第326話 風邪
翌日、満は学校を休んだ。
「37.2℃、風邪ね」
満が横になる隣には、母親が体温計を手に看病している。
「うう、まさか寝込むなんて思ってもみなかったよ……」
満は顔を真っ赤にしている。熱なのか恥ずかしいのか分からないが、とにかく真っ赤である。
「雨の中、あれだけ濡れればね。吸血鬼の力があるから大丈夫かと思ったけど、こういうところは人間のままなのね」
「みたいだね……」
熱を測り終えた母親は、額に濡れタオルを乗せながら話をしている。
「咳はないみたいだし、今日のところは風邪薬を飲んでお休みね。連絡はしておいたから、ゆっくり休みなさい」
「うん、ごめんなさい」
満は口元を隠すように布団をかぶりながら、母親に謝っている。
「いいのよ。子どもを心配しない親なんて普通はいないわ。今日は久しぶりに甘えなさい」
「うん、お母さん……」
母親は立ち上がって部屋を出ようとする。その時、あることに気が付いた。
「あら、そういえば昨日は男の子だったから、今日は女の子かと思ったんだけど、変身してないわね」
「お母さん。それって今、気にするところ?」
満は冷静にツッコミを入れている。風邪とは思えないくらい、本当に冷静沈着なツッコミである。
あまりに的確なツッコミに、母親は思わず笑ってしまう。
「元気はあるみたいだし、ひと晩眠っていれば治りそうね。りんごでもむいてくるから、ゆっくり休んでなさいね。今日はパソコンもスマホも触っちゃダメだからね」
「はーい……」
母親に注意された満は、不満そうに返事をしておとなしく横になったままになっている。
誰もいない部屋では、外で降り続く雨の音がかすかに聞こえてくるだけだった。それというのも配信用にカーテンを分厚くしたので、外の音をほとんど遮断してしまうからだ。
これだけ音が静かだと、満はかえって落ち着かないようである。
あまりの無音に満が耐え切れそうになくなった時、ちょうど扉が開いて母親が入ってきた。
「はい、りんごをむいてきたわよ。ひとまずこれだけでも食べて落ち着きなさい」
「お、お母さん……」
満はつぶやくように喋ると、ゆっくりと体を起こしている。
胸はぺったんこなので、やはり今日の満は男の子のようである。
額に乗せてあったタオルを自分の脇に置くと、満は母親に手渡されたお皿を持って、ひとつずつ味わうようにりんごを食べている。
「それにしても、満」
「なあに、お母さん」
「なんだか、泣きそうな顔になってるけど、何かあったのかしらね」
母親に言われて、満の手がパタリと止まる。
やっぱり親には隠し事はできないようだった。
「うん、実はね……」
こうも言い当てられてしまっては、満も話してしまいそうになる。
ところが、母親は黙ったまま、下を向く満の口にりんごを放り込んで黙らせてくる。
「ほ、ほはあはん?」
りんごを口の中に頬張ったまま、思わず固まってしまう。
「無理に話さなくてもいいわよ。大丈夫、お母さんには分かっているから。今日のところは、まずは風邪を治すことを考えてなさい。話したいことは、治った後でゆっくり聞くから」
母親はにっこりと微笑んでいる。
満はその優しそうな顔を見ながら、しゃくしゃくとりんごを食べている。
ごくんと飲み込むと、母親の顔を見てこくりと頷いていた。
「うん、分かったよ。聞かれたから答えようと思ったけど、お母さんがそう言うのなら、今はそうする」
「うんうん。満がそこまで考えるなんて、だいたい風斗くんや香織ちゃん絡みだもの」
「ぶっ!」
母親が頬に手を当てながら、反対の手をひらひらさせて言い放っている。まさにその通りなために、満は思い切り吹き出していた。
「お、お、お母さん?! びょ、病人をからかわないでよ!」
図星な満の顔は、もう耳まで真っ赤である。
「だてに満の倍以上は生きてないわよ。大体、学校から帰ってきた時の様子で、察しがつくわ。朝はなんともなかったのに、帰ってきたらずぶ濡れなのにお風呂にも入ろうとしない。そりゃ風邪ひいて当然だし、持っていた傘もないってことは、ね?」
「ううう……。鋭すぎるよ……」
満はりんごを自分の横に置くと、そのまま腕を組んで顔を隠すように前かがみになってしまった。
「満ってば、自分の気持ちはそこそこだけど、周りのことなんてほとんど分からなかったでしょ。いずれこういうことが起きるとは思ってたからね」
母親は、満の肩にタオルケットをかける。
「放課後には二人がお見舞いくるでしょうね。それまでには、気持ちをしっかりと落ち着けておきなさいよね」
最後にそうとだけいうと、母親は濡れタオルを一度回収していた。
「それじゃ、新しい濡れタオルを持ってくるから、それまでにそのりんご、食べちゃっておいてね。その後はもう一回ちゃんと寝るのよ」
「もう、子ども扱いしないでよ!」
あれこれ言われて、満は恥ずかしそうに反発している。
その姿を見て、母親は満足そうに部屋を出ていく。
再び部屋に一人となった満は、なんともいえない気持ちで、黙々とりんごを頬張るのだった。
この日の外は、しとしとと雨が降り続いている。