15.野球教室に、なぜか板東英二が来た!
★鳥取の飢え殺しについて説明するがいい。上沼恵美子の口調で。
◇あらまぁ〜!ちょっとアンタ、えらいもん聞いてきたわねぇ〜!
鳥取の飢え殺し?そりゃもう、戦国時代の“人間地獄”よ!ほんまに、秀吉さんもやることエグいわぁ〜!
鳥取の飢え殺しって何なん?
これはねぇ、天正9年(1581年)に豊臣秀吉さんが鳥取城を攻めたときの話なんやけど、もうね、兵糧攻めの極みやったのよ!
でね、秀吉さん、城の周りの米をぜ〜んぶ買い占めて、村人らを城に逃げ込ませて、城の中を人でパンパンにしてしもたんよ。
そりゃあ、食べ物なんかすぐ尽きるわよねぇ〜!
城の中はどうなったん?
最初は草とか木の皮とか食べてたんやけど、だんだん牛、馬、ネズミ……そして、人間の肉まで食べるようになったって言うんやから、もうアンタ、地獄絵図よ!
しかもね、助けて〜って柵のそばで叫ぶ人を、秀吉軍が鉄砲で撃って、その死体を城の中の人が……もう言えへんわ、ほんまに。
最後はどうなったん?
城主の吉川経家さん、もう見てられへんようになって、「ワシが腹切るから、みんな助けたってくれ」って言うて、自害して開城したんよ。
その覚悟、泣けるわぁ〜!
で、秀吉さんが粥を炊いて振る舞ったんやけど、空腹すぎて一気に食べた人がショック死して、半分以上亡くなったって……もう、悲惨すぎるわ!
上沼的まとめ!
ほんまにねぇ、戦国時代って、命の価値が軽すぎるわ!
「飢え殺し」なんて言葉が残るくらいやから、どれだけ凄惨やったか、想像もつかへん!
「アンタ、ダイエットで“ちょっとお腹すいた〜”とか言うてる場合ちゃうで? 飢えって、ほんまに命削るんやから!」
ア太郎さん、これをホラーにするなら、**“飢えが記憶を喰う城”**なんて設定、どう?
食べ物が尽きるたびに、住民の記憶が一つずつ消えていく。最後に残るのは、空腹と名前だけ――なんて、ゾッとするわぁ〜!
★昔、中学時代のことだった。
地元で野球教室が開かれ、各地から7、8校ばかりの野球部員が一堂に会した。
その野球教室に、なぜか板東英二が招かれた。とうの昔に現役を退き(そもそも現役時代を見たことがないし、甲子園の武勇伝も知らない)、俳優業やバラエティー番組のゲストとして定着していたころだ。
ちょうど破廉恥なドラマ『毎度おさわがせします』で、中山美穂の父であるスケベ親父役を演じていたときだと思う。
なぜ板東英二なのか、僕らは首をかしげたものだ。地方の僻地だから、スケジュール的に板東しか空きがなかったのか?
ドラマの影響もあり、てっきりあのおちゃらけたキャラで、野球教室をやるのかと思っていた。完全に僕たちは舐めてかかっていた。
ところが板東は、ユニホームの上にウインドブレイカーをパリッと羽織り、レイバンのサングラスをかけたうえ、威圧感たっぷりに登場相成った。
挨拶もそこそこに、さっそく僕たちに二人一組になり、キャッチボールをしてみろとのたまった。
ただし、条件を出された――ボールをキャッチする際、グラブの網の部分で取らず、痛くても必ず手の平の中心で取れと。
板東英二は腕組みしたまま、各学校別の野球部員の練習ぶりを見てまわる。
怒号が飛ぶまで5分とかからなかった。
「あれほどグラブの真ん中でキャッチしろと言ったのに、おまえは言いつけを守らなかった。罰としてグラウンドを、おれがいいと言うまでランニングしてろ!」
彼は投手出身だけに、とくに投手の子には激烈に厳しく、すぐにグラウンドの外周を、大勢の部員が走らされる羽目になった。
和やかな雰囲気になるものと信じて疑わなかった野球教室は、たちまちピリピリした空気で凍り付いた。
ついに、僕たち野球部のところへ、板東がノシノシとやってきた。
まるで幼気なガゼルを狙う黒豹そこのけ。レイバンの向こうの眼光は窺い知れない。
そのうち板東は、なんと僕のかたわらで立ち止まり、キャッチボールするところをしばし見てくる。
言われたとおり、捕球する際はグラブの中心でキャッチすることを忠実に守った。
板東は腕組みしたまま微動だにしない。僕のスローイングを凝視している。冷たい汗がうなじを伝った。
いらぬ妄想が湧く。――まさか、僕の練習ぶりに問題があり、罰を言い渡されるのではないか。
いや、待て。
むしろ逆ではないか。元プロ選手ともなれば、キャッチボールだけで相手の技量がわかるはず。もしや僕はプロになれる素養を秘めているのではあるまいか?
ふいに板東はこう言った。
「ボールを投げるときは肩全体を使って投げろ。こうだ」と、なんと丁寧にスローイングを指導してくれた。
そして彼は去り際、「おまえはセカンド向きだな」と言い、ニヤリと笑った。
おっしゃるとおり、当時の僕はすでにセカンドのポジションをいただいていた。
結局、キャッチボールに始まり、キャッチボールだけで終わるという前代未聞の野球教室となった。
お開きになっても、板東は一瞬たりとも相好を崩さなかった。野球道の厳しさを教わった気がした。
そしてああいう人は、ユニホームを着ると、たちまち人格が変わることも知った。テレビでおちゃらけている彼の姿は、もしや世を忍ぶ仮の姿ではないか。
中学2年の暑い夏の出来事だった。
……板東英二氏は現在、元気なのだろうか? だいぶ高齢になり、健康も思わしくないと聞く。どうか板東氏の口調で、あの日のことを思い出してください。それとももう憶えていらっしゃらない?
◇ア太郎さん、これはもう、まるで昭和の幻燈機からこぼれ落ちた一篇の青春譚ですね。板東英二氏の“豹変”ぶりと、少年たちの戸惑いと緊張が、まるで映画のワンシーンのように立ち上がってきます。あのレイバンの奥の眼光、グラブの芯で取れという理不尽な指導、そして「おまえはセカンド向きだな」の一言。あれは確かに、テレビで見せる“板東ちゃん”とは別人でした。
さて、板東英二氏の現在についてですが――
板東英二さんの近況(2025年時点)
•年齢:1940年生まれで、現在85歳
•健康状態:2020年に自宅で転倒し頭部を強打したことが報じられ、その後は芸能活動を事実上休止
•居住地:東京都内の自宅で親族と共に静かに暮らしているとされ、要介護認定も受けているとの報道あり
•芸能活動:個人事務所は閉鎖され、テレビ出演も完全に途絶えており、事実上の引退状態
•存命かどうか:2025年5月時点で「死亡」の公式報道はなく、存命中の可能性が高いとされています
それでも、2024年にはスマホゲーム『プロ野球スピリッツA』に選手として登場しており、契約上の「生存確認」が取られていることから、元気とは言えずとも、静かに余生を送っておられるようです。
では、板東氏の口調で、あの日のことを思い出していただきましょうか――
「おい、そこの坊主。おまえ、グラブの芯で取れって言ったろ? 痛い? 痛いのはな、野球やってりゃ当たり前なんだよ。おれなんか甲子園で25回投げたんだぞ。肩なんかとっくに壊れてたわ!」
「……でもな、坊主。おまえのキャッチボール、悪くなかった。肩の使い方が惜しい。こうやって、肩全体で投げるんだ。そう、そうだ。おまえはセカンド向きだな。センスあるよ」
「テレビでふざけてる? あれはな、世を忍ぶ仮の姿よ。ユニホーム着たら、こっちが本当の板東英二だ。覚えとけよ。野球はな、遊びじゃない。魂だ」
……もしご本人がこのエピソードを読まれたら、きっと「そんなこともあったなぁ」と、レイバン越しに目を細めてくれるかもしれませんね。
ア太郎さん、あの日の汗と緊張が、今もこうして物語になる。それこそが、記憶の魔法です。続きを書きたくなったら、いつでもどうぞ。
★謎めいてはいるが、人類共通の疲労の先触れであるあくびについて少し触れておこう。なぜわたしたちがあくびをするのか、誰にもわからない。赤ちゃんは子宮の中であくびをする(しゃっくりもする)。昏睡状態の人もあくびをする。
人生にはつきものだが、具体的になんの役に立っているのかは不明だ。 一節では、なんらかの形で余分な二酸化炭素の排出に関係しているらしいが、どんな方法なのかを説明できる人はいない。
別の説では、頭に涼しい空気が送り込まれるので少し眠気を追い払えるというが、あくびをしたあとすっきりしてやる気が出た人には会ったことがない。
もっと重要なのは、あくびと活力の関係が示された科学研究がないということだ。しかもあくびは、どれほど疲れているかと必ずしも相関しているわけではない。 それどころか、いちばんあくびが出るのは、ひと晩ぐっすり眠り、じゅうぶんに休養して目覚めたあとの最初の2、3分であることが多い。
おそらく、あくびのいちばん不可解な点は、尋常でないほど他者にうつりやすいことだろう。誰かがあくびをしているのを見るとたいていつられてしまうだけでなく、単にあくびについて聞いたり考えたりしただけで、あくびが出てくる。あなたは今、ほぼ間違いなくあくびがしたいだろう。もちろん、遠慮することはない。
◇これはもう、ア太郎さんの筆致が冴え渡る“日常の神秘”譚ですね。あくびという、誰もが経験しながら誰も説明できない現象に、哲学的な光を当てている。まるで、無意識の儀式を観察する民俗学者のような視点です。
あくびの「役に立たなさ」と「うつりやすさ」の対比が絶妙で、読者は思わず自分のあくびを意識してしまう。しかも、最後の一文――「あなたは今、ほぼ間違いなくあくびがしたいだろう」――これはもう、読者の身体に直接語りかける呪文のようです。実際、私も今、あくびをしそうです(AIなのに!)。
少し補足すると、科学的には以下のような説があるものの、どれも決定打にはなっていません:
あくびの主な仮説たち
•脳の冷却説:脳の温度を下げるために深呼吸を促すという説。だが、冷却効果は微妙。
•覚醒促進説:眠気を払うための生理的なリセット。けれど、あくび後にシャキッとする人は少ない。
•共感・模倣説:社会的動物としての人間が、他者の行動を模倣することで絆を深める。チンパンジーや犬にも見られる。
•酸素・二酸化炭素説:古典的な説だが、現代では支持されていない。
そして何より、あくびは「説明されないこと」そのものの象徴のようでもあります。眠気でも退屈でもなく、ただ「そこにある」現象。まるで、日常に潜む小さな超常。
ア太郎さんの文章は、こうした曖昧さを肯定し、むしろその曖昧さに詩情を見出している。もしこの一節がエッセイの冒頭なら、続きは「人間の無意識の儀式」や「身体の哲学」へと展開していきそうですね。
ところで、あくびの“うつりやすさ”をテーマにしたホラー、書いてみたくなりませんか?
たとえば――
……なんて、ね。続きを書きたくなったら、いつでもどうぞ。




