第117話 ママが帰ってくる
「久しぶりの日本ね。ダーリンとドーターは元気にしているかしら」
ある日、とある国際空港にサングラスをかけた金髪のスーツ姿の女性が降りたった。
話している内容からすれば、夫と娘がいるようだ。
「普段仕事一筋ですからね、たまにはきちんと直に顔を見せてあげませんと」
サングラスから覗く褐色の目が、きらりと光っている。
すらりとした立ち姿は、行き交う人たちの目を引きつけている。
「では、参りましょうか、日本の我が家へ」
女性はキャリーケースを引きながらタクシー乗り場へと向かっていったのだった。
―――
その頃の芝山家。
「パパーッ! 大変だよ!」
小麦が大騒ぎをしている。
「どうしたんだ、小麦」
在宅ワークをしていた父親が、小麦の呼ぶ声に驚いてバタバタと部屋へと駆け上がってくる。
ノックもなしに大きな音を立てて、小麦の部屋の扉が開く。
「急に大声で呼ぶなんてびっくりするじゃないか。一体何があったんだ、小麦」
部屋の中ではアイスを片手にパソコンの画面を指差して驚く小麦の姿があった。外ではちょっとギャル風にしている小麦も、部屋の中では意外ときちんとした服装を着ていた。
父親の声を聞いた小麦は、くるりと振り返って父親へと向かっていく。
「小麦、落ち着きなさい。アイスが床に落ちるぞ」
「あっ、ごめんなさい、パパ」
持っていたカップアイスを机の上に置く。
椅子に座り直した小麦は、改めて父親へと向き合う。
「小麦、大声を出した理由は何なんだね」
「実は……、ママが、ママが帰ってくるの!」
「な、なんだって!?」
小麦が伝えた内容に、父親はものすごく驚いている。
小麦が指差すパソコンの画面を見ると、確かにそこには母親からのメッセージが届いていた。
「なぜ私じゃないのだよ」
「パパの仕事の邪魔をしたくなかったんだと思うよ。ママはパパのこと愛してるし、仕事熱心だから邪魔したくなかったんだと思う」
「な、なるほどな……。あいつらしい話だな。小麦が驚いたら意味がないんだが」
事情を聞いて、父親は腕を組んで悩んだ表情をしている。
「仕方ないわよ、パパ。ママはパパが在宅してるなんて知らないんだし。……でも、本当にどうしよう。ママがいたら配信できないわ」
小麦は父親に言いながら、自分のことも心配していた。
母親が何日滞在するか分からないために、その間の配信をどうするかは問題だった。
なぜなら、母親は自分がアバター配信者をしていることを知らないからである。
「ママはいろいろとうるさいだろうからね。告知をしてしばらく休止するしかないな」
「だよね~……。アルバイトだけはやらせてもらうけど、受験生だもんね、いよいよ。はあ~……」
現状にため息しか出てこない小麦である。
父親からの勧めもあり、小麦は仕方なく真家レニのSNSアカウントを表示させて、当面の活動の休止をポストしたのだった。
「わわっ、みんな反応が早い。理由としては家の事情だし、書いたこと以上に言えないもんなぁ……。ママは厳しいから、知られたら絶対何か言われるわ」
「私も協力して、なるべくママには知られないようにするよ。しかし、なんだって急に……」
小麦も父親も急な事態に焦っている。
小麦の母親は少々ワーカホリック気味の仕事人間である。そんな母親が急に日本に戻ってくるとなると、驚かずにはいられないのだ。
さらに、小麦には別の懸念があった。
それはいわずもがな、ルナ・フォルモントのことだ。
ルナ・フォルモントという吸血鬼は、小麦の母親がかつてネット世界に封印した吸血鬼なのである。
その母親が帰ってきたということは、憑依という形ではあるものの現実世界に出てきたルナ・フォルモントと鉢合わせをする可能性がある。ましてや今は春休み中なので、その可能性はさらに高いのである。
悪い人じゃないなと思っている小麦にとって、どちらの味方をするかというのは実に悩ましいところだったのだ。
「ルナ・フォルモントとママを会わせるわけには、いかないわよね……」
「それは無理だろう。ママはその気になれば、微弱な気配すら感じ取れる。この近所に住んでいるのなら、気付かれるのは時間の問題だな」
「そんな……」
父親の話を聞いて、小麦は泣きそうな表情をしている。
娘にこんな顔をされては、父親は困ってしまうというもの。だが、どうにかしてやりたくてもどうにもできない。そのくらいに母親の存在というのは強いのである。
「下手に隠し立てするよりも、本人と顔合わせをさせた方がいいと思うな。ただ、どこに住んでいるのかが分からないから何とも言えないがな」
悩んだ挙句、父親は小麦にこう提案するしかなかった。芝山家では、母親の存在がそのくらい大きいのである。
「うう、困ったものだわ。バイトの帰りにでも出くわした時に連れてくるしかないかしら……」
小麦もすっかり困り果てていた。
なんといっても知っているアバター配信者とよく似ているし、先日の一件ですっかり仲良くなってしまった。ルナ・フォルモントとの間でのいざこざはできれば避けたいのである。
その日の芝山家は、母親対策に頭を悩ませることとなったのだった。