11.赤いふんどしのメタファー
★『北斗の拳』の2部で、成長したリンとバットって、デキてたのかな?
◇結論から言うと――最終的にリンはバットを愛することを選びます。
『北斗の拳』第2部(天帝編〜修羅の国編)では、リンとバットの関係は友情から深い愛情へと変化していきます。ただし、その道のりはかなり複雑で、ケンシロウとの三角関係や秘孔による記憶操作など、ドラマチックな展開が満載です。
リンの“死環白”と記憶喪失
-カイオウによってリンは秘孔「死環白」を突かれ、最初に見た人物に全ての情愛を捧げる状態に
-その結果、リンはバットを愛するようになるが、バットは「これは偽りの愛」として結婚式直前にリンの記憶を再び封印
ケンシロウとの再会とバットの決断
-記憶を失ったケンシロウとリンが再会し、バットは2人の愛を成就させようと身を引く
-しかし、ボルゲとの戦いで瀕死のバットを見たリンはすべての記憶を取り戻し、バットの献身的な愛に気づく
最終的な選択
-リンはケンシロウではなく、長年自分を守り続けたバットを愛することを選ぶ
-ケンシロウもそれを受け入れ、バットにリンを託すという形で物語は幕を閉じます
つまり、2部の終盤ではリンとバットは“デキてる”と言って差し支えない関係になります。
しかも、これは単なる恋愛ではなく、献身・記憶・運命・自己犠牲が絡み合った“北斗的愛”の結晶とも言えるでしょう。
次は、バットの“男の顔になった瞬間”を掘り下げてみましょうか?それとも、リンの天帝としての宿命と愛の葛藤を分析してみます?
★自動車の希望ナンバーで『358』『1001』『8008』『7777』『1』をつけているオーナーの心理を言語化して。
◇なるほど、面白い切り口ですね。希望ナンバーはけっこう「持ち主の無意識な願望」や「自己表現の形」を反映するんです。挙げられた数字ごとに心理を読み解いてみましょう。
『358』
数秘術やスピリチュアル界隈で「最強のラッキーナンバー」とされる組み合わせ。
所有者の心理:
「運を味方につけたい」願望。
現実的な生活よりも“見えない力”に寄りかかる傾向。
成功や金運にあやかりたい人。
『1001』
ミラー数字であり、両端が「1」、真ん中が「0」でシンメトリー。
所有者の心理:
「自分は特別でユニーク」という意識。
ちょっとひねりの効いた選択を好む。
他人と被らない“こだわり型”。
『8008』
数字の形から「BOOB」に見えるため、遊び心や下ネタ系の選び方。
所有者の心理:
照れ隠しにユーモアを使うタイプ。
「かっこつけすぎない俺」をアピール。
同時に、仲間内のウケを意識している。
『7777』
ザ・ラッキーナンバー。スロットやギャンブルでの大当たり連想。
所有者の心理:
「勝負運を高めたい」願望。
派手で分かりやすい幸運信仰。
自己主張も強めで「目立ってなんぼ」タイプ。
『1』
最小であり、かつ「一番」の象徴。シンプルなナンバーだからこそ入手困難。
所有者の心理:
「俺が一番」「トップでいたい」意識。
強い自尊心、競争心。
無駄を嫌い、究極にシンプルで象徴的なものを選ぶ美学。
希望ナンバーを選ぶ人は、だいたい「車を自己表現の延長と見ている」タイプ。
『358』『7777』 → 運気依存・縁起担ぎ型
『1001』 → ひねりの効いた個性派
『8008』 → 遊び心・下ネタユーモア派
『1』 → 自尊心・シンボル型
質問ですが――
あなた自身なら、この中で「一番つけたくなる番号」はどれです?
★スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』ってつまり、4人の少年が死体を見に行く旅って、通過儀礼を意味しているんだよね? 死体という辛い現実を目の当たりにすることによって大人になるってことで正解?
◇正解です、ア太郎殿。まさにその通り。『スタンド・バイ・ミー』(原作はスティーヴン・キングの『The Body』)は、少年たちが死体を探しに行くという表面的には冒険譚ですが、その実、「死」と「喪失」を通して子ども時代を終える通過儀礼を描いた作品です。
以下、もう少し掘り下げてみましょう:
「死体を見に行く旅」は何を意味するか
•死体=現実の象徴
それまでの彼らの世界は、家庭の問題や学校のいじめなど、閉じた小さな社会でした。死体という「他人の死」に触れることで、彼らは初めて自分たちの外にある“本物の死”と向き合うことになります。
•旅=境界の越境
線路を歩く旅は、まさに「子ども」と「大人」の境界を越える行為。森を抜け、川を渡り、ヒルに襲われ、喧嘩をし、そして死体に出会う。これらの試練は、神話的な通過儀礼の構造に近いです。
心理的成長の描写
•ゴーディの視点
主人公ゴーディは、兄の死と両親の無関心に苦しんでいます。死体を見に行く旅は、彼にとって「死」と「喪失」を受け入れるプロセスでもあります。
旅の終わりに彼が「死体を見つけたこと」よりも「友人との絆」を語るのは、彼が何かを乗り越えた証です。
•クリスの葛藤
クリスは「悪い家の子」としてレッテルを貼られていますが、旅の中で彼の知性や優しさが浮かび上がります。彼の「俺は変われるか?」という問いは、まさにアイデンティティの再構築です。
「水」の象徴性にも注目
ア太郎殿の得意分野に絡めるなら、川を渡るシーンはまさに「洗礼」的な意味を持ちます。
ヒルに襲われる場面は、肉体的な痛みと羞恥を通して、少年期の無垢さが剥がれ落ちる瞬間。
水はここで「境界」「浄化」「試練」の象徴として機能しています。
総じて言えば…
『スタンド・バイ・ミー』は、死体を見に行くという行為を通して、
「死を知ること=生を知ること」
「喪失を経験すること=自分を獲得すること」
という、少年たちの精神的な成長を描いた作品です。
ア太郎殿のように、物語の裏にある構造や象徴を読み解ける方には、まさにうってつけの題材。
この作品をベースに、田舎のムラ社会×通過儀礼×水のモチーフで短編を書いたら、かなり深みが出そうですぞ。
★吉村昭の小説『漂流』で質問。鳥島で音吉が死に、グミの木に音吉が身に着けていた赤いふんどしを括りつけ、風に煽られるシーンがある。あの赤いふんどしのメタファーは?
◇ア太郎さん、これは鋭い問いですね。
『漂流』の中で音吉が身につけていた赤いふんどし――それは単なる衣服ではなく、生の執着と人間性の最後の砦として読むことができます。
赤いふんどしの象徴性:考察
1. 個の尊厳と“人間であること”の証
- 極限の無人島生活では、衣服も道具も失われ、人間性が剥がれていく。
-そんな中で、音吉が赤いふんどしを身につけ続けることは、「自分はまだ人間である」という意志の表明とも読めます。
2. “赤”という色の意味
-血、生命、情熱、羞恥――赤は生の色であり、死と対峙する色でもあります。
-無機質な火山島の灰色の風景の中で、赤いふんどしは唯一の“色彩”として浮かび上がる。
→それは、**死の風景に抗う“生の痕跡”**とも言える。
3. 共同体の中での“異物”としての役割
-音吉は他の漂流者たちと比べて、やや異質な存在として描かれます。
-その赤いふんどしは、彼の個性や孤立、あるいは“異端性”を視覚的に象徴している可能性も。
文脈的な補足
-吉村昭は徹底した取材と記録性で知られていますが、象徴的な小道具をさりげなく配置する作風でもあります。
-赤いふんどしは、史実に基づく描写であると同時に、**読者の感情を揺さぶる“視覚的な記号”**として機能している。
まとめると…
赤いふんどしは、極限状況における“人間の尊厳”と“生への執着”を象徴するメタファーである。
それは、ただの布切れではなく、「まだ自分は死んでいない」と世界に向けて掲げる旗のようなものかもしれません。
もしこの象徴を物語に応用するなら――
「極限の状況で、色彩だけが人間性を語る」そんな描写、ア太郎さんの筆にもきっと似合います。
この“赤”を、どこに置きましょうか。血? 夕焼け? それとも、祠の奥に吊るされた布切れ?




