第350話 近づく限度
小麦と会った夜の日のこと、満は屋根の上に登っていた。
いや、満の体ではあるものの、そんなことができるのは一人しかいない。
「ふむ、さすがに真夏の夜は暑いものだな」
そう、ルナ・フォルモントである。
満が女性となっている日の夜は、高確率で姿を見せるルナではあるが、この日ばかりはちょっと様子が違っていた。
「満が、昼の世界でも苦しむようになってきおったな。今日の疲れ具合は、ちょっと妾でも心配になる感じだ」
普段のルナは、満の体の中からずっと見守っている。真祖の吸血鬼には休息など本当は要らない。だが、活動するだけの意味もないので、日中は極力体力を温存するために休んでいる。
あまり人間に興味のなかったルナも、満と過ごすようになってからは、かなり人間の機微にも敏くなってきている。
「あの疲れ具合は、間違いなく吸血鬼化が起きてきておる。妾の瞳も普段は緑色だが、血を吸う直前には赤く染まる。満にも、それが起きぬとは限らない」
自分の目の辺りを触りながら、ルナは何か危機感を抱いているようだった。
「満が吸血鬼になってしまわぬように、ことを急がねばならぬな。退治屋を頼らねばならぬといかんとはな、情けないものだ」
ルナは屋根の上で立ち上がる。
「なんとしても、グラッサと連絡を取らねば」
強く決意するかのようにつぶやくと、ルナは屋根から飛び去っていく。
そうしてやって来たのは、芝山家だった。
夜で迷惑なのは分かってはいるが、ルナとしてもあまり悠長にしていられなかった。
満が活動している間は外には出られないし、話は早い方がいいかと思ったからだ。
能力を使って芝山家の窓のカギを開けると、中へと侵入していく。さすがに真夜中に玄関の呼び鈴を鳴らすようなことはしなかったようだ。
とはいえ、どちらにしても非常識である。ルナは分かっていても、焦りもあって悠長に構えていられなかったのだ。
窓のカギを再度かけると、小麦の父親の部屋へと向かっている。
「誰だ」
「この気配は、ルナ・フォルモントだよね?」
侵入した部屋から出ようとしたその時、部屋の中に声が響き渡る。
「なんだ、起きておったのか」
「さすがに私でも気が付くよ。グラッサと違ってただの人間だが、影響は受けているみたいなんでね」
声が響くと同時に電気がつき、小麦とその父親が姿を見せた。
「ルナさん。何ですか、こんな時間に」
駆け寄ってきた小麦が、ルナの両腕をつかみながら質問をしている。
小麦の勢いにもまったくルナはひるまず、ちょっとびっくりはしていたようだが、すぐに笑いかけていた。
「なに、ちょっと相談事があってな。どうも妾だけでは解決できそうになくて、退治屋の知恵を借りたいのだ」
「……グラッサが必要ですか?」
「おそらくはな」
「分かりました」
父親は小麦に飲み物を用意するように伝えると、居間のテーブルを囲む。
くいっとジュースを飲み干す様子を、父親は心配そうに見つめている。
「もしかして、満くんにかなり影響が出てきているということですかね」
「まあ、そうだな。第一女性化することが頻繁ということからしておかしいことだ。人格が変化するというのはまあまああることだが、体までが変化するということはまずありえん。大きな異変ではあるが、妾もそんなこともあるものだなという感じで見ておったのだが、おちおちもしていられなくなってきた」
「といいますと?」
父親はずいぶんと興味深く聞いているようだ。
「吸血鬼の特徴が、満にも出始めてきておる。そのうち、日中での活動が困難になるやもしれんな」
「具体的には?」
「日中、つらそうにすることが増えてきておる。気温と直射日光が強くなっていることも原因ではあるが、吸血鬼化が進んでいるのなら、そのうち皮膚が焼けるということも考えられるだろう。このような服も、そのうち着ていられなくなる」
そう言うと、ルナは自分の体を見る。この日の寝間着はセパレートのパジャマだが、キャミソールとショートパンツという夏用のものだ。
このまま吸血鬼化が進めば、このような格好では一瞬で皮膚が焼けてしまう。かといって長袖でも大丈夫かというと、そういうわけでもない。
「それは困ったものね。満くんにはこれからも、真家レニと一緒に活動してもらいたいのに」
小麦も困った表情を浮かべている。
「妾が自力でどうにかできればいいのだが、思った以上に親和度が高くてな。退治屋に頼らざるを得んのだよ。それこそ、あのイリスとか名乗っている小娘でどうにかできればよいが、こういうことはグラッサが一番適任だろうて」
「確かにそうだな。向こうならまだ夕方前だ。連絡を入れてみることにしよう」
「すまんな。居心地が良すぎて甘えておった妾のせいで、迷惑をかける」
「なに、困った時は助け合うってもんだ。小麦が好いている相手なんだ、どうにかしてやりたいのが親ってものだろう」
「もう、パパったら!」
父親からとんでもないことを言われて、小麦はポカポカと父親を叩いている。
「妾としてはこれ以上、満に迷惑はかけられぬ。妾も努力はするし、結果はどうであろうと妾は受け入れる。頼む、この通りだ」
ルナ・フォルモントが頭を下げると、小麦も父親も困惑しているようだった。なにせそこには、かつて真祖として降臨していた威厳など、みじんも感じられなかったのだから。
「頭を上げて下さいよ。すぐにでもグラッサには連絡をつけますから。あなたがそんなに弱気では、満くんにも悪影響が出かねません。自信を持って堂々としていて下さい」
「すまぬな。妾もどうしていいか分からぬゆえに、らしくない姿を見せてしまったな」
ルナは顔を上げている。
「このことは満には内緒にしておいてくれ。体を同じくするものとして、心配はかけられぬ」
「分かりました。では、私はすぐにでもグラッサに連絡します。小麦、玄関から帰らせてあげなさい」
「はい、パパ」
今日のところは話をここで終わりにして、ルナを普通に帰らせることにした。
その帰り道のルナは、以前に見たような覇気をほとんど感じなくなっていたため、さすがに小麦も心配になってくる。
そろそろ二年になる満とルナ・フォルモントの共存は、ひとつの転換点を迎えることになりそうだった。




