第60話 大人の女性たちの会話
「た、ただいま……」
満は家に帰ってきた。
「おかえりなさい。満、大丈夫? 顔色悪いわよ」
出迎えた母親が満を見て心配そうな表情をして駆け寄ってくる。
靴を脱いで玄関を上がった満は、手を前に出して母親を制止する。
「大丈夫だから。多分、ルナさんの影響だから血を吸えば大丈夫とは思うけど、僕にはそんな勇気はないよ」
「まぁ、血を吸えばいいのね。だったら……」
「やめて母さん。心配なのは分かるけど、僕に一線を超えさせないで……。寝たら、ルナさんに交代するだろうから、それからにして欲しいかな」
母親の言葉を途中で遮って、どうにかうがいと手洗いを済ませて自分の部屋へと戻っていった。
階段を上っていく様子はどう見てもふらついており、母親は心配そうにその姿を眺めていた。
しばらくすると、満が再び下に降りてきた。
やっぱりふらついており、その様子を見て満の母親はトマトジュースを差し出していた。
「すまぬな、母君」
「まぁ、その言い方はルナさんなのね」
「うむ。よほど消耗がこたえたのか、気を失ってしまったようだ。まあ、学校で少々問題が起こりかけたことも負担だったのだろうな」
「問題?」
吸血鬼ルナの発言に、思わず表情が険しくなる母親だった。
「いや、なにもそこまで大した問題という話ではない。ただ、満は男ではあるが、妾の姿の時は女であろう? となれば、おのずとその問題が何かが見えてこよう」
「ああ、体育の授業というわけね。確かに、男の子である満には厳しかったかもしれないわね」
吸血鬼ルナが話した内容にすぐに察して理解してしまう母親だった。
腕を組んで頷く母親の目の前で、吸血鬼ルナは差し出されたトマトジュースを飲んでいる。
やがて、とんでもない音が響き始める。どうやらトマトジュースを飲みきってしまったようだ。
「むぅ……。トマトジュースでは気晴らしにもならんな。やはり少量でも血を吸わねばいかんか」
空っぽになった紙パックを手でつまんで、吸血鬼ルナは困惑した表情を浮かべている。
「だから、私の血を吸えばいいといったのですけれどね」
「いや、妾も満の気持ちを考えるとそれはできんな。第一、吸血鬼に血を吸われてどうなるかというのは、妾にも分からん話だしな。こないだの人間はうっかり熱を出して倒れておったわい」
「あらあら……」
吸血鬼ルナは苦い表情をしながら肘をついて話している。その話を聞いて、満の母親もちょっと困ったような表情をしている。
熱を出したと聞いて、自分がそうなっては満はもちろん、夫にも迷惑が掛かってしまうからだ。
「こんな性質だから、妾は電脳空間とやらに封印されたんだろうな。二度と現世に出てこれぬようにとな」
自分が封印された理由をいろいろと思い浮かべてみて、吸血鬼ルナは大きく長いため息を吐いた。
そのままテーブルに突っ伏す吸血鬼ルナの姿に、同情を禁じ得ない満の母親だった。
「やっぱり、私の血を吸いますか?」
「やめておくれ。満に嫌われたくはないぞ。そんなことを言うくらいならトマトジュースをもっと持ってくるのだな。血の代わりにはならんが、一番気を紛らわせられるものだからな」
「分かりました、やめておきます」
強く吸血鬼ルナに言われて、満の母親はおとなしく引き下がった。
「しかしだ。人間とはなかなかに面白いものだな。ここまで関わったのは初めてだから、見えるものがあれこれ新鮮でいいというものだ」
「何かあったのですか」
テーブルに肘をついて顔を上げるルナがこぼした言葉に、満の母親が反応している。
「なあに、人間とのかかわりは少ないが、妾は結構心の機微には聡くてな。満の幼馴染みに香織とかいう女がおるだろう?」
「ああ、いますね。すっかり付き合いはなくなりましたけど、昔はうちにもよく来てくれたんですよ」
「ほうほう、やはりそうか。付き合いはなくなっておるが、気持ちは切れておらぬようだぞ。あっ、これは満には内緒だぞ」
吸血鬼ルナは発言するや否や、その口を両手で慌てて押さえていた。
それというのも、お互いの情報が筒抜けになる時があるからだ。満の意識が起きてしまえば、今ルナが喋っていること、考えていることが筒抜けになる可能性が十分考えられる。なにそれ怖い案件である。
「分かりました。やっぱりこういうのは本人たちが解決するのが一番ですからね」
満の母親はおかしそうに笑っていた。
「ああ、そうだ。そろそろ買い物に行ってきますね。900mlのペットボトルが売っているでしょうから、それでも買ってきましょう」
「うむ、悪いな。今の時間、妾はまだ外へは行けぬ。それに、人の多いところで衝動に駆られて吸うわけにもいかんしな。部屋で横になって休んでいることにするぞ」
「分かりました。帰ってきたらお渡ししますので、ゆっくり待っていて下さい」
満の母親は夕方のタイムセールに合わせて出かけていった。
一人となった吸血鬼ルナは、ひとまず制服から私服に着替えて、いつもの満のように行動して母親が帰ってくるのをひたすら待つことにしたのだった。