鞘に隠した刀身自体のその有効間合いである。特に正面へ向き合った場合、正眼と比較して非常に測り難い。
「逆袈裟斬りを主流にしているのは、熊本の剣技です」
「なんと…」
右利きの剣士が構える場合、基本は左足を前に出し握る柄頭には左手を添える。刀を振る時は左足で踏み込み刀身を左半身へ引き抜くが、これを右足の踏み込みでやってしまうと自らの足を振り抜いた刀身で傷付けてしまう恐れがある為だ。
逆袈裟斬りや逆胴は右利きに慣れている剣士からすれば当然見切られ難いという長所がありまた引き打ちに適している為、刺突や片手打ちなどで半身前に迫り出してくる相手を迎撃しやすい。
新選組では三番隊組長の斎藤一が左利きだったが彼の基本の所作も右利きのもので立ち合いによって左右を入れ替えるという巧妙な剣術を用いた。
「熊本の伯耆流は居合の極意も持ちます。逆袈裟斬りから見ても恐らくその剣技でしょう」
「ううむ、なるほど。お前この手の知識はあるのだな」
志木が剣吾に感心する一方、この辻斬りが熊本の剣であるという推測には眉間にしわを寄せざるを得ない。
町奉行所ですれ違った二人組が脳裏を掠める。
「熊本親兵とは一体なんです?」
剣吾の質問は最もである。
志木 曰く、
大老・井伊直弼が安政の大獄を行うと反発する諸侯も当然現れた。京都は動乱の中心となり天皇に救済を求める声が徐々に高まる一方で御所を焼き討ちしようとする等の苛烈な運動も起こる。
ここで朝廷は自らの警護に当たらせる為に熊本から選抜された勇士達をその膝元へ送るよう熊本藩に発した勅命が熊本親兵であるという。
しかしこの熊本親兵、
八月十八日の政変が起こり長州藩が京都から失墜するとこれを擁護していた朝廷の内で公卿であった三條実美公と共に護衛の名目で連れられ長州へと亡命してしまうのである。そもそも尊王攘夷の思想がかなり強い者たちの集まりであったが長州藩はそのまま三條公を藩内に保護することで引き続き攘夷の大義を得ている。
それ以来、熊本親兵という名のものはてっきり解体されたとばかり思っていたのだが。
「剣吾、我々新選組はつい先日に池田家を制圧し京都御所焼き討ち計画を未然に阻止した」
「それが何か…?」
「彼らの中核を担っていた宮部鼎蔵が元熊本親兵だ」
朱塗りの楼門は荘厳でありまた祇園神社が祀るのは牛頭天王とその八王子であったが、ともすると厳格な雰囲気が特にありそうなものだ。
だがその近く原野には六阿弥が宿坊として貸座敷を設け営んでおり、つまり遊廓だ。これだけ世が混乱している最中にはあるが男という生き物は分かりやすいもので溜まるものは溜まる。歌舞遊宴の名目でこの辺りは痴話喧嘩こそあれ男は各々出自を隠し女を抱きに来るので抗争を起こさないことが人々の暗黙の了解だった。
夕刻近く、鈴虫寺といえば全く逆方向だったがこの時期の京都であればどこでもその凛の音は聴こえただろう。貸座敷の集落へは帯刀して入ることが出来ない為それら往返客に成りすまして近くそこ此処の廃屋に攘夷志士達が寄り集まっていた。
然るに場は険悪な雰囲気である。
「まさか久坂君の懐刀にあの河上彦斎を迎え入れるとは思わなかったぞ」
その額に三日月傷を持つ男、桂小五郎が新たなその顔ぶれを訝しく見る。
艶のある長髪の美男が僅かに冷笑するが果たしてこれを褒め言葉だと捉えたのか。河上はまた別に三名の熊本親兵を名乗る者達を連れるが桂は他の者を全く知らない。
「桂さんもその岡田以蔵を連れているではありませんか。同じことですよ」
久坂玄瑞は彼らの内の若き旗頭だ。吉田松陰が営んだ松下村塾の出で、松門四天王の内の一人と呼ばれた。
高杉晋作、先の池田家襲撃事件により自刃した吉田稔麿、此処にいる入江九一、
だが吉田松陰から最も評価された塾生とはこの久坂玄瑞であった。
「長州から彼らを先鋒に寄越したのは真木さんの意思です」
入江が言うと桂は驚いた表情だ。
「宮部さんが新選組に討たれたと聞いて仇討ちの機会を頂戴したつもりでやって参ったのですが?」
「馬鹿な…今そんな事をしては長州は暴発してしまうぞ。稔麿君が策に失敗したばかりなのだ」
「桂さんはそう言うと思いましたよ。だから真木さんは我々を寄越した」
岡田以蔵は楊枝を咥え戸口の傍らでただ彼らを傍観している。同じ『人斬り』と呼ばれた河上彦斎であったが品性からして全くの別物であった。気に入らないのは確かだが長州浪士達の意向に関してとやかく言う筋が岡田にはない。桂を守れと高杉に命を受け事を成すだけである。
真木保臣は桂にとっても盟友と言えた志しを持つ者だったが長州の中ではやはり強行派であり、また元水戸藩士で水戸学後継者の祠官という経緯がある。そのせい攘夷思想に関しては熱烈なものを持ち合わせていた。
流石の岡田もこの辺りは気になったようで、
「夜に会津もん斬ったんはお前らじゃなかが?」
「随分な物言いですね、私達は知りませんよ」
「以蔵、やめろ」桂が短く岡田を制すると納得いかなそうに引き下がる。
桂としてもこれ以上長州の強行派が朝廷に拘る事を避けたかった。ただでさえ孝明天皇にはもやは長州藩の動向など一部たりとも信用されていなかったのだ。
たがしかし朝廷の内にはまだまだ長州の尊王攘夷を支持する赴きは幾らかあり実際三條公に関しても京都からの公卿落ちを降されたとは言え藩はその保護を賜っている。
「近く、真木さんが福原老中をお連れになられ上洛する」
「…なんだと!?」
長州藩家老・福原元僴は世の中に攘夷論が上がると真っ先にその志士達を支援した、彼らにとっての正しく大御所という存在である。
だがもし福原が上洛するとなれば朝廷との一触即発は避けて通れないだろう。そのような選択肢を真木は取ろうというのだ。
「我々、長州の者の冤罪を朝廷に訴える為だ。先の政変以降この扱いは存外極まりない」
「それは久坂君や入江君の意向もあってか?来島さんが暴走しているのだろう」
下手をすると長州が朝敵となり得る危険な行為だ。
別動隊を率いる来島又兵衛は真木の思考に最も近い長州志士のように桂は感じていた。久坂を京都での攘夷運動の頭目として扱う一方で来島の活動に対する制御はいまいち足並みの揃わないもののように見える。
「朝廷に我々の失墜を取り下げて頂くのだ、戦争をする為ではない。その為には福原様がいなければ孝明天皇は我々の御前にお出にならない」
それが久坂の真意ではないことは桂にも分かっていたことだが、本来味方となるはずの来島を始め強行派の焦りは相当に顕著だ。これを抑えつけられない状態まで来ているというのか。
そしてどうやらこの長州の強行派に対して妙な煽りを入れる連中が内部に紛れ込んでいるらしいことを桂は感じ取っていた。
この密会を切り上げた後に桂。河上が連れる素性の分からない残りの熊本親兵三名の素性を探ることにした。
起きてはならない事は起こる。
松代藩の名士であり砲術家としてもその名を馳せていた佐久間象山が三条から南側に位置する木屋町通りにて襲撃されその命を絶った。
象山は幕府の発した公武合体を推した一方で同時に開国論も唱えており佐幕倒幕を隔てなく両者に忌み嫌われている節こそあったが。特に大砲の鋳造や硝子の製造開発また銃器訓練等、知識人としての功績が多くありまたこれを習いに吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬等の名のある者がその門を叩いたというので徳川家茂の命を受け京都に馳せ参じていた。
しかしながら象山の京都での活動には開国進取という先の開国論があり天皇御所を彦根に移転させようという試みを持つものである。特に奇人として知られた象山は自らに護衛も付けず各所要人の元へよく馬を走らせたがこれが非常に不味かった。
木屋町通りの宿舎を活動拠点とする象山はその馬上で斬られ落馬した遺体は首も取られずそのまま放置されたが翌日の朝方、街には報国忠義士を名乗る者達の手により佐久間象山を斬ったのは自分達だという貼り紙が出回った。が誰もがこの時期にそのような犯行を行うのは長州に関係する者に違いないという錯覚を抱くのは自然なところで、
然るに、黒船に密航しようとした松陰はその搭乗以前象山に計画の旨を相談したという。松陰に親しかった者を長州の者が斬ったとあればこれは相当に遺憾なことであろう。
「面倒な事になった」
二条大橋からほど近い場所に芸者置屋がありそこに一時潜伏していた桂。
京都へ来て、桂は幾松という舞にも芸にも優れた羞花閉月というほど名の知れた芸者と親しくなった。彼女は折々身を隠す場所を変える彼へその一室を貸す事がある。
「あれは河上らの仕業かえ?」
今は珍しく岡田も同席している。岡田は桂の懐刀としてその身を守り護衛こそするが普段からあまり接触をすると桂の身元が割れるので少し距離を置いた所で乞食等に紛れて野宿をする。
何より岡田には罪人の入れ墨がありこれを見られると京都で暗躍し辛くなる。彼が人目を避けるのはごく日常的な事ではあった。
「そうだな、その事についてだが…」
「…なんじゃ桂さん」
「河上を討てないか?」
少し岡田は考えたが、
「桂さんが言うんは、その真木が京に来る前にやろがか…?ちっと、えずいき」
無論、剣の腕で負ける気は岡田にはなかったがやはり河上の潜伏場所を探る時間とそして桂と久坂との兼ね合いを考え『攘夷の異端者』として大義名分し斬る手筈を今から整えるのは難しい。
桂は長州藩家老・福原元僴が朝廷に接触しようとするのを避けたいようであるが藩政に疎い岡田からしてもかなり険しい段階にまで来ているように思えた。
それにしてはあの桂が柄にも無く暗殺を頼むとは岡田も少々驚いたが、
「河上が連れていた残りの三名について調べてみたのだが…」
「なんじゃ?」
「一人は杉浦虎太郎という、これは河上や宮部と同じれっきとした熊本親兵だった者だか…」
桂の言葉が淀む。残り二人の出自に問題があろうことは間違いなかった。
「橋口壮介と田中謙助という二人が、寺田屋騒動で過激派の薩摩浪士に組みしていた残党だ」
一瞬唖然とする岡田。
「…えらいことなったな。つまり幕府に辻斬り煽っとんはその薩摩もんがか」
「実は真木さんは、長州に逃れた後であっても薩摩の志士達とは水面下で繋がりを持っていた…あの大久保利通にもだ」
寺田屋騒動は京都で薩摩の過激派と慎重派がぶつかり合った攘夷志士達から見ても悲愴な事件であった。
薩摩藩主・島津久光を擁立しこれに乗じて藩内の過激派攘夷志士達が上洛を果たそうとした試みである。これを察知した久光公は過激派に対する鎮撫隊を結成したが、当初は説得のもとに過激派を帰藩させる予定であった。しかしこの寺田屋で激論から交戦となり同藩で斬り合いとなってしまったものだ。
しかし元々この過激派が久光公を擁立するという企画には、実は真木保臣は長州からの支援者・発案者として一枚噛んでいたのだと桂は言った。不仲な薩長を取り持とうという試みは当時から常にあったという。
だが、
「西郷隆盛に利用されているのだ」
桂はそう言った。声を荒げはしなかったがその言葉には底しれぬ憤りがあった。久光公は島津の者にしては時代を見据え柔軟な考えが出来る人物であったがそれを日和見とみなす者もいる。薩摩の過激派を率いる西郷には特にその態度は現れていた。
今はまた新選組に御所討ちを暴露され間もなく佐久間象山の暗殺となれば、倒幕思想を持ちながらも会津に擦り寄り長州を朝敵に吊し上げようとする動きを見せてきた薩摩が果たして黙っているだろうか。
河上が連れる橋口と田中が薩摩の間者なのか単独行動としてなのか、だが真木はその事が分からずに久坂の元へ彼らを寄越したとは桂には思えないが。
「以蔵、福原老中の上洛はもはや避けられない。私も藩の交渉には尽力しよう。だがもし混乱が起きてしまったとして…そうだとしても」
桂らしくない表情だと岡田は思った。
「河上から目を離すな」
新選組全隊へ出動要請が発せられた。
大砲 頭取・山本覚馬の持つ部隊の指揮下に入り朝廷の警護に当たるとの事である。幸いにも新選組は近頃増員の目処等もたち武芸に秀でる者とそうでない者とが入り混じった状態ではあったが、刀を携え槍を持てば馬子にも衣装そして藁人形も衣装柄だ。
会津藩自体の兵力は徴収しても凡そ千五百ほどでしかなく、かさ増し程度であるが新選組の手を借りたいのは本音か。
幕府連合は、会津、薩摩、桑名、越前と名を連ね総勢八千を超える兵を集めたが。何故か此処に長州の失脚を最も強く唱えた薩摩のその本隊は未だ訪れず西郷隆盛の姿は視えない。
これに対し長州藩家老・福原元僴が京都へ率いた兵が二千ほどである。連合側の読みとしては福原老中が朝廷へ失地回復の談判を決行するもこれを門前で連合側が阻めば泣く泣く長州へ引き下がるであろうとの見込みである。
京都に来て新選組副局長・土方歳三は山本の黒谷本陣にて銃戦の指南を受けたこともあり以来親交深くしているようで「山本さんならば」とその傘下で隊が動く事に関して取り分け抵抗が無い様子であった。
局長・近藤勇に至っては山本の祖先があの武田信玄の伝説的軍師である山本勘助の子孫という事もありとても敬わった様子で、近藤は特に三国志等の軍記書物を好んで嗜むこともありこの隊の采配に関してお任せ致しますと言っただけに留まる。
「結局のところ、私達は別行動となるわけだが」
志木はいつも通りと言わんばかり。
土方からするとやはり御所周辺で起こる混乱は特に気になるところ。山本傘下にあり今回は自らの判断で大きく隊を動かす事が出来ない為、普段から諜報活動をさせる山崎烝、島田魁と平時には暗黙の粛清役である斎藤一、そして剣吾と志木それらに珍しく自由を与えている。
柄にもなく会津藩士の武者袴を身に纏い、天皇御所周辺に防衛を張る諸藩連合の群れに紛れる。他の調役はそれぞれが長州兵が陣を展開している京都の西と南西にその身を潜め、新選組本隊は南側の鴨川 勧進橋周辺の布陣を任された。
大将となる福原とその隊は凡そ七百ほどで既に伏見の長州藩邸に入京している。
時刻は亥の刻四つ、夜も大分更けたが街には通りに松明が灯され諸藩連合が厳戒態勢を張っている。
「長州は果たして動くでしょうか?」
剣吾が聞くと、
「五分五分、と連合が言っているが…兵力差を見せ付けて撤退させるつもりのようだな。だが土方さんは合戦が起きると見てる」
でなければ諜報役に別行動させたりはしないか。
剣吾には芦川長屋のナミが気になっていたが、ともすると普段会津藩邸で下女をしている。御所周辺では特に戦火に巻き込まれる恐れがあり、果たして避難ができたのか心配なところだ。
長州も連合側もお互いに兵を構えるこそすれ今はまだ『戦争』という定義を取ってはいない。表向きは長州藩が朝廷へ嘆願書を持ち寄る体となっている。丁寧に法螺貝を吹き陣鐘を鳴らし「さあ開戦」などという見栄のよい事など当然しない。何がきっかけになるかは分からなかったが少なくとも長州の陣営が一斉に天皇御所に向かって雪崩込んでくるという様子はなかった。
ただ志木は一つ気になったことが、
「街に薩摩が少ない」
「出遅れてるみたいですね、真打ちを気取っているつもりですかね」
「さあな、あの西郷が考える事だ。血が流れることにまるで容赦がない」
剣吾にもかの西郷隆盛という男には末恐ろしい人物であるという認識ぐらいはある。
福原の大隊が南方の伏見から徐々に天皇御所へ向け進軍しているという知らせを受け皆々がその方角を固唾を呑んで見守っていた。
その最中、
この兵対兵の大事にしてなんとも矮小な二十数名ほどの小隊が御所南方の堺町御門の前、諸藩連合の兵が固まるこの眼前にまで来ていたのである。
「長州藩家老、福原元僴がこれより大君へ参上 仕る!門を開けよ!」
諸藩連合の内の当然会津が激昂した。
「無礼であるぞ!先鋒風情が名のある頭目も連れず門を開けろと申すか!」
奇妙だ、何かがおかしい。
剣吾がそう感じた次の瞬間、
だんっ!だだんっ!
とあろう事か天皇御所に向かって銃声が鳴り響いたのである。
京都の南西、山崎天王山に布陣していた真木保臣の隊は凡そ三百ほど。
そこに久坂玄瑞と桂小五郎の姿もあった。桂も当初、隊を率いると言ったがこれを久坂に止められ「今はまだ我々を見守って下さい」とその参戦を拒否されたのである。福原が上洛をする際、兵の大半が街へ入ることを拒否された為それぞれを各方面へ分隊したがこの天王山に陣取った真木隊は他隊より街までの距離が離れており福原大隊に動きがある頃に合流する為には合図を待たず進軍を始めておく必要があった。
久坂の懐刀とした河上彦斎率いる熊本親兵の姿は此処には見えず桂はやはり岡田に彼らを追わせて正解だと思ったが、真木の真意が気になっている。
「真木さん、久坂君へ送った熊本新兵という者達ですが…」
桂を制す真木。
「分かっている桂君。だが宮部君が討たれたままでは彼らを制御出来なかったのだ」
「ではあの薩摩の者達は…?」
「寺田屋の件では上意討ちから生き残った過激派が一時的に偽装投降したのだ。その後逃れた者達が私を頼ったところを登用した」
真木の責任感に付け入る隙を見つけたのか、しかし危険だ。薩摩がこの残党を全て回収しなかったところには何か良からぬ試みを桂は感じずには得ない。
「新選組が池田家を襲撃してからこれまで、京での一連は西郷の思う壺です!」
他の者の争いに横槍を入れるのが上手い男だ。現に今もまるで先の政変をなぞっているような、桂は二度その屈辱を味わされている錯覚を受けていた。
そして此処に来て真木隊はその進軍を早めなければならない事態に陥る。
街の様子がどうもおかしい。
前方から明らかに焦りの表情を見せた斥候が砂を蹴り慌てて駆け寄ってくる。
「報告します!街が…!」
「どうしたというのか!?」
「福原老中が天皇御殿に到達する前に御殿に向けて発砲があり街に火が放たれました!」
「馬鹿な!」
これでは長州が逆賊も同然の扱いとなろう。
「やむなく各隊進軍を開始しました!天皇御殿に向かって来島隊が西から、益田隊は勧進橋方向から、入江隊は福原大隊より先の伏見街道を先攻し北上しています!」
「我々も直ぐに進軍を開始する!」
だが斥候は続ける。
「凶報があります!」
「喧しい!まだ何かあるのか!?」
「開戦と同時に御殿北方に薩摩の西郷この本隊が千の兵を引き連れて姿を現しました!」
「おのれ西郷!数を紛らわして長州が手を出すのを待っていたのか!?」
西郷が狙っていたのは長州藩の失脚程度生温く、
彼らが朝敵となることを望んでいたのだ。
乱戦が起こるのは早く更にこの闇夜、周囲に潜んでいた長州兵が続け様に発砲した。
この援護を受け先の堺町御門前まで詰め寄ったニ十数人の長州兵が刀を抜き肉薄すると諸藩連合も応戦すべく銃隊が射撃をするが、
この長州兵の先鋒隊が一枚上手であった。
「やめろ!味方に当たっている!」
誤射を誘発。加えて深夜の暗がりである。
相当に白兵慣れしているようで諸藩連合は数百と取り囲んでいるにも関わらず手が出ない。槍兵が入れ替わり前へと出るがこの時、周辺家屋には火の手が上がり思わずそちらへ注意が削がれる。短銃を持った長州兵の装填が終わり二度目の射撃に移ると長物を構えた連合兵達は呆気なく撃たれ倒れた。
長州兵は明らかに市街戦を意識しており、それに比べて諸藩連合は兵力差を見せ付ければ相手が引くものだと高を括っていたせいか兎に角足並みがすこぶる悪い。
刀の柄に手をかける剣吾にだが、
「待て」
志木が制す。
「…しかし!」
「長州が優勢なのは今だけだ、それにお前の仕事は此処の守備ではない」
「会津の者がやられています!」
途端、
どかんっ、と門前で爆炎が上がる。長州兵が癇癪玉を用いたのか辺り一帯が煙りに包まれる。殺傷力があるものでは無かったようだが皆々の視界が悪くなり合戦の猿叫がより凄まじいものになった。
「頭を冷やせ、それよりも西に展開している来島隊が一番御殿に近い。時期 蛤御門前に来る」
「では、どうすれば!?」そう言う剣吾に志木が広がる煙幕の中、顎で天皇御所の北側を指し示す。
「どうやら西郷の指揮する部隊が北に潜んでいたようだな。しかしあまりにも折が良過ぎるとは思わないか?」
ぞくりと、剣吾にも悪寒が走った。
「まさか街に火を放ったのは…」
「いや分からん、断定は出来ないが。だが先に御殿に向けて発砲した者は恐らくまだそこらに潜んでいる」
連合も守備を固め今はもう小競り合いどころではなくなった。確かに思えば先攻の発砲は家屋から放たれたように感じた。表に出る隙を伺っているに違いない。
街の西からは来島隊が、南からは福原大隊が進軍してくるとなれば。
「此処は正規兵に任せて一旦離れろ剣吾。西郷はこのまま室町大通りを進行してくるだろう。小路の方に張って発砲した犯人を待つんだ。私は一度新選組の本隊へ戻って報告をする」
薩摩の部隊に接触しようとする者がいれば其奴が犯人だが、いなければ長州の仕業だということか。
言うと諸藩連合の群れの、その隙間を縫うように駆けていく志木。
剣吾はこの逆方向へと疾走った。
未だ動悸が鳴り止まなかった橋口。銃を撃った手が汗で湿り緊張し震えている。
発砲したのだ、御殿へ向かって。
天皇、即ち神の子孫にである。
だがこの冤罪を被るのは自分達ではなく長州藩だ。やってやったと、この大業はもう誰に打ち明ける事もなく腹の中に納め墓まで持って行く事になるだろう。
そしてその一蓮托生の者達。長州や熊本親兵を出し抜いてかつての寺田屋騒動で逃れた橋口壮介と田中謙助は河上彦斎を取り込み薩摩の西郷隆盛の元へ逃れようとしていた。
残りの熊本親兵を煽り本隊とは別の、偽の先鋒隊を促させた。流石に白兵達者であり堺町御門の前で奮戦を魅せる。杉浦虎太郎は見事な剣士ではあったが熱烈な攘夷論者でもありこの先鋒隊の頭をやらせるのは二枚舌の田中には得意分野であった。
寺田屋騒動の時、島津久光の派遣した鎮撫隊に宿を囲まれ残りの過激派浪士達は抗戦を唱えたがこれを抑えたのが田中だった「久光公の構想も我々と同じものを持っている」と虚言を使い共に投降させたのである。
橋口と田中にとって熊本親兵は西郷の元に逃れるまでの手札に過ぎなかった。久坂の管轄とは言えなかった熊本親兵は一枚岩ではない長州の兵とはやはり独立をしている。残りの者も上手く街に火を放ち自分達に退路を築かせた。
「今が潮時じゃ」
橋口が言うと田中が頷く、河上はただただ黙していた。
屋外の喧騒を確認すると三人は裏口から路地へと出る。深夜にも関わらず街には火の手が上がり鬼気なる明かりを灯した。熊本親兵が門前でひと暴れしてくれているお陰で彼らを気にする者はなく、町人はまず避難を最優先した。
三人が室町小路に駆け入ると僅か間一髪で西側から進行してきた来島又兵衛が率いる六百の軍勢が蛤御門に雪崩込んで来た。危うくこの姿を見られるところであった。
来島隊と諸藩連合の交戦が起こる中、門前を尻目にこの小路を北上する三人だったが、
「止まれ」
河上が言う。
「どした?」
「橋口、お前は御殿へ向かって発砲をした」
「手筈通りじゃ、あんご長州が請け負うたろ」
すると河上、くくっと怪しげな冷笑をするとゆらりと刀の柄に手をかけた。
次の瞬間、
たんっ、と橋口の胴が地面に落ちる。抜刀様の鋭い逆胴だった。
「河上!我達を裏切っか!?」
叫ぶ田中が刀を抜くが河上に臆し、足は震え腰が抜け構えにもならない。
「お前達はもう既にあの頃に死んでいる。あまりにも見苦しい。同志杉浦を死地に向かわせたのだ、報いは受けてもらう」
「…う、うぁ…」
一目散に駆け出した田中。西郷の本隊が来るだろう室町大通りへ出ようと懸命に走るが、これを河上は追わない。
何故なら、その先に一人の土佐浪士が刀を手に待ち構えていたからだ。
「ぎゃっ」と短い悲鳴を上げて田中が倒れる。岡田以蔵の一太刀だった。
「仲間割れかよ」
「岡田、つけていたか」
「儂だけじゃなか」
「なに…!?」
河上が振り返ると、そこにいたのは新選組三番隊隊士・村上剣吾である。
「お前は…新選組!」
まさか出会い頭に三竦みになるとは思わなかった剣吾。
足元の見事に胴が跳ねられた遺体は岡田の太刀によるものではない事ぐらいはわかる。もう一人、今しがた岡田が斬ったと思われる浪士は果たして長州の者だろうか。
少なくとも三人が敵同士なのは間違いがなかった。
「小僧、其奴は河上彦斎。人斬りぜよ」
「なに…」
岡田はこの者を知っているのか。よもや町奉行所ですれ違っていた者が人斬りである。
その犯行を確認しにきていたのか美麗秀麗な顔と出で立ちに思わず惑わされていた。
「おんしらの方が因縁があるみたいじゃき、小僧に譲っちゃる」
「岡田、お前は私に勝てないと思っているからでしょう?」
「阿呆ぬかせ」
挑発には乗らない岡田。
実際は岡田と河上からすれば西郷の部隊が蛤御門まで南下してくる前に退きたいはずだった。剣吾は二人に共闘されれば勝ち目は無いがその内、西郷の本隊が辺りを包囲すれば二人は逃げ切れないだろう。
しかし一方で岡田は新選組である剣吾に対し決して背中を預けることはできない。
少し考える仕草をする剣吾が、
「いいでしょう」
そう言って小太刀の二刀を抜いた。
ほう、と河上が面白いものを見るような目をする。
そのはず小太刀の長さで超神速である河上の抜刀術を相手にするのは不得手にもほどがあった。剣吾の小太刀二刀は攻防が一体となった剣術ではあったが居合斬りを対面にして敢えて後の手を取ろうとするのはあまりにも無謀。
だが岡田は何かに気付いた様子だった。
剣吾が構える型は上中二刀だが腰を幾分落とした。それに対し河上は左膝を深く曲げ右足を踏み込む様な更に低い独特な前傾姿勢を取る。
河上が獲物の鯉口を切りその柄に手をかけた。
初手の一刀で全てが決まるだろう。間合いを測る二人が互いに摺り足でじりりと詰め寄る。
背後、蛤御門の合戦の悲鳴は大きくなり火の手が回る家屋は倒壊するものもある。夜を照らす朱色が揺らぐ小路の影を急かす。だが刀の間合いに入れば間違いなく先に一閃するのは河上の方だ。
近く木が焼け弾けた音がすると奇をてらう隙を伺っていた剣吾。
拍子に、
「…っ!?」
思わず声にならず喉元を詰まらせる河上。
ひゅっと、右の目元を何かが掠めたのだ。剣吾が地を蹴り距離を詰める。
刹那、河上が僅かに苛つき刃を抜くが、さんっとこれが虚空を斬った。
「おのれっ!小僧が!」
抜き付けに続く二の太刀が下段から跳ねるが既に刀身は『物打ち』より深くこれを剣吾が左の小太刀で受ける。一刀目で勝負が決まっていたのだ。
捌き様に右の小太刀で振る片手平突きはだが、河上が咄嗟に身を捻りこの胴を捉えきれず右の肩を僅かに割いただけであった。
飛び退き、肩から滲む血を拭う河上。
「姑息な!小僧」
これを見ていた岡田がげらげらとその背後で笑っている。
「河上、負けは負けじゃ!不様じゃのう!」
斬るより植え付けた河上への屈辱がよほど楽しいらしい。離れ傍観していた岡田だが以前に剣吾の剣を賊だと言った者だ。剣吾が考える仕草をする時、口の中に楊枝を含むのを見逃さなかった。
村上剣吾と一度立ち合い、その剣術が王道から外れたものであることをよく知っている。
「お前の顔、覚えておくぞ!」
言って河上は焼け落ち炎上する家屋に消えて行く。
離れた岡田はやれとした表情。河上を追って此処に来たのだろうか剣吾には分からなかったが、斬られた二人の浪士がどうやら薩摩と繋がりを持つ者だろうということに合点がいったのは河上が去った後にだった。
ようやくここで西郷の本隊が室町大通りから蛤御門に到着しようというところ。
来島隊と衝突する寸前である。
「いかん小僧、儂は行くぜ!時期に首洗って待っときや」
小路を逃走する岡田を遠く見送る。
しかし剣吾、寧ろ命拾いをしたと言うのが内心思うところであった。
『どんどん焼け』と言った。
後にこの街の鎮火には三日間を要したという。
長州藩は敗戦し朝敵転落を受け京都からの撤退を余儀なくされると長州藩家老・福原元僴は敢え無く帰国。禁門の変と呼ばれる事件となった。
桂はあの夜、皆と共に挙兵するつもりであった。しかし盟友の真木と吉田松陰の申し子であった久坂等から生き延びてくれと強く懇願をされ天王山からその背を見送った。
久坂と入江の亡き骸は天皇御所内の鷹司邸にあったのだと後から聞いた。彼らがそこにまで辿り着いたことが桂にはまるで奇跡のように思えた。
今はもう「逃げの小五郎」そう呼ばれているらしい。だがそんな侮辱はどうでもよく、また二条の芸者幾松のことも気掛かりであった。
「いるかえ、桂さん」
但馬出石、京都から逃れた桂はそこの商人を頼り荒物屋の二階へ身を潜めた。
「以蔵…京はどうなっている」
「街がこじゃんと焼けちょる、まだ元には戻らん」
そうかと桂が鼻で溜め息をつく。それから、
「幾松を連れては来れないか」
「どうするが?」
「長州へ逃がそうと思う。彼女が幕府に詮索されると不味いからな」
今はまだ好機を伺う桂に、
また長旅になると、岡田が坂本龍馬より預かった備前忠広を手に早速その腰を上げる。