第165話 鈍い満
六月に入って最初の週末が明ける。
男の状態で学校にやって来た満は、香織と挨拶を交わす。
「おはよう、花宮さん」
「おはよう、空月くん。ちょっといいかな?」
何か用があるらしく、香織が近付いてくる。
「なに、花宮さん。そんなに近くに寄ってきて」
あまりにも近いので、満が少し動揺しているようだ。
「ごめんね。この話題はあまり人に聞かれるわけにはいかないのよ。でも、昼休みまで待ってるのも耐えられなくてね」
「な、なんなの?」
ものすごく真剣な表情で話す香織に、満はかなり戸惑っているようだ。
ところが、香織もいざとなると話に困っているようで、周りをちらちらと見ている。
ようやく意を決して、満に耳打ちをするべく顔を近付けさせる。
「空月くん、プールの授業どうするの?」
「あ……」
ここで香織が話を持ちかけたのは、下旬から始まる体育のプールについてだった。
初期の頃にあった日中に突然変身するということはなくなったものの、満は男の時と女の時がある。
体操服の場合は、男女ともにデザインが共通だったので問題がなかった。だが、水着となるとそうはいかない。基本的には男女で大きくデザインが異なるからだ。
「そっかあ、ルナさんの姿の時の水着を用意しないといけないのかぁ……。プール開きっていつだっけ」
「去年と同じなら、二十日頃のはずよ。それまでに用意しなきゃね」
「分かった。女になってる日に頼もうかな。お母さんだと、絶対体育の分っていうのを忘れていろいろ買いそうだから」
「えー、体育用だけで済ませるの? 絶対いろいろ似合うと思うのに」
満が体育用の水着だけで済ませようというと、香織がものすごく残念そうな顔をしている。
みんなして少女となった満にいろいろ着せようとしているようである。
「やめてほしいな。僕は男の子だよ。絶対やだからね」
満が強く嫌がってくるので、さすがに香織も無理強いはできないと諦めることにした。
「分かったわよ。それじゃ、女の子になっている日の放課後、私と一緒に買いものね。いいかしら」
体育用の水着だけという条件を強調して、満は香織からの申し出を了承していた。どこまで水着が嫌なのだろうか。
いろいろとあったものの、香織は満と一緒に出掛ける約束を取り付けられたので、心の中でものすごく喜んでいた。
そして、意外とその日は早くやってきた。
「うう、まさか翌日になるなんて……」
放課後、風斗には香織と約束があるからと先に帰ってもらっていた。
そうやって、満は香織と一緒に学校の制服の取り扱いのあるお店に行く。そこなら体操服や体育用の水着も簡単に揃うからだ、
今日も梅雨空で、いつ雨が降るとも分からない状況。雨の降らないうちに用事を済ませようと、二人はお店へと急いだ。
お店に到着すると、店員に用件を話す。
すぐに採寸をしようということになり、満は店員に連れられて奥へと向かっていく。
「えっ、ちょっと。僕一人だけ?!」
「そうですよ。基本的に採寸は店員とお客様との間でワンツーマンですからね。すぐに終わりますから我慢して下さい」
「うう、本当に約束ですからね」
採寸されるだけだというのに、満は今にも泣きそうな顔をしていた。
そうして採寸を終わらせた満は、この世の絶望のような表情を浮かべていた。
「うう、何か大切なものを失った気がする……」
どうやら満のショックは計り知れないようだった。
この状態の満には、香織はどう声を掛けていいのやら分からなかった。
どうにかこうにか体育用の水着を購入した満たち。
さすがアバター配信者としての収益があるために、今の満に支払うのは簡単な金額だったようだ。
「これでプールの授業も大丈夫だね」
「うん。早い内に思い出してくれてありがとう、花宮さん」
「えっ、うん……どういたしまして」
満がお礼を言うと、香織は顔を真っ赤にして照れている。
「どうしたの、花宮さん」
「ううん、なんでもないよ。ははは」
気になった満が声を掛けると、頬をかきながら照れ笑いを浮かべていた。
「でも、顔が赤くない? 大丈夫かな」
「へ、平気よ。最近暑いから、このくらいにはなっちゃうと思うよ」
心配する満に、香織は最近の暑さのせいにしてごまかそうとしていた。
「うん、やっぱり変だよ。花宮さん、ちょっと……」
満が何か言いかけたところで、雨が勢いよく降り始める。
「うわっ、傘、傘っ!」
急に降り始めた雨に、満たちは慌てて傘を差す。
「雨、降ってきちゃったね」
「そうだね。帰るまでもつかと思ったんだけどな」
傘を差した状態で、顔を見合わせた二人は、残念そうに笑い合っている。
「それじゃ、私は帰るね。今日は一緒に買い物できて嬉しかったよ。また学校で」
「あっ、花宮さん!」
雨で気が逸れたタイミングを使って、香織は慌てたように走り始めた。
不意を突かれてしまった満は、結局香織に詳しいことを聞けないまま一人その場に残されてしまった。
「急にどうしたんだろう。……また学校で聞こうかな」
気になって仕方のない満だったが、また学校で会えるからとこの場はとりあえず諦めることにした。
手に持っている水着の入った紙袋を手に、満もまた自宅への帰路へとついたのだった。