子爵令息と侯爵令嬢のささやかな秘密
夜会、というやつが苦手だ。
家の――もう少し正確に言えば父上の手前、出なければいけない、ということは理解している。それは仕方ない。家同士の付き合いだってあるし、ぼくが生活できるのはだいたいその家のおかげだ。だから出席は、ちょっとした義務と言っていい。
苦手なのには理由がある。ぼくは他人と会話するのが得意じゃない。話題の引き出しというやつが少なすぎるし、どうにも気の利いたことが言えない。だから夜会のような場では、所在のない気分を味わってしまうことになる。
たまに優しい御令嬢が気を遣って声をかけてくれたりもするけれど、ぼくにできるのはせいぜいぎこちなく愛想笑いをしてお話を合わせるくらい。会話がきちんと続いたためしがない。
「あの」
「はい」
声をかけられて振り向くと、そういう優しい御令嬢が立っていた。
肩のあたりで揃えられた、ふわりとカールする向日葵色の髪。すみれ色の瞳。目線はぼくよりも少しだけ低い。なめらかな曲線の白い頬は、月並みな表現でいえば上質な磁器のようだった。白磁の肌に、薄く紅の引かれた唇が彩りを添えている。
どこに出てももてはやされそうなほどに可憐な御令嬢が、ぼくにどのような用事だろうか。面識はなかったはずだよな、と、束の間必死で頭の中を探る。
「セフェル・スタール様、でいらっしゃいますか?」
くっきりとして綺麗な、でも抑制の効いた声。
心臓が止まりそうになった。一瞬、止まったかもしれない。不意打ちにしてはあんまりだと思う。
ぼくは反射的に周囲を見回した。誰も、ぼくたちの方を注目してはいない。彼女の声は、周囲の誰の耳にも届かなかった、ということだろう。
「――いいえ、私はリートベルグと申します、レディ。シアル・リートベルグ」
内心で冷汗を流しながら、かろうじてそう答える。
ぼくはそのセフェル・スタールという名を――ぼくの筆名を、ひとりにしか明かしていない。10年以上の付き合いになる親友。若くして、とある出版社を切り盛りしている。あいつから漏れることなどおよそ考えられる話ではないから、なにかの勘違いか、でなければただの冗談の可能性の方が高い。
「存じ上げておりますわ。わたくし、ソフィアと申しますの。ソフィア・グローツィア」
ぼくの乏しい知識でも知っているような名が出てきて、少々腰が引ける気分になった。グローツィア。レオンフェルデン侯爵家。家格で言えば侯爵家の中でも上から2番目。ぼくが紹介もなしに話しかけられるような相手じゃない。幸か不幸か、あちらから話しかけてくれたわけだけれども。
――いま、『存じ上げてる』って言いましたか? ぼくを? 家格第2位の侯爵家の御令嬢が?
新たに加わった動揺を押し隠すように、手にしたグラスに残っていたワインを呷る。少々礼を失するかもしれないけれど、そこはどうか許してほしい。
「スタールというのは、あれでしょう、グローツィア様。いま大層話題の――」
「ソフィアとお呼びくださいますか? ええ、『ユーラリア』の著者のスタール様」
勘違いにしては確証がある振る舞いだし、冗談にしては目が真剣に過ぎる。ぼくは小さく片手を挙げて給仕を呼び、空になったグラスを下げてもらった。どう答えたものかな、と思いながら、御令嬢に向き直る。
「あれは筆名で、スタール氏はどこにも顔を出しておりません。出版社すら本人が誰なのか知らないのでは、とも聞いておりますが、ソフィア様」
それは紛れもない事実だった。ぼくが連絡を取るのは版元であるラウルス社の社主にして年来の親友であるバルドだけだ。バルドが教えてくれたところによれば、ラウルス社の中では社主執筆説まで出ているそうだから、バルド自身はぼくとの約束のとおり、ぼくのことをどこにも明かしていないはず。
熱心な愛読者――そう、『ユーラリア』シリーズはちょっとした流行小説なのだ――は、著者の正体探しに躍起になっているけれど、ぼくは名乗り出る気がない。
物語を書いて金を稼ぐことは、この国では上品な行為とは見なされていないからだ。貴族が手を染めるようなことではない、と。だからぼくはそのことを、家族にさえ伝えていない。
ある意味で、目の前のこの令嬢――グローツィア家の御令嬢の台詞は、とても失礼なものでもある。お前は身分を隠して下賤な行いに手を染めているのだろう、と言っているのだから。
それを指摘するべきだろうか、と迷ううちに、彼女の方が口を開いた。
「リートベルグ様、すこし夜風に当たりながら、お話をさせていただけませんか?」
――断るべきだった、のかもしれない。ぼくはその提案に乗ってしまった。
「シアルとお呼びください、ソフィア様」
答えながら、もう一度軽く右手を挙げる。近付いてきた給仕の持つトレイから、きめ細かな泡を弾けさせているスパークリングワインのグラスをふたつ手に取り、バルコニーへと出た。
幾組かの男女がバルコニーの片隅で、あるいは手すりにもたれて、会話を交わしている。ぼくはなるべく目立たない端のほうを選んで、手すりのそばに場所を見つけた。どうぞ、とグラスのひとつを御令嬢に手渡す。
優雅な仕草で、御令嬢がグラスを受け取る。その形のよい指の爪のそばに、特徴的な膨らみがあった。頻繁に手紙でも書くのか、ぼくと同じようになにかの研究をしているのか、あるいは侯爵家の手掛ける事業のひとつも任されているのか。ぼくの手にもあるそれは、ペンだこと呼ばれている。
ぼくは少し、この御令嬢――ソフィア嬢に、親近感を抱いた。
グラスを受け取ったソフィア嬢は、バルコニーの手すりに柔らかく身体を預けた。ぼくよりもよほどくつろいだ様子でいる気がする。
「さきほどのお話ですけれど」
口火を切ったのはソフィア嬢の方だった。ぼくは黙って頷いて先を促す。
「シアル様、あなたがスタール様だと考えたことには理由があります。『ユーラリア』の舞台、アルトフェルツ王国のモデルはメリディアと言われておりますが」
愛読者というのは、それはもう熱心にいろいろなことを調べ、考える。ユーラリア――主人公の名なのだけれど、彼女が活躍する王国はたしかに、海を挟んだメリディアをモデルにしている。メリディアはわが国、オレアン王国と同じく、技術革新を経験している。順序としてはわがオレアン王国が先、メリディアが後。だが、後発であっただけに、メリディアにおける技術革新の進展はわが国よりも遥かに速かった。
もちろん、それをそのまま物語に使うことなどできないから、少々設定をいじっている。ぼくの作品の中で、技術の革新は汽力と機械力ではなく、魔力の活用によって行われる。現実から離すために、架空の世界を舞台にすることにした、というわけだ。とはいえ、読む人が読めば、わが国とメリディアの歴史に着想を得ていることはすぐにわかるだろう。
「読者の間では、有名な話です」
ぼくはそう答えてもう一度頷いた。
「シアル様、あなたは、メリディアへの留学経験がおありでしたね?」
「ええ、たしかに、私はメリディアに留学したことがあります。2年ほど。しかし、留学したことのある者ならば他にも数多くおりましょうし、そもそも足を運ばずともメリディアの歴史については、高等教育を受ける者ならばひととおり学ぶものです」
遠い辺境であればともかく、海を隔てているとは言っても、その距離はそう遠いものではない。情報もいろいろと出回っているのだから、話の骨格はオレアンを出ずとも組み立てられて不思議ではない。そう論駁するぼくに、ソフィア嬢はゆるゆると首を振る。
「歴史の大まかなところについては、そうかもしれません。でも、シアル様、あれを書かれたのが実際にメリディアへ行ったことのある方、と考えたのは、そこが理由ではないのです」
ぼくは首を傾げた。歴史では、ない?
「城館や庭園の描写。貴族の邸宅の描写。細かな陰影や光の加減、その時々の状況に応じた描写で、主人公の心情や置かれた状況を示しています。あれはきっと、その場で見た者にしかわからない、書けないことだ、と」
「……そうでしょうか?」
「もしそうでなければ、スタール様はわたくしの考える以上の俊才だと思います。筆を執る方が実際に見たもの以外は書けない、などとは申しません。でも、あの壮麗な城館の中の描写のあとで、下町の、余所者が容易に足を踏み入れられないような路地を、街の大通りの情景と併せて描写するなど、実際に見たこともなしに誰ができましょう?」
残念ながら、ソフィア嬢の言うとおりだった。ぼくはたしかにそういう場面を書いたし、実際にそういうものを見ている。壮麗な部分を表に出してはいても、見えない部分に案外汚れや傷はあるものなのだな、と思った。自分で小説を書くときに、そのことを思い出しもした。
「……なるほど。しかし、それだけで著者が私とは、なんとも乱暴な」
「他にも。あの物語は、新たな技術を携えてきた主人公が、社会をすこしずつ変えてゆくお話、とわたくしは理解しています。その中で、社会に生じた、一見わかりにくい欠陥――時代とともに生じてきた欠陥を、具体例を挙げながらわかりやすく描写しています。むしろ、それが物語の中心になってさえいる。ああいうことは、それを学んだ方でなければ、なかなか書けるものではありません」
ソフィア嬢は、なかなかに――というよりも、かなり熱心な読者のようだった。極まってくると、解題のようなものを書く読者もいて(それなりの高位貴族もいた。極小部数を豪華な装丁で作って、自分のサロンで配るのだ)、しかもぼくの意図と違う解釈をしていたりして、なんだかたいへんな疲労を感じたことが一度ならずある。
「たしかに、私は汎学院で、近世史――それも、技術革新がもたらした問題の調査や研究をしております。ですが、そのような研究者でメリディアを訪ねた経験のある方は、両手で足りるような数ではないでしょう」
ぼくはなおも反論を試みる。ソフィア嬢には動じた様子がない。
「はい。仰るとおり、それだけならば幾人もの候補者がいらっしゃいます。他にも条件が」
「――たとえば?」
「お若いこと。文章はたいへんしっかりした骨格で書かれているので、古典からなにから、かなりの量を読まれたものと考えています。でも、ごく最近の流行の言い回しを使っておられたりもする。そもそも、お年を召した方には、小説をものするということへの忌避感が強すぎますから」
「まあ、たしかに、私はさほど歳が行っている方ではありませんが」
「それから、本業――と言いますか、文筆業以外のお仕事をなさっていないか、少なくともあまりお忙しくないこと。近世史学を修めておられたとして、その分野の先頭に立たれるような方はとても多忙です。おそらく、汎学院の教授などをされている方も。そういった方では、あれだけのものを書く時間の余裕があるとは思えません」
図星を突かれて、ぼくは少しだけ顔をしかめた。たしかに、ここ最近の――ことに、『ユーラリア』シリーズが売れだしてからのぼくは、執筆の隠れ蓑として研究をしている。というよりもむしろ、研究をしているふりをしているに過ぎない。
とはいえ、少々失礼な物言いではないか、とも思う。
「あまりはかばかしい成果を挙げているわけではありませんが、面と向かってそう言われると」
そう言いながら、ぼくはこの会話を打ち切る気にもなれずにいる。
ソフィア嬢は、たぶん、読みながら、どういう人物がこれを書いたのか、ということを考えていたに違いない。それだけ熱心に読んでくれることは嬉しいことだし、ここまでの話を聞く限り、ぼくが書きたかったこと、『このように伝わってほしい』と思いながら書いたことを、かなり正確に汲んでくれている。小説を書くぼくにとって、いちばんありがたいタイプの読者のようだった。
「――失礼いたしました、シアル様。すこし、夢中に、なってしまって」
慌てたように、ソフィア嬢が頭を下げる。形だけの謝罪ではない、というくらいのことは、ぼくにも声音と態度ですぐに理解できた。
「ああ、その、お顔を上げてください、ソフィア様。あなたが皮肉や悪意で仰っているのでないことはわかります」
素直に顔を上げてくれたソフィア嬢と、改めて視線を合わせる。
ほの暗いバルコニーの片隅でも、彼女の美しさは際立っていた。柔らかそうな白い頬の、そのなだらかな輪郭を、室内から漏れてくる明かりが浮き立たせている。
ぼくがこれ以上追及をされたくないのなら、話を終えるのは簡単だ。嘘でもなんでも彼女の言葉を否定して、彼女の非礼を改めて指摘して、話はここまでだ、と告げればいい。それで済む。そのはずだった。
「……しかし、たしかに、私は候補のひとりになれそうではありますが、あくまでも候補のひとりに過ぎないのでは?」
ぼく自身の秘密を守る、という観点で言えば、ぼくがやったことは自殺行為に等しい。逃げられるチャンスを自分で潰して、話を続けようとしてしまうなど。
そのことに気付いたのだろう。ソフィア嬢は、とても意外そうな顔をして、そしてとても嬉しそうに笑った。心臓が大きくひとつ跳ねるのを意識しながら、ぼくは彼女の言葉を待つ。
「仰るとおりです、シアル様。それで、わたくし、考えたのです。ラウルス社からも一切、スタール様の正体が漏れないのはなぜかしら、と」
「それは……契約なりなんなり、いろいろと理由があるのでしょう」
「ええ。そのために、ラウルス社の中では、社主様ご自身で執筆されている、という噂まで立ったことがあるとか。社主様も御多忙ですから、わたくしはそのように考えてはおりませんが」
噂が立ったのは事実だ――社主のバルド本人から、笑い話としてそう聞いた。間違いない。
「でも、普通に考えれば、少々おかしなところがあります。小説の出版を望むならば、まずは編集者のところへ原稿を送るなり、持ち込むなり、ということになりますね」
「……そのようですね」
「となると、その段階で、編集者、それもおそらく複数の編集者に、顔や本名が知られるはずなのです。これだけの話題になるのですから、どこかから漏れてもおかしくはない。なのに、漏れるどころか、社主自らがペンを執っているのだ、という噂まで出ています」
たしかにそれは、ソフィア嬢の言うとおりではある。
「つまり、スタール様は、編集者を通さずに、噂の対象である社主様のところへ原稿を持ち込める。未発表の原稿を、直接持ち込んで読んでもらえるような関係――とても個人的な関係です」
個人的な関係。年来の親友。
「シアル様、ラウルス社の社主、バルド・ラスール様とは、長いご友人でおられますね?」
ぼくは小さく笑って頷いた。内心の焦りを誤魔化すための笑みだった。
「ソフィア様、よく調べておられる。それに、推理も素晴らしい――まるで探偵――そう、『名探偵ウルフ』のようです」
僕が出した名前は、最近巷で大人気の探偵小説。ぼくがそうと意図したわけではないけれど、まるで、それこそ探偵ものの犯人のような台詞だ、と、口に出してからそう思った。
まあ、とソフィア嬢が嬉しそうな声を上げる。
「ソフィア様、たしかに私は候補……それも有力な候補でありえる、ということはわかりました。しかし、証拠もない、言ってみればあなたの推理ではそうなる、というだけのお話なのでは?」
ふふ、とソフィア嬢が笑う。とても嬉しそうな、勝利を確信した笑み。手には封筒。夜会用のドレスのどこから取り出したのか、封を切ってある封筒から、幾枚かの手紙を出して、ぼくに示した。
「証拠なら、あるのです。シアル様、ひと月ほど前に、メリディアの近世史……技術革新後に起きた貴族の権威の失墜について、手紙で質問を受けたことを憶えておられますか?」
「――まさか、それは」
「わたくしです。ああ、このお話のためでなくとも、同じような質問はさせていただいたかと思いますが。わたくし――と申しますか、グローツィアの家は、ラウルス社にも出資をしておりますので」
「そこから……聞いた、と?」
「いいえ。書店で並ばなければ手に入らなかったり、ともすれば奪い合いになる本を、ほんの数日早く、届けていただける程度ですわ。わたくしがラウルス社から聞いたわけではなく、一度お邪魔した際に、机の上の原稿が目に入ってしまいまして。もう刊行済みのものでしたが、お手紙と筆跡が」
ぼくは大きく息を吐いて、暗い空を見上げた。動かぬ証拠、というやつだ。逃げようがない。
「ソフィア様、このことは、どうかご内密に……」
「お認めいただけるのなら、シアル様、ふたつお願いがあるのです」
「私にできることであれば、何なりと」
それ以外の何が言えるというのだ、と思いながら、ぼくはそう口にした。
「ひとつめは、その……サインを、いただきたいのです。わたくしが持っている『ユーラリア』の初巻の、初版本に」
「は」
間の抜けた声が出た。サイン。したことがない。親しい間柄であれば筆跡でわかってしまうかもしれない、と断り続けてきたからだ。だが、事実を知っている相手ならば、もう断る理由がない。
期待と不安が入り混じった目でぼくを見つめるソフィア嬢に、ぼくはゆっくりと頷いた。
「……もうひとつは?」
尋ねるぼくに答えず、ソフィア嬢は手にしたグラスから、細やかな泡を立たせる液体を飲み下した。
「わたくしの秘密も、聞いていただけますか、シアル様?」
すこしだけ声を落として、ソフィア嬢が言う。
「聞いて差支えないことならば、ソフィア様」
そう応じたぼくに、二度三度と逡巡して、ソフィア嬢は顔を近付け、囁いた。
「アルトゥール・ワイズマンです、スタール様」
「は……は!?」
ぼくは反射的に身を引いて、ソフィア嬢を見つめた。ソフィア嬢が照れたように視線を逸らす。
「え、『名探偵ウルフ』の……? いや、でもあれは男性名で」
「はい」
ソフィア嬢が頷く。
3年ほど前から刊行され、もはや国民的大ヒット作と言っていい探偵小説の傑作。著者は筆名で、正体は明らかにされていない。ソフィア嬢は、その著者――アルトゥール・ワイズマンが自分だという。
緻密な設定、探偵ウルフと相棒のフォックスの友情、悪漢どもとの仮借ない暴力の応酬、意外でありながら常に納得感のある真相。
あれを? 目の前の、この可憐な見た目の女性が? わざわざ男性の名前で?
顔に浮かべてしまったいくつもの疑問を、ソフィア嬢は読み取ったのだろう。
「女の名前では出せない、と言われたのです。だから」
知恵を意味するソフィアという名を、ワイズマン――賢い男、という姓に変えた。男の名を付けた。
「お疑いなら、シアル様、わが家にいらしていただければ、未発表の原稿が――」
「いいえ。私の正体を暴いたあの手際は、まさにウルフのものでした。あなたであれば納得できます」
ひとつ息をついて、ぼくは続ける。
「あなたの秘密をお引き受けしました、ソフィア様。このことは、私の胸にしまっておきます」
「ありがとうございます、シアル様。わたくしも、あなたの秘密はわたくしだけに」
視線を交わして頷きあい、ぼくたちは次の予定を決めた。ぼくが、彼女の家を訪れることになっている――無論、その前に、手紙のやり取りをして、招待状をいただいてから、という手順を踏んでのことになるのだけれども。
その気になればいくらでも話は尽きなかったと思う。でも、夜会には終わりがあるし、そもそもずっとバルコニーに居続けるわけにもいかない。ぼくたちは頃合いを見て広間に戻り、挨拶をして別れた。
※ ※ ※ ※ ※
半月ほどの後。
幾度かの手紙のやり取りのあと、ぼくはソフィア嬢の家――グローツィア家に招待された。先方は家格の高い侯爵家なのだし、子爵家の三男坊などどういう扱いをされるか、と心配したけれど、ぼくは温かく迎え入れてもらえた。
ご両親を交えて当たり障りのない話を済ませ、ではあとはふたりで、と解放される。ふたりで、とは言っても、同じ応接室の片隅で話すことを許される、という程度だ。それでも、ふたりで小説の話をして、ささやかな贈り物を交換するには十分だった。
ぼくはソフィア嬢が持っているぼくの本にサインを入れ、ソフィア嬢はぼくが持ってきた彼女の本にサインを入れる。いくらか小説の話をして、それから例の手紙の話になった。その手紙は、ふたりの椅子の間の小さなテーブルに載せられている。
「あのお手紙、本当は、取材のつもりでお出ししたものなのです。わたくし、『ウルフ』の新作で、メリディア出身の亡命貴族を登場人物に据えようかと」
「……私の正体を知るための手管ではなかった、と?」
「はい。お父様を通じて、汎学院の教授に、メリディアの近世史にお詳しい方を、とご紹介いただいて。仕事の上での必要がある、ということにして。本名も筆名も知られたくなかったものですから、別の名前を作って」
なるほど、と思いながら、ぼくは頷いた。想像だけで書けることはあまり多くない。早々に限界が来るし、とりわけ『ウルフ』のような現実世界を舞台にした作品ならば、下調べを綿密に行わないと、すぐに粗が見えてしまう。それは読者が物語に入り込むことを妨げるものだ。
「いただいたお返事が丁寧で、読み返すうちに、『ユーラリア』と似ている、と思ってしまったのです。言葉の使い方や修辞、リズムが。最初はわたくしの勘違い、と考えたのですけれど、読めば読むほど共通点が多くて」
彼女は最後の証拠のように言っていたけれど、つまり、ぼくが書いた手紙と小説との間にある共通点に気付いたことが、ぼくの正体が暴かれるきっかけになった、という話だったのだ。ぼくは小さく笑う。
「これでは当面、論文など出せそうにありませんね」
わずか数枚の手紙から、共通点に気付いた読者がいる。どうしても長文にならざるを得ない論文など出せば、どこでどうぼくと繋がってしまうかわからない。査読者が『ユーラリア』の読者でない保証などどこにもないのだ。
「しかし、つまり、ソフィア様、きっかけも最後の証拠も、私の書いた手紙だった、ということですね」
ぼくのその台詞を聞いたソフィア嬢が、背筋を伸ばしてぼくを見つめた。
「そのことですけれど、シアル様、わたくし、ひとつ謝らなければなりませんの」
「……覚えが、ありませんが」
夜会のときの一件は、その場で決着がついている。彼女は謝罪し、ぼくはそれを受け入れた。もとより大した話でもない。それ以外に、謝られるようなことには覚えがなかった。
「わたくし、あなたに嘘をつきました」
件の手紙は、椅子の間に置かれた小さなテーブルに、まだ載せられたままだ。その手紙を隠すように、小さく白い、彼女の手が押さえている。
「この質問が、ということですか?」
「いいえ。わたくし、あなたの原稿は拝見したことがありませんの、シアル様。ですから、証拠などなかった――あなたのご指摘のとおりだったのです。わたくし、嘘をつきました」
ふ、と笑いが漏れた。
証拠などなかった。つまりラウルス社にも、バルドにも、落度はなかったのだ。ぼくは見事に、彼女のブラフに騙されたことになる。そうであっても、腹は立たなかった。ただ、その見事な手際への敬意だけがある。
「だとしたら、ソフィア様、あなたはまさしく名探偵だ――正体を隠した犯人を、見事に自白させたのですから」
ぱっと顔を上げたソフィア嬢は、これまで見た中でいちばん可愛らしい女性だった、とぼくは思う。
まだ手紙を押さえたままの彼女の手に、ぼくはそっと自分の手を重ねる。小さく手が動いて、でも、彼女は手を引いたりはしなかった。
「お互いに、約束しませんか、ソフィア様。嘘はもうこれきりで。これから嘘は、お互いの物語の中だけに」
「――はい、シアル様。喜んで」
夜会というやつは苦手だ。それはこれからも変えられないだろう。
でもぼくは、夜会から得るものがない、という意見には賛成しない。たぶん、この世界で唯一、お互いの正体を明かせる相手に巡り会えたのだから。




