第364話 小麦色の夏
断るに断れなかった満は、それから毎日イリスに呼ばれてダンスレッスンを受けることになった。もちろん、男に戻っている日もである。
「あう……。今更だけど、男の時と女の時じゃやっぱり感覚が違いますね」
「そりゃまあ、そうね。そもそも男女で骨格が違うから、満くんの場合だと、その胸部の違いも影響してるかもね」
「うう、なんであんなに胸が大きいんだよ、僕は……」
今さらながらに嘆いている満である。
「土日のイベントはルナちゃんとして呼ぶから、ちゃんと女の子の状態でいられるようにしておいてちょうだいね」
「わ、分かりました……」
イベントも差し迫った日に、そんなことを言われてずいぶんと落ち込む満である。
気が付けば駅前で行われる夏祭りイベントも、三日後に差し迫っていた。
イリスに送ってもらって家に戻った満だったが、予想外な来客が家を訪れていた。
「やっ、満くん」
「はい、ボーイ」
「小麦さんと……グラッサさん?!」
そう、小麦とグラッサが家にやって来ていたのだ。どういうことなのか理解が追いつかない満は、目を何度もまばたきさせている。
「いよいよ明日、私たちは帰ることになっちゃったのよ。それで、挨拶くらいはしておこうと思って寄らせてもらったわ」
「あっ、もう帰っちゃうんですね」
「ええ。そもそもあまり長居をするつもりはなかったですし、あのことに関してはボーイが頑張るしかないわけだからね」
「あっ、ルナさんのことか……」
グラッサの話が一瞬分からなかった満だが、すぐに何か分かったようだ。
そもそもグラッサが急に日本にやって来たのは、夫と娘から相談を受けたためだ。
家のことであれば、遠くからでもあれこれアドバイスを送れるのだが、ルナ・フォルモントのこととなれば直接見るしかなかった。そのためだけに、わざわざ日本に来てくれていたのだ。まったくありがたい話だ。
しかし、結局は満自身の頑張りでどうにかするしかないようだったのだ。
「力になれなくてすまないね」
「いえ、グラッサさんが相談に乗ってくれただけでも、とても助かりました。なんとしても、自分が元に戻れるように頑張ります」
「ええ、頑張ってね」
満はグラッサと約束を交わしていた。
「ママばっかりずるいなぁ。私も満くんと話をしたいのに」
小麦が横でむすっとした顔をしている。
「ドーター、ごめんなさいね」
グラッサは小麦の顔を見て、おとなしく満との話を終わらせる。
ところが、いざ話をしようとすると、小麦はちょっと恥ずかしそうにし始めた。今さらながらに緊張し始めたらしい。
「まったく、私のドーターながらに、私と違って変なところで緊張するものだわね」
「ママ、ちょっと黙っててよ……」
笑われたものだから、恥ずかしそうにしながらも文句を言っている。
グラッサと一緒になって満の母親も笑っているようだ。
「青春ってやつですね」
「お、お母さん?!」
母親の言葉に、満も困ってしまっているようだ。
まったく、なんとも初々しい反応を見せる二人である。これにはそういった経験をしてきた満の母親とグラッサはにこにこせざるを得ないのである。
「小麦さん、部屋に行きましょう」
「え、ええ」
母親たちの目に耐えられなくなったのか、満は小麦を連れて部屋へと逃げ込んだ。
その様子を見た満の母親は、グラッサに声をかける。
「こうなったら、うちでお夕飯を食べていかれますか?」
「いや、ダーリンに悪いので、遅くなっても家で食べますよ」
「そう。そちらの夫婦の仲もよいのですね」
「ええ。離れて暮らしてもいても、心はいつもそばにいます」
「まあ、うらやましいご関係ですね」
満と小麦が部屋に行ってしまったので、満の母親はグラッサとしばらく話をすることにしたようである。
部屋に戻った満は扉を閉めると、かなり呼吸が荒れているようだった。
「み、満くん、大丈夫?」
「は、はい……。大丈夫ですよ?」
ゆっくりと顔を向けてくる満だが、どう見ても大丈夫そうにない。今日も日中ずっとダンスの練習をしていたのだから、相当疲れているようだ。
「まったく無理をしないの。そんなんじゃ、私、安心して向こうに戻れないじゃないのよ」
「ご、ごめんなさい」
困ったように小麦が言うと、満はつい謝ってしまっていた。
「あたっ!」
次の瞬間、小麦が満にデコピンをしていた。
「謝らないの。まったく、心配するのは私の勝手なんだから、満くんが謝る必要はないんだからね」
唇を尖らせながら話す小麦の顔を見て、満は自分のおでこを何度もさすっていた。デコピンは結構痛かったみたいだ。
「むしろ謝るのは私の方。ママたちがからかうから、満くんを走らせちゃったんだからね。舞お姉ちゃんに付き合わされてダンスレッスンして疲れてるのに」
小麦はそう言いながら、むすっとした顔をしていた。
目を逸らしていたかと思うと、再び満を見る小麦。
「満くん、ちょっと目を閉じてもらってもいいかな」
「えっ? う、うん」
急に言われて、満は目を閉じる。
次の瞬間、満の左頬に何かが触れる。あまりにも突然のことに、満は目を開けて飛び退いてしまう。
「こ、小麦さん?!」
「にししし。まだ本命はお預け。私は幼馴染みに負けるつもりはないからね」
小麦はこう言うと、満の部屋の扉を開けて出ていこうとする。
「それじゃ、私は明日、向こうに戻るから。舞お姉ちゃんのお手伝い、頑張ってね、満くん」
ひらひらと手を振ると、小麦はそのままばたばたと階段を降りていった。
あまりにも突然のことに、満はしばらくの間、その場を動けずにいたのだった。




