第70話 戻れない
真家レニとの配信の翌日の朝、暗いうちから満は起きていた。
その姿はなぜかルナ・フォルモントの姿だった。
「ふむ、そうか映り込んでしまったのか。注意せねばならんな」
と思ったら、口調もなんだかおかしい。
そう、なぜか吸血鬼ルナが今も体を支配しているのである。
「しかし、なぜだ。なぜ吸血したのに姿が戻らぬ。妾は満に成り代わるつもりはないというのにな。……まったく面妖というしかないな」
額に指先を当ててため息を漏らす。
「だが、妾が先にこのめぇるとやらに気がつけたのは僥倖。満であれば、おそらく取り乱したであろうな」
吸血鬼ルナはぶつぶつと独り言を言いながら、問題のシーンを再生している。
そこでは確かに、光月ルナが着替える画面の奥に、自分が立っているのが映っていた。配信がどんなものか覗きに来たのが失敗だったなと思う吸血鬼ルナなのである。
「とはいえ、解析されてもはっきりとは分かるまいて。満にこれらのものを提供している人物に口裏を合わせてもらえば、それとなく事態は収束するだろう」
動画の確認を終えた吸血鬼ルナはそのように結論付けていた。
「まぁ、そんなことよりも元に戻らぬ姿の方が問題だな。吸血衝動があるというわけでもないのだが、まったく面倒なことになったものだ」
椅子にもたれ掛かってため息をつく吸血鬼ルナ。
「仕方あるまい。今日はこのまま満のふりでもして過ごすとしよう。妾は満の記憶を共有できるが、妾の記憶は満には共有できぬ。このまま一日経っていたら、驚くだろうな」
不測の事態に、もう一度ため息をつく。
ひとまず現状は諦めて、服を着替えることにした吸血鬼ルナなのであった。
もこもことしたハイネックのセーターにミドル丈のスカートと黒のタイツを穿いて、吸血鬼ルナは満の家族の前に姿を現す。
「おはよう」
「あら、おはよう。今日は女の子なのね」
「うん、どうして変わらないけど、起きたらこうなってたよ」
吸血鬼ルナは、満のふりをして受け答えをしている。
ところが、母親がくすくすと笑い出した。どうして笑っているのか、満の父親と吸血鬼ルナは理解できなかった。
「息子のふりがうまいですね」
「お、お母さん、なにを言っているのかな」
母親の言葉に、吸血鬼ルナはごまかそうとする。
吸血鬼ルナの目の前で、母親はにこにことした笑顔を絶やさなかった。
「毎日のように見ている私の息子を、私が見間違えるとでも思ったかしらね」
ある意味正論をぶつけられて、吸血鬼ルナは黙り込んでしまった。母親というのは怖いものだったのである。
「母さん、なにをいってるんだ」
ただ、父親の方は騙せていたようで、反応に温度差があった。
「あなたは黙ってて」
母親がこういえば、父親は黙るしかなかった。
「いやはや、さすがは母君。完璧に満を演じたつもりだったが、見抜かれるとは思わなんだよ」
「言ったでしょう? 母親を甘く見ないでって」
「うむ、その意味、よく分かったぞ」
吸血鬼ルナは観念していた。
だが、吸血鬼ルナにはよく分からない状況だった。物心がついた頃からずっと一人だっただけに、吸血鬼ルナには家族というものが分からなかった。
ただ、自分の血筋が真祖の吸血鬼だということだけは、血が教えてくれたのでよく理解していた。
「まったく、何を話してるんだかな。俺はそろそろ会社に行くからな。これ以上俺が気になるような話はやめてくれ」
時計を見ると6時半を回ったあたりだ。
「分かったわ、あなた。気を付けていってらっしゃいね」
「ああ、いってくる」
挨拶を交わして父親の出勤を見送る母親。それが終わると、改めて吸血鬼ルナと向かい合った。
「さて、どうして満が表に出てきていないのか、ちょっとお話はいいかしらね」
「いや、それが分かれば苦労はせぬ。妾も状況が分からないのだからな」
迫りくる母親に、吸血鬼ルナは思わずたじたじになってしまった。
「満の体に戻れば、妾は表に出てこれぬ。認めたくはないが、妾は外に出たくて仕方がないということなのだろうな。血を吸ったというのに、引っ込まぬことが何よりの証左だ」
「満はどうなってしまうのかしら」
母親は当然の質問をぶつけている。
「妾が眠れば、この体の意識は満に戻る。片方が眠れば、もう片方が起きるという状態だな。だが、心配は要らぬぞ。両方が眠ればちゃんと体は休むからな、先程までみたいに」
「それを聞いてひとまずは安心したわ」
母親はほっとしていた。
「だが、今日のところは満は休ませておこう。昨日の配信でかなり疲れておるからのう。今の状態なら、妾でも昼に行動することができる。必要ならば妾が同行するぞ」
「ええ、ありがとうございます。でも、満には満のやりたいことがあるでしょうから、そちらを優先させて下さい」
「ふむ、母君がそう仰るのなら、それに従おう」
その後、しばらく母親と他愛のない話を続けていた。母親が本格的に家事をするというので、吸血鬼ルナは満の部屋に戻っていったのだった。
「ふむ、どうして男の体に戻らぬのか分からんな。吸血衝動はまったくないというのに、不思議なものだわい……」
戻れないことに焦りを感じた吸血鬼ルナだったが、この日はお昼まで満の代わりに冬休みの宿題やSNSのチェックなどを行ったのだった。